質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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PROFILE
山口の旅 その27 萩市 松陰神社
松陰神社-1
松陰神社
松陰神社-2
 松陰神社御由緒
祭神 贈正四位 吉田矩方命(よしだのりかたのみこと)
    号 松陰、二十一回猛士 幼名 虎之助、大次郎、寅次(二)郎
祭日 春季大祭 5月25日 安政6年 江戸へ檻送のため萩の地に永訣の日
    生誕祭   8月 4日 文政13年御誕生の日
    例大祭  10月27日 安政6年 江戸伝馬町の獄において殉節(刑死)された日
               :  
松陰神社-3
松陰神社
松陰神社-4
手水舎松陰神社-5
松陰神社-6
松陰神社 御社殿
松陰神社-7
お守り授与所
JUGEMテーマ:写真

 松陰神社は、吉田松陰を祭神とする神社です。 明治23年(1890)実家の杉家の邸宅内に土蔵造りの小祠を建てたのが始まりです。 明治40年(1907)伊藤博文らの尽力により県社となりました 。 御神体として松陰愛用の赤間硯と父、叔父、兄宛の書簡が祀られています。(大河ドラマゆかりの地マップより)
| 山口の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
山口の旅 その26 萩市 松陰神社境内 吉田松陰幽囚の旧宅
松陰幽囚の旧宅-1
松陰幽囚の旧宅-2
松陰幽囚の旧宅-3
国指定史跡 吉田松陰幽囚(ゆうしゅう)の旧宅
松陰幽囚の旧宅-4
松陰の実家・杉家の東側にある3畳半(写真左の室)。
松陰幽囚の旧宅-5
 国指定文化財(史跡) 吉田松陰幽囚の旧宅
 この旧宅は、安政2年(1855)から数年の間、吉田松陰が幽囚された家で、東側にある3畳半の1室が幽囚室である。 松陰は、伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗し、江戸伝馬町の牢に捕らえられた。 ついで、萩に送られ野山獄に入れられたが、その後、釈放され父杉百合之助預けとなり、幽囚室に謹慎し読書と著述に専念した。 そして、近親者や近隣の子弟たちに孟子や武教全書を講じた。
松陰幽囚の旧宅-6
松陰幽囚の旧宅-7
幽囚室 安政2年→3年・安政5年 松陰先生が幽囚せられた室
松陰幽囚の旧宅-8
幽囚室
松陰幽囚の旧宅-9
 松陰が、幽囚室に掛けていた木原松桂の書。
 三余読書(さんよどくしょ)・・・勉強に利用すべき三つの余暇。 冬は年の余り。 夜は日の余り。 雨の日は時の余り。
 七生滅賊(しちせいめつぞく)・・・何度もこの世に生まれ変わって外賊を滅ぼすこと。
JUGEMテーマ:写真

 吉田松陰幽囚の旧宅
 吉田松陰は、吉田家の仮養子になるも当主が病死したため、実家杉家で育つ。 杉家は松陰24歳の時に清水口から現在の松陰神社の地に転居。 海外密航に失敗した際ここで幽閉生活を送り、松下村塾を主宰した。 文と久坂玄瑞が新婚時代を送った家でもある。(大河ドラマゆかりの地マップより) 
| 山口の旅 | 19:22 | comments(0) | - |
山口の旅 その25 萩市 松陰神社境内 松下村塾
吉田松陰歌碑-1
松陰神社境内にある吉田松陰の歌碑。
吉田松陰歌碑-2
          親思うこころにまさる親ごころ 
                  きょうの音ずれ何ときくらん 寅二郎
 解説 尊皇の大義を唱え国事に奔走した松陰先生の言動が当時の幕府を刺激し、いわゆる安政の大獄に連座して江戸伝馬町の獄に投ぜられた。 いよいよ処刑を覚悟した先生が安政6年(1859)10月20日郷里の両親達に書き送った便りの中にある永訣の一首である。 享年30、まことに親を思う孝子の至情の表われであり、 断腸血涙の絶唱である。
 附記 歌碑の文字は、長さ20センチ余の二行書の真跡を模写拡大したもの。
     寅二郎は通称である。       
松陰神社境内の風景
 緑豊かな境内の風景
松下村塾-1
松陰神社境内にある国指定史跡 松下村塾(しょうかそんじゅく) 
松下村塾-2
松下村塾-3
松下村塾-4
松下村塾は、今年 2015年7月5日 「明治日本の産業革命遺産」 の一つとして世界遺産に登録されました。
松下村塾-5
屋内には、塾生の久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文らの写真が掲示されています。
松下村塾-6
松下村塾の説明文。
松下村塾-7
松下村塾-8
床の間に掲示されている掛軸と松陰像。
JUGEMテーマ:写真

