質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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長野の旅 その27 長野タウン(2) かるかや山・西光寺
西光寺-1
善光寺表参道(中通り)に面した「かるから山・西光寺」入口
西光寺-2
西光寺案内板
西光寺-3
刈萱山西光寺本堂 御本尊・木造刈萱親子地蔵尊像(来迎地蔵尊像)
西光寺-4
大師堂(園通殿)弘法大師が祀られ、刈萱親子との縁が深いお堂。
西光寺-5
 刈萱塚 鎌倉時代より信濃七塚の一つとして七百余年を経たる塚。
 左より千里御前の墓、刈萱上人の墓、石堂丸の墓。刈萱上人の墓は、石堂丸が父の菩提を弔うため九重の搭を建立、弘化4年3月善光寺大地震の折崩れ現在の五重の搭となっています。
西光寺-6
西光寺-7
「かるかや親子の対面」像
西光寺-8
 松尾芭蕉翁の碑 寛保3年(1743)10月12日芭蕉翁の50回忌を期して多くの俳諧師によって建立された翁の句碑としては信濃最古のもの 「雪ちるや 穂屋のすゝきの刈残し」
西光寺-9
 六地蔵憧(ろくじぞうどう) 六道(地獄・飢餓・畜生・修羅・人間・天)の衆生を救う菩薩のお姿を六体の浮彫りであらわした室町時代の作風であり素朴ながら柔和なお顔とやさしいお姿はまれにみるすぐれた作といわれている。
西光寺-10
西光寺-11
境内に建つ「善光寺七福神巡り第一番 寿老人」

JUGEMテーマ:写真

 長野駅善光寺口を出発し最初に訪れたのは、善光寺表参道(中央通り)に面した西光寺(さいこうじ)です。西光寺境内には、四百年以上前に建立した開山刈萱上人、中興石童丸上人、その母千里御前の墓石三塔が祀られています。また善光寺七福神巡りの第一番・寿老人も祀られています。
| 長野の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
長野の旅 その26 長野タウン(1) JR長野駅
長野駅-1
長野駅自由通路・コンコースを善光寺口へ
長野駅-2
明るくきれいなエントランスが気持ちいいです。
長野駅-3
 コンコースに掲示されている長野オリンピックのロゴマーク。1998年(平成10年)に長野で開催された冬季オリンピックは2月7日〜2月22日まで、72の国(地域)から選手・役員4638人が参加、延べ144万2700人の観客が会場に集まりました。日本は金5 銀1 銅4 計10個のメダルを獲得。記憶に残る冬季オリンピックでした。
長野駅-4
善光寺口へ
長野駅-5
長野駅善光寺口からみる駅前の風景
長野駅-6
長野駅-7
木目彫の柱と提灯が目に付く「善光寺口」。
長野駅-8
長野駅善光寺口、ちなみに反対側は「東口」です。
長野駅-9
MIDORI長野 2015年3月にグランドオープンした駅ビルで、地下1階から地上5階の建物に112店舗があります。
長野駅-10
 長野駅善光寺口広場の噴水の中に立つ「如是姫(にょぜひめ)像」。
像は長野駅には背を向けていますが、向いているのは善光寺の方で、善光寺に対して華をささげています。如是姫があるとき流行した悪疫にかかりどんな治療をしても治らなかった。その時助けたのが善光寺御本尊である阿弥陀如来です。その感謝を示して善光寺に向いて華を捧げています。
長野駅-11
灯籠越しにみる長野駅善光寺口
長野駅-12
これより善光寺へ向かいます。

