金沢市野町にある「にし茶屋街」。
にし茶屋街は金沢三茶屋街の一つ、約100mの通りにお茶屋が並ぶ。
にし茶屋街の一画にある公園。
にし茶屋街(西料亭)の沿革
加賀藩十二代藩主前田斉広は文政三年(1820)金沢町奉行山崎頼母らの口添えにより公許を与えて妓楼を区域を限定して集め 石坂茶屋町が出来あがり営業が開始された しかし天保二年(1831)には茶屋制度が廃止され さらに慶応三年(1867)九月に再び公許されるなど 幾多の変遷を辿りながら 百有余年の歴史と伝統の面影を今に伝えている。
茶屋街は上町(現在地)と下町に分かれ 上町は金沢での紳士の社交場としての役割を果たし 数多くの名妓を生んでその伝統と格式は現在でも受け継がれている。
茶屋街の入口にはかって大門があり番所が置かれて茶屋街の象徴でもあったが今は無い 茶屋街の建造物の特徴は 格子作りと掛行灯であるが 特に金沢の格子は桟が細くて間隔が狭いのが京都の島原や江戸の吉原と異なる点で以前は紅殻の漆で塗られていた。
島田清次郎 1899年(明治32年)―1930年(昭和5年)石川県石川郡美川町(現白山市)の生まれ、母・みつの実家で育つ。母の実家は金沢市内の茶屋街(西郭)で貸座敷も営み、この環境が島田の文学と性格に影響を与えた。
格子が美しい にし茶屋街の町並み。
にし茶屋街の前身の西の郭は1820年(文政3)、12代藩主斉広(なりなが)が公許を与えて妓楼地区を定めたのが始まりで、東の郭(現ひがし茶屋街)とともに誕生しました。かっての賑わいには及びませんが、今も木造のお茶屋と昭和初期に建てられた検番が道の両脇に並ぶ紳士の社交場として賑わう。夕方になると軒下に灯がともり、独特の風情を醸し出しています。