 一国を動かした小さな私塾 わずか8畳から始めた松下村塾。 このちっぽけな小屋からその後の日本をリードしていくことになる多くの人物が輩出された。
 松下村塾は、吉田松陰の叔父・玉木文之進が天保13年(1842)に自宅で私塾を開いたのが始まりで、次いで久保五郎左衛門、そして28歳の松陰が継いだ。 松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れ、僅か1年余りだったが、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文など、幕末維新期に活躍する数多くの人材を育てました。(大河ドラマゆかりの地マップより) 
| 山口の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
山口の旅 その24 萩市 吉田松陰歴史館(2) 七人の宰相
吉田松陰歴史館-1
歴史館内に展示されている山口県出身 七人の宰相
歴史館-2
蝋人形 伊藤博文(右)、山県有朋(左)
歴史館-3
初代・5代・7代・10代内閣総理大臣 伊藤博文(在職期間 2720日)
歴史館-4
第3代内閣総理大臣 山県有朋(在職期間 499日)
歴史館-5
5人の宰相 蝋人形
歴史館-6
第11代・13代・15代内閣総理大臣 桂太郎(在職期間 2886日)
歴史館-7
第18代内閣総理大臣 寺内正毅(在職期間 721日)
歴史館-8
第26代総理大臣 田中義一(在職期間 805日)
歴史館-9
第56代・57代内閣総理大臣 岸信介(在職期間1241日)
歴史館-10
第61代・62代・63代内閣総理大臣 佐藤栄作(在職期間 2798日)
歴史館-11
萩市椿東1537 松陰神社境内にある 「吉田松陰歴史館」
JUGEMテーマ:写真

 萩市の松陰神社境内にある 「吉田松陰歴史館」 には、吉田松陰の生涯がを20シーン70余体の蝋人形で再現されています。 その最後のコーナーには、山口県出身の七人の宰相が蝋人形で展示されています。 社会科の勉強が出来る歴史館です。
 ちなみに、総理大臣の出身別ランキング ベスト3を見ると、1位は山口県が8人(現内閣の安倍総理大臣を含む)、 2位 東京都 5人、3位 群馬県、岩手県 4人となっています。 ダントツに多い山口県の県民性は、志が高く、勤勉です。 明治維新の胎動地、長州藩の功績が大きく、日本の政治は山口が牽引してきた自負があります。
| 山口の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
山口の旅 その23 萩市 吉田松陰歴史館(1) 松陰の生涯
吉田松陰歴史館-1
松陰神社境内にある 「吉田松陰歴史館」
歴史館-2
杉一家の紹介
歴史館-3
兄と共に叔父(玉木文之進)の教育を受ける
歴史館-4
御前講義
歴史館-5
松陰筆写に励む
歴史館-6
下田踏海
歴史館-7
嫁ぐ妹、文のために
歴史館-8
別れの宴
歴史館-9
江戸評定所の取調べ
歴史館-10
安政6年(1859)10月27日 処刑
歴史館-11
吉田松陰先生像
JUGEMテーマ:写真
 