JUGEMテーマ:写真

 長野駅へ降りて善光寺口へ向かう自由通路・コンコースを歩きます。天井が高く明るいエントランスが解放感と清潔感があり思わず撮影したくなります。また、駅広場に面した外観は、長野の門をイメージした大きな庇(ひさし)と木目調の列柱に圧倒されます。
| 長野の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
長野の旅 その25 長野市小島田町 八幡原史跡公園
八幡原史跡公園-1
八幡原史跡公園に掲示されている「川中島大合戦図」
八幡原史跡公園-2
八幡原史跡公園-3
史跡公園の松林の中にたたずむ「八幡社」
八幡原史跡公園-4
八幡社御由緒
八幡原史跡公園-5
川中島古戦場八幡原
八幡原史跡公園-6
公園内に建つ「武田信玄(左)・上杉謙信(右)一騎討像」
八幡原史跡公園-7
像の傍らに立つ「風林火山」の旗
八幡原史跡公園-15
「毘」「龍」の旗
八幡原史跡公園-9
 「執念の石」 武田・上杉両軍三万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄になった武田信玄をめがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隅(はらおおすみ)が、傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信をめがけて、ひと槍突きだした。苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭(さんず)をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上ってその場を狂奔し去ったため、信玄は危う虎口を免れることができた。一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隅は、傍らにあったこの石を槍で突き通したといわれる。(掲示板より)
八幡原史跡公園-10
 三太刀七太刀之跡(みたちななたちのあと) 
 永禄4年(1561)9月10日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。上杉謙信は紺糸縅(こんいとおどし)の鎧に萌黄緞子(もえぎどんす)の胴肩衣、金の星兜に立烏帽子白妙の練絹で行人包、長光の太刀を抜き放ち、名馬放生に跨がり戦況の伸展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ信玄の本陣を強襲した。この時の武田信玄は諏訪法性の兜、黒糸縅の鎧の上に緋(ひ)の法衣、軍配を右手にもち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。この信玄をめがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。(掲示板より)
八幡原史跡公園-11
 首塚(くびづか) この塚は以前は屍塚(かばねつか)と呼ばれ、1561(永禄4)年9月10日の戦いの後、武田方の海津城主 高坂弾正(こうさかだんじょう)が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(六千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。
 これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。このことが乱世に咲いた美学と褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。
 ここから東南へ約180mのところにも同じく大きな首塚がある。昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、現存する大きな塚は二つだけであり、小さな塚は各所に点在している。(掲示板より)
八幡原史跡公園-12
 逆槐(さかさえんじゅ) 山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄4年(1561)9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍挟撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣をおいた。このとき土塁の土どめに自生の槐(えんじゅ)の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その約四百年を経てこの巨木に成長したものと伝えられる。周囲に低い土塁のあとが見えるのは、信玄本陣を示す桝形(ますがた)陣形跡である。(掲示板より)
八幡原史跡公園-13
八幡原史跡公園-14
緑豊かな公園内の風景

