2017.11.29 Wednesday
京都の旅 その17 京都散策 島原、輪違屋
石碑「長州藩志士 久坂玄瑞の密議の角屋」が立つ、揚屋建築唯一の遺構「角屋」。
今も残る「島原の大門」。
島原 ・・・・・・しかし、明治以降の島原は次第にさびれてゆき、現在では揚屋の「角屋」、置屋の「輪違屋」、それに島原入口の「大門」、これら三箇所がわずかに往時の名残をとどめるものとなっている。
島原(しまばら) 豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞられて島原と称されるようになった。
島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催したとき、優れた傾城を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。
また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。 京都市
京都市下京区西新屋敷中之町にある置屋兼揚屋「輪違屋;わちがいや)。
案内板
輪違屋の正面
屋根のるシンボル(家紋?)と瓦部分に「高」の文字が刻まれています。当主の姓が「高橋」に由来する。
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かっては芸妓等も抱えていたが、現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれている。建物は昭和59年(1984)に京都市の有形文化財に指定された。(ウイキペディアより)