 萩市の松陰神社境内にある 「吉田松陰歴史館」、松陰の生涯を等身大のろう人形で再現されています。 短くも激しい松陰の生涯を、20シーン70余体の等身大の蝋人形で再現。 説明文と音声ガイド付きで、松陰の一生が分かりやすく紹介されています。 松陰ファンにとっては必見の歴史館です。 今回、展示の一部を写真展示しますが、等身大の蝋人形によるリアルで迫力ある歴史ストリーを現地でご覧になることをお勧めします。
| 山口の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
山口の旅 その22 萩市 松陰神社境内 明治維新胎動之地
松陰神社鳥居-1
これより松陰神社へ
松陰神社鳥居-2
松陰神社 鳥居
松陰神社鳥居-3
鳥居前に立つ大河ドラマ 「花燃ゆ」 の幟。
厚東常吉翁之像-1
厚東常吉(ことう つねきち)翁之像 台座名称刻板に 「岸信介書」 の文字。
萩市出身の衆議院議員。 1884年(明治17年)―1968年(昭和43年)
厚東常吉翁之像-2
 吉田松陰の遺徳を伝えた 「雷鳴」 の異名をもつ政治家 「厚東常吉」。
 NHK大河ドラマ 「花燃ゆ」 の主な舞台となる萩市にある 「松陰神社」 は、年間約45万人もの観光客が訪れますが、造営当時は簡素で小さな祠(ほこら)があるだけでした。 現在の振興には、その豪快な性格から 「雷鳴」 の異名をもつ政治家の尽力がありました。
顔出し看板
 境内に立つ 「顔出し看板」。 ちなみに2015年7月5日に萩の5資産を含む 「明治日本の産業革命遺産」 が世界遺産に登録されました。 萩の5資産とは、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、松下村塾、萩城下町の5つの資産で構成されています。
飯田俊徳-1
飯田俊徳-2
境内に立つ松陰神社 開運招福の看板、飯田俊徳(左)吉田松陰(右)。
石碑-1
 石碑 「薩長土連合密議之処(さつちょうど れんごうみつぎのところ)」
この石碑は、明治百年記念の昭和43年(1968)に建立。
向かって右から 「薩州・田上藤七、長洲・久坂玄瑞、土州・坂本龍馬」、左側に 「文久二年一月、鈴木勘蔵宿之跡」 とある。 元総理大臣 岸信介 揮毫
石碑-2
 文久2年(1862)1月、土佐藩士坂本龍馬が、同藩士の武市瑞山(たけちずいざん)の書簡をもって久坂玄瑞(くさかげんずい)を訪ね来萩し、この場所にあった鈴木勘蔵の旅館に泊まった。 たまたま薩摩藩士田上藤七(たがみとうしち)も同藩士樺山三円(かばやまさんえん)の書簡を持参して来ていた。 図らずも久坂を中心に薩長土の三藩士が一堂に会することになり、後日の薩長土連合を暗示する前兆となった。
 久坂の武市瑞山宛の、書簡によれば、「諸侯も公卿も恃(たの)むに足らず、草莽(そうもう)の志士を糾合(きゅうごう)し、義挙の外(ほか)はとても策無し」 と述べられており、松陰の 「草莽崛起論(そうもうくっきろん) 」 に通じる内容を語りあったと思われる。
石碑-3
石碑 「明治維新胎動之地」 内閣総理大臣 佐藤栄作書
JUGEMテーマ:写真

 萩市最初の訪問地は、学問のご利益で知られる 「松陰神社」。 鳥居をくぐった境内には石碑や銅像などが並びます。 その一つ一つをたどると明治維新の胎動が見えてきます。 松陰神社の復興発展に尽力した厚東常吉や鉄道の父と称される井上勝を支えて鉄道の敷設に尽力した飯田俊徳の名は、現地へ来て初めて知る偉人です。
| 山口の旅 | 19:03 | comments(0) | - |
山口の旅 その21 萩市 松洞園・松浦松洞生誕地
萩循環バス
萩循環まぁ―るバス 東回りコース(松陰先生)
バス停・松陰神社前
バス停 松陰神社前
松洞園-1
バス停の直ぐ目の前にある小さな庭園 「松洞園」。
松洞園-2
庭園に立つ歌碑
    「よきはゝに いましめきびし よい子らが 素直に育つときを まつうら」
松浦松洞生誕地-1
庭園に立つ 「松浦松洞出生之地」 碑
松浦松洞生誕地-2
傍らに立つ 「松浦松洞誕生地」 の案内板
吉田松陰肖像画
松浦松洞が描いた、吉田松陰の肖像画。
バス停前広場-1
バス停前広場-2
きれいに整備された、バス停前の広場。
JUGEMテーマ:写真