JUGEMテーマ:写真

 八幡原史跡公園(川中島古戦場)は長野市小島田町にあり、武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いの中で、永禄4年(1561)第四次合戦(八幡原の戦い)に於いて、武田軍が本陣をこの付近に置いたと伝えられます。ここでの戦いが最も激しく、副将・武田信繁、山本勘助らの勇将が戦死しました。
 八幡原史跡公園には、古くからの八幡社が静かにたたずみ、境内には信玄・謙信一騎討像や三太刀七太刀之跡の碑、首塚などがあります。また、公園内には桜が植えられ、花の時期は花見客で賑わうそうです。今回、松代町から長野駅へバスで帰る途中、バス停「川中島古戦場」で下車、徒歩ですぐのところにあります。
| 長野の旅 | 19:22 | comments(0) | - |
長野の旅 その24 長野市松代町(12) 史跡松代城跡
旧松代藩鐘楼-1
旧松代藩鐘楼-2
旧松代藩鐘楼-3
旧松代藩鐘楼(市指定文化財)
史跡松代城跡-1
史跡松代城跡 太鼓門と太鼓門前橋
史跡松代城跡-3
 史跡松代城跡 松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との『川中島の合戦』の際に、武田方の前進基地として築かれた海津城(かいづじょう)がその始まりといわれており、永禄3年(1560)頃に普請が完了したものと伝えられています。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃、二の丸・三の丸を整備し、土塁を石垣に築きなおしたものと考えられています。元和8年(1622)に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。
 松代城は、北西側を流れる千曲川を自然の要害として造られた平城で、最奥部に本丸、南側に城下に向けて二の丸・三の丸・花の丸などの曲輪を構えていました。明治5年(1872)の廃城以降、建物は無くなったものの、昭和56年(1981)に本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。(掲示板より)
史跡松代城跡-4
史跡松代城跡ごあんない
史跡松代城跡-2
本丸側からみる「太鼓門」。
史跡松代城跡-5
 本丸御殿跡 本丸内には、江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための御殿がありました。調査では、建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など、享保2年(1717)の火災で焼失した御殿の痕跡が多数見つかっています。しかし度重なる水害の影響により、明和7年(1770)に城の南西に位置した花の丸に御殿を移しました。(掲示板より)
史跡松代城跡-6
 石垣 松代城は、本丸の周囲や出入口などの重要な部分に石垣を用いました。大小さまざまな自然石を巧みに積み上げた、たいへん特徴的なものです。特に本丸北西の戌亥(いぬい)隅櫓の石垣は松代城内でも古い近世初頭のものと言われており、その高さと勾配の美しさは、当時の石工の技術の高さを物語っています。石垣の修理工事では、可能な限りその特徴を活かし、明治以降の改変や消失したもの、構造的に不安定になっている個所について、当時と同じ工法で積み直しました。(掲示板より)
史跡松代城跡-7
土塁
史跡松代城跡-11
史跡松代城跡-8
 北不明門(きたあかずもん)
 本丸の裏口(搦手;からめて)に位置する門です。太鼓門と同様の櫓門と表門(桝形門;ますがたもん)の2棟による構成でした。18世紀中頃に行われた千曲川の改修以前は、門が河川敷に接していたことから、『水之手御門』と呼ばれることもありました。絵図史料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元しました。櫓門は石垣を渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。(掲示板より)
史跡松代城跡-9
 東不明門と東不明門前橋
 本丸東側には「東不明門;ひがしあかずもん」と呼ばれる櫓門がありました。当時の門礎石は保護のため地表下30cmに埋設し、レプリカの門礎石で門のあった位置を示しています。通常この門は閉じられており、太鼓門前橋などが崩落し利用出来なくなった時などに通用門として門が開かれたようです。また、内堀からは折れた東不明門前橋のものと思われる橋脚が見つかりました。(掲示板より)
史跡松代城跡-10
内堀に架かる「東不明門前橋」

JUGEMテーマ:写真

 松代城跡は、三方を山に囲まれた戦いの重要拠点。武田信玄が上杉謙信と戦うための拠点として築かれた城です。その後、城主の交代がありましたが、元和8年(1622)に真田信之が上田城より移封されて以来、真田氏10代が城主として続きました。国の史跡に指定されており、城門・石垣なども復元され、往時をほうふつとさせる姿によみがえりました。春は桜の名所として賑わいます。

  松代真田歴代藩主
 初代 真田信之(のぶゆき) 在職期間 1622〜1658 約37年間 生没年(1566〜1658)享年93才
 2代   信政(のぶまさ)      1657〜1658 約 1年間    (1597〜1658)享年62才 信之の次男
 3代   幸道(ゆきみち)      1658〜1727 約70年間    (1657〜1727)享年71才 信政の六男
 4代   信弘(のぶひろ)      1727〜1736 約10年間     (1670〜1736)享年67才 幸道養子
 5代   信安(のぶやす)      1737〜1752 約16年間    (1714〜1752)享年39才 信弘の四男
 6代   幸弘(ゆきひろ)      1752〜1798 約47年間    (1740〜1815)享年76才 信安の長男
 7代   幸専(ゆきたか)      1798〜1823 約26年間    (1770〜1828)享年59才 養子
 8代   幸貫(ゆきつら)      1823〜1852 約30年間    (1791〜1852)享年62才 養子
 9代   幸教(ゆきのり)      1852〜1866 約15年間    (1835〜1869)享年35才 幸貫の孫
10代   幸民(ゆきとも)      1866〜1871 約 6年間    (1850〜1903)享年54才 養子

                                今回で長野市松代町の項は終わりです。
| 長野の旅 | 20:06 | comments(0) | - |
長野の旅 その23 長野市松代町(11) 旧横田家住宅
旧横田家住宅-1
国の重要文化財 旧横田家住宅・表門
旧横田家住宅-2
旧横田家住宅-3
重要文化財 旧横田家住宅 主屋・表門・隠居屋・土蔵2棟
旧横田家住宅-4
旧横田家住宅-5
旧横田家住宅-6
旧横田家住宅-7
主屋
旧横田家住宅-8
旧横田家住宅-9
土蔵2棟
旧横田家住宅-10
旧横田家住宅-11
庭園
和田英
旧横田家住宅は和田英(わだえい)の生家。(1857〜1929)
横田秀雄-1
横田博士頌徳(しょうとく;功徳をほめたたえること)碑
横田秀雄-2
横田秀雄 大審院長(現最高裁判所長官)、法学者。横田秀雄は和田英の実弟。(1862〜1938)

