野村望東尼(のむら ぼうとうに)の像
望東尼は福岡藩士の娘として生まれ、高杉晋作ら尊王攘夷の志士たちと交わります。薩長同盟が成り、軍が東上する際に防府天満宮で戦勝祈願を行い7日間の精進潔斎で1日1首句を詠み天神さまに奉納をしました。
右側歌碑
もののふの あたに勝坂 超えつつも 祈るねきこと うけさせたまえ
(解説)勝坂を超えて来る志士たちの願いをどうぞお聞き届け下さい。
左側歌碑
面白きこともなき世をおもしろく(晋作) すみなすものは心なりけり(望東尼)
(解説)面白くない世の中を面白く生きるのはどうしたらいいのだろうか そのように生きていくのは心の持ち方次第です。
歌碑案内板
戦勝祈願詣の石柱 武士だけでなく庶民も志士たちの戦勝を天神さまに祈り、有志によって千日詣の開始と終了の記念碑が建てられました。
貞宮遥拝所
明治30年楫取素彦は明治天皇第10皇女貞宮多喜子内親王の御養育主任に任ぜられました。 内親王は明治32年に夭折されたため遺品が下賜され、その安置場所として建立されました。 以降、貞宮のご命日である1月11日には遥拝式が執り行われ楫取素彦も参列しました。
貞宮遥拝所の傍らに建つ 「楫取素彦・美和子(文)像」。
初代群馬県令をつとめた楫取素彦は、現在の山口県萩市出身で、大河ドラマ「花裳ゆ」のヒロイン「文」の夫です。 楫取素彦を一言でいえば 「幕末維新の志士から名県令」 ということになります。(HP;ぐんま花燃ゆプロジェクトより)
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写真 防府天満宮 御祭神 菅原道真公(すがわらのみちざねこう) その1
平安の古(いにしえ)、菅原家は学者の家として栄えておられました。 その家柄の中で道真公は菅原是善(これよし)の子として、承和12年(845)6月25日にお誕生になり、幼名を 「阿呼(あこ)」「吉祥丸(きつしょうまる)」 と申されました。 幼少より学問に優れ、僅か5歳の時、庭に咲いている梅を愛でられ、
「美しや紅の色なる梅の花 阿呼が顔にもつけたくぞある」
とお詠みになりました。
その後18歳で文書生(もんじょうしょう)、33歳で文書博士になられ学識を高めていかれる一方で、誠実な政治感覚により時の帝の信任も篤く高位高官へ昇られ、55歳の時に右大臣に任ぜられました。 しかし時の権力者である藤原氏による讒言(ざんげん)により無実の罪を着せられ、昌泰4年(901)1月25日、九州大宰府へ左遷されることになりました。 その際御自宅の紅梅殿の庭にて
「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春な忘れそ」
と和歌を詠まれて、永く親しまれた梅の花に別れをお告げになりました。(防府天満宮リーフレットより)