 JR東萩駅から 「萩循環まぁ―るバス 東回りコース(松陰先生)」 に乗車、約13分 松陰神社前下車。 目の前に小さな庭園 「松洞園」 はあります。 大河ドラマ 「花燃ゆ」 でも放映されました 「松浦松洞 (通称:亀太郎)」、幼時から絵に秀で、22才の時の安政6年(1859)5月 江戸送り直前の吉田松陰の肖像画を残しています。
 ちなみに、萩を観光する時は乗りやすく大変便利な「萩循環まぁ―るバス」 一日乗車券500円がおすすめです。 30分間隔で運行される 「東回りコース(松陰先生)、西回りコース(晋作くん)」 で巡回する萩の旅は快適です。
| 山口の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
山口の旅 その20 萩市 JR東萩駅と駅前広場
東萩駅
JR山陰本線 東萩駅 「大河ドラマの故郷 萩 歴史の資料館へようこそ」
井上勝
萩出身の鉄道の父・井上勝(いのうえ まさる)
長州ファイブ
 「長州ファイブ」 とは?
 文久3年(1863)、英国に密航留学した長州出身の五人の若者たち―伊藤博文(春輔)・井上馨(聞多)・山尾庸三・井上勝(野村弥吉)・遠藤謹助―。 近年は留学先の英国でも彼らの功績が評価され、「長州ファイブ」 の呼び名で顕彰されている。
 江戸時代初頭に日本人の海外渡航が禁じられて以来、国禁を破って密航したのはこの5人が最初である。 幕末期、日本は欧米列強の植民地化の危機にあった。 長州藩重臣の周布政之助は、欧米列強と互角に渡り合うためには西洋文化・先進技術を身に付けた 「人の機械」 が必要だと考え、行く末を若い5人に託した。 このことはただ長州藩のためだけではなく、結果的には日本の近代化に大きく貢献することになったのである。
  伊藤 博文 初代内閣総理大臣  井上馨 初代外務大臣 
   山尾庸三 工部卿 (工業の父)  井上勝 鉄道庁長官 (鉄道の父) 
   遠藤謹助 造幣局長

 鉄道庁長官(鉄道の父) 井上 勝
 天保14年〜明治43年(1843〜1910)
明治時代の鉄道官僚。 井上与四郎の子として萩城下の土原に生まれた。 一時は野村弥吉と称した。 箱館(函館)の英国領事館員に英語を学び、文久3年(1863)英国へ密航留学して鉱山・土木工学を研究。 明治元年(1868)帰国し、鉄道頭として日本最初の新橋・横浜間の鉄道開通に尽力した。 その後、工部大輔、鉄道庁長官などを歴任して全国の鉄道網を整備し、生涯を鉄道一筋に捧げた。 また同29年に汽車製造合資会社を設立し、機関車の国産化にも努めた。
萩城-1
駅前広場に建つ 「萩城」(約1/6模型)・・案内板より
慶長九年(1604)関ヶ原の役に敗れた毛利輝元が防長二州36万石の居城として築いたものである。 明治七年解体され、現在は堀と城壁の一部石垣などが残っている。
萩城-2
当時の萩城。 毛利輝元がが慶長9年(1604)築城に着手し、4年後の同13年(1608)に完成したもの。 萩市街の西北隅、指月山(標高143m)の麓に位置し山名をとって指月城(しづきじょう)とも呼ばれた。
ふるさとの花
駅前広場に立つ女人像 「ふるさとの花」。
駅前の花壇-1駅前の花壇-2
広場に咲くツツジの花がきれいです。(2015・5・27撮影)
JUGEMテーマ:写真
 