JUGEMテーマ:写真

 趣のある茅葺の屋根を持つ「旧横田家住宅」は国の重要文化財です。主屋、表門、隠居屋と2つの土蔵からなり、松代藩で郡奉行等を努めた中級藩士の暮らしぶりがうかがえます。明治の先進女性の記録「富岡日記」の著者、和田英の生家でもあります。
| 長野の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
長野の旅 その22 長野市松代町(10) 象山地下壕
象山地下壕-1
案内板に従って「象山地下壕」へ向かいます。
象山地下壕-2
象山地下壕入口
象山地下壕-3
象山地下壕-4
象山地下壕-5
3枚の掲示板より象山地下壕の現況を把握します。
象山地下壕-6
入口にあるヘルメットを着用してこれより地下壕へ。
象山地下壕-7
掘削跡が生々しい内部。
象山地下壕-8
暗い壕内を足元を注意しながら奥へ進みます。
象山地下壕-9
碁盤の目のように掘り抜かれた壕内。
象山地下壕-10
トロッコの枕木跡 壕内で掘った石屑(ズリ)はトロッコに乗せて壕外に搬出されました。
象山地下壕-11
見学できる約500m区間の最先端。
象山地下壕-12
先端部には「地下壕の公開部分はここまでです。」の表示と千羽鶴等が捧げられています。

JUGEMテーマ:写真

 長野市松代町にある「象山地下壕;ぞうざんちかごう」は太平洋戦争の遺跡です。第二次世界大戦末期、軍部が本土決戦最後の拠点として極秘のうちに、大本営、政府機関等を松代に移すという計画の下に舞鶴山・皆神山・象山に地下壕を掘削しました。政府機関などの移転先として掘削が進められた象山地下壕は総延長5,853mあり、そのうち500mを公開しています。
 地下壕は、できる限り当時のまま保存されており、風化等により大変もろく崩れやすくなっている個所や天盤が低い箇所があり、ヘルメット着用の見学です。また壕内は音などの振動により崩れる恐れがあるため、静粛に進みます。
 戦後は訪れる人も少なく忘れ去られようとしていますが、平和な世界を語り継ぐ上での貴重な戦争遺産として多くの人々にこの存在を知ってほしいと思います。地下壕を理解する上で、隣接してある「もうひとつの歴史館・松代」も併せて見学されることをお勧めします。
| 長野の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
長野の旅 その21 長野市松代町(9) 山寺常山邸
山寺常山邸-1
山寺常山邸-2
山寺常山邸-3
現在、松代散策の休憩場所になっている「山寺常山邸」。
山寺常山邸-4
山寺常山邸-5
武家屋敷庭園の特徴
山寺常山邸-6
山寺常山頌徳碑
山寺常山邸-7
 山寺常山(やまでらじょうざん) 山寺家は、松代藩で知行160石の中級武士の家格でした。江戸時代の終わりには山寺常山を輩出し、鎌原桐山、佐久間象山とともに松代に三山と称されました。常山は号で幼名を久道、のちに信龍と名乗り、通称を源大夫といいました。常山は若い頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎や中村敬宇らと親交を深めました。八代藩主真田幸貫の信頼も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行や郡奉行を努めました。明治になってからは中央政府の招きを固辞して松代に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育に努めました。(1807〜1887)
山寺常山邸-8
邸内に建つ「土蔵」。
山寺常山邸-9
邸内の風景
山寺常山邸-10
向かって中央に表門、右側に書院があります。

JUGEMテーマ:写真

 山寺常山邸は、松代城下に残る門の中で最大である長屋門形式の表門、表門と渡り廊下でつながり近代和風建築の秀作である書院、神田川の水を引き入れている池(泉水)を湛えた庭園が残されています。平成17年に整備され表門は休憩所等に、書院は多目的に利用できる和室、庭園は散策や学習ができるよう整備されました。
| 長野の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
長野の旅 その20 長野市松代町(8) 旧白井家表門、恵明寺
旧白井家表門-1
間口20mの長屋門、「旧白井家表門」、門の内側に無料案内休憩所があります。
旧白井家表門-2
旧白井家表門-3
長野市指定有形文化財「旧白井家表門」
恵明寺-1
象山恵明禅寺(ぞうざんえみょうぜんじ)・山門、佐久間象山の号は本寺に因んだとされます。
恵明寺-2
藩主真田幸道開基の黄檗宗寺院「恵明寺」
恵明寺-3
縁起
恵明寺-4
松代の民話 蓮華往生
恵明寺-5
境内に咲く季節の花
恵明寺-6
緑に囲まれた本堂
恵明寺-7
恵明寺・本堂 真田家のゆかりの寺院らしく、屋根に鯱と六文銭が刻まれています。

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 恵明寺(えみょうじ)は藩主真田幸道開基の黄檗宗寺院、延宝5年(1677)3代藩主幸道により造営。その後度重なる災禍で山門以外は焼失しましたが、天保4年(1833)8代藩主幸貫により本堂・御霊屋・鐘楼・庫裏などが再建され、現在に至っています。本堂には幸貫自作の布袋和尚像が安置されています。また、「萬福寺」の末寺ということで本堂の前に、布袋さんが安置されています。
 この寺を開基した真田幸道の正室である豊姫は伊達家の出で、嫁入りのときにアンズの種を持参し、それが松代の名産となり「あんずの里」と言われるようになったということです。豊姫の墓も本寺にあります。
| 長野の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
長野の旅 その19 長野市松代町(7) 佐久間象山宅跡
佐久間象山-1
象山神社園池の辺に立つ案内板
佐久間象山-2
史跡 佐久間象山宅跡
佐久間象山-3
「象山先生誕生地」と彫られた石碑。
佐久間象山-4
佐久間象山-5
県指定史跡 佐久間象山宅跡に立つ掲示板
佐久間象山-6
佐久間象山-7
宅跡に建つ茶室「煙雨亭」。
佐久間象山-8
佐久間象山-9
象山神社境内に建つ長野市指定文化財「高義亭」。
佐久間象山-10
神社境内に植わる「佐久間象山先生生誕200年記念植樹」。
佐久間象山-11
象山神社近くにある「象山記念館」。

JUGEMテーマ:写真

 象山記念館には、公武合体派の開国論者である佐久間象山の遺品や遺作が展示されています。象山作と伝えられている電気の治療器や医薬用蒸留器などから、その才能をうかがい知ることができます。
 知識人・佐久間象山を知る貴重な記念館です。
| 長野の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
長野の旅 その18 長野市松代町(6) 象山神社
象山神社-1
幕末の先覚者佐久間象山を祀る「象山神社;ぞうざんじんじゃ)。
象山神社-2
鳥居の前に建つ「佐久間象山像」、生誕200年を記念して平成23年に建立。
象山神社-3
御祭神 佐久間象山について
象山神社-4
雨に濡れる参道。
象山神社-5
参道の側にある園池、池に祀られる「無事カエル大明神」。
象山神社-6
象山神社-7
神木(イロハカエデ)
象山神社-8
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象山神社境内に建つ「桜賦;さくらのふ」。
象山神社-10 象山神社-11
望岳賦(ぼうがくのふ)
象山神社-12
象山神社-13
象山神社・本殿

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 象山神社は幕末の先覚者「佐久間象山」を祀る神社。
 佐久間象山は幕末の朱子学者・蘭学者・兵学者(1811〜64)。信濃(長野県)松代藩士。佐藤一斎に朱子学を学ぶ。のち蘭学に励み、江川太郎左衛門の門に入り洋式砲術を学ぶ。1851年江戸に塾を開き砲術・兵学を教え、西洋技術と東洋精神の融合を説く(東洋の道徳、西洋の芸術)。勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰らがその門から輩出。開国論を主張し攘夷論者に京都で刺殺された。(日本史事典より)
| 長野の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
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