 山口の旅、今回からNHK大河ドラマ 「花燃ゆ」 の舞台、萩市を写真展示します。 新山口駅新幹線口バス停から、6:20発東萩駅行きのバスに乗って約1時間半、JR東萩駅到着。 一日かけて大河ドラマ館をはじめ萩市内を撮影してきました。
| 山口の旅 | 19:03 | comments(0) | - |
山口の旅 その19 JR山口線 山口駅
中市商店街-1
中市商店街-2
山口市 中市商店街アーケード
山口駅-1
JR山口線 山口駅 
山口駅-2
駅に展示されている瑠璃光寺五重塔と大内人形
山口駅-3
駅名表示板
新山口駅-1
 現在の新山口駅は、旧小郡駅でした。プレートには次のように書かれています。
 小郡駅は明治33年12月3日に開業以来、103年にわたり数多くの皆様にご利用いただき、親しまれてまいりました。 平成15年10月1日より 「新山口駅」 と名を改めましたが、小郡駅としての歴史を後世に引き継ぎ、その記憶をとどめるべく、旧駅名表示板をここに保存いたします。
新山口駅-2
 小郡駅表示板の横に展示されている 「D51形蒸気機関車 主動輪」
 日本全国で活躍し、山口線においても旅客・貨物両用の蒸気機関車として導入され運行されていましたが、動力近代化計画により1973年9月30日の 「SLさよなら運転」 を最後に当時のSLファンから惜しまれつつ山口線から姿を消しました。(説明文一部引用)
新山口駅-3
新山口駅表示
新山口駅-4
新山口駅-5
新山口駅の構内に展示されている伝統工芸 大内塗
JUGEMテーマ:写真

 山口独自の大内文化、京文化に魅かれ "西の京" を目指した街づくりをスタートした大内氏9代当主弘世。 以後、31代当主・義隆に至るまで大内氏は代々、京文化を奨励し雪舟などの文化人を招くとともに、朝鮮や明などの大陸文化も受け入れ、独自の絢爛豪華な "大内文化" を隆盛させた。 大内文化を今に伝える建築物として、瑠璃光寺五重塔や八坂神社・本殿、雪舟庭等が有名です。
 今回は、雪舟庭のある常栄寺には行きませんでしたが、大内氏29代政弘(まさひろ)が雪舟に命じて、築庭されたと伝わります。 室町時代の典型的な枯山水石庭が見事。 大内文化の賜物としても知られています。 見どころ満載の山口タウンでした。
| 山口の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
山口の旅 その18 山口市 大内館跡 龍福寺
龍福寺-1
龍福寺-2
大内義隆(よしたか)公の菩提寺 瑞雲山 龍福寺
龍福寺-3
史跡(大内氏附凌雲寺跡) 大内館跡
龍福寺-4
龍福寺 山門
龍福寺-5
龍福寺-6
国の重要文化財 龍福寺 本堂
龍福寺-7
龍福寺-8
大内氏の第31代当主 大内義隆公 辞世の句
龍福寺-9
龍福寺-10
往時の栄えの跡が偲ばれる 「肥後岩」。
JUGEMテーマ:写真

 山口市大殿大路にある龍福寺、大内氏3代当主である満盛(みつもり)が建永元年(1206)に創建。 天文20年(1551)、31代当主 義隆が滅びるまで大内氏の本拠地となった館跡。
 天文20年、陶晴賢が主君・大内義隆に対して起こした謀反(大寧寺の変)に伴う兵火で焼失したが、弘治3年(1557)に後奈良天皇の綸旨を受け、毛利隆元の開基によって現在地(大内氏館の跡地)に移され、自害した義隆の菩提寺として復興する。 境内には資料館も併設し、義隆の肖像画などの貴重な品々が所蔵されています。 
| 山口の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
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