質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

CALENDAR
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< March 2015 >>
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
  • 大阪名所めぐり その14 大阪城天守閣からの眺望
    三橋栄香 (02/25)
  • 大阪名所めぐり その14 大阪城天守閣からの眺望
    大阪城 (02/25)
  • 東京名所めぐり 柴又界隈 その4 帝釈天 瑞龍松
    北脇健慈 (01/02)
  • 東京名所めぐり 柴又界隈 その4 帝釈天 瑞龍松
    柴又帝釈天 (01/02)
  • 青森の旅 その27 弘前市(7) 弘前公園(3) 東門、亀石
    上杉裕世 (12/10)
  • 青森の旅 その27 弘前市(7) 弘前公園(3) 東門、亀石
    弘前城 (12/10)
  • 三島・楽寿園 菊まつり 中尊寺金色堂
    田中もえぎ (11/06)
  • 青森の旅 その28 弘前市(8) 弘前公園(4) 弘前城 石垣修理
    多田裕計 (11/05)
  • 青森の旅 その28 弘前市(8) 弘前公園(4) 弘前城 石垣修理
    弘前城 (11/05)
  • 見てください!! 雄大な富士山です。
    大森政輔 (08/10)
LINKS
PROFILE
鹿児島の旅 その21 仙巌園(1) 反射炉址、磯御殿
仙巌園入口
薩摩藩主別邸 名勝 仙巌園 入口 入場券(尚古集成館共通)大人1000円。
反射炉址-1
反射炉址-2
反射炉址
反射炉址-3
 反射炉の建造と集成館の設置
 アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたという情報は、島津斉彬(なりあきら)に大きな衝撃を与えました。 嘉永4年(1851)、薩摩藩主となった斉彬は、日本が西欧諸国の植民地にされるのではないかという危機感を抱き、海洋に多くの領地を有する薩摩藩こそ、「大砲と船」 に象徴される軍備の近代化と産業育成に力を注ぐべきだと考えました。 反射炉は鉄製の大砲を鋳造(ちゅうぞう)するために築かれたもので、嘉永5年に着工し、安政3年(1856)ようやく鉄製砲の鋳造に成功しました。 また反射炉を中心に溶鉱炉やガラス工場など様々な工場が整備され、これらの工場群を 「集成館;しゅうせいかん」 と命名されました。
 生麦事件に端を発した文久3年(1863)の薩英戦争では、イギリス艦隊7隻を相手に、ここで造られた大砲が大活躍しましたが、その後解体され、現在は基礎部分だけがのこされています。
鉄製150ポンド砲
鉄製150ポンド砲(復元)
正門
 仙巌園 正門 正門は明治28(1895)年に建てられたものです。 薬医門(やくいもん)という形式の門で、裏山で採れた樟(くす)を建材として用い、門内上部には島津家の家紋である丸十紋と桐紋が配置されています。
 仙巌園正門は平成20年NHK大河ドラマ 「篤姫」 のロケ地で、薩摩藩邸江戸屋敷に見立てられ、ロケが行われました。
庭園-1
庭園-2
名勝 仙巌園 雲一つない青空と緑が美しい庭園。
錫門
仙巌園 錫門(すずもん) 薩摩では良質の錫が採掘されていました。 その象徴とも言える錫板葺きの門。 正門として造営され、27代斉興の庭地拡張によって中門となりました。 かっては、当主と嫡男のみが通ったといいます。 朱塗りの柱と白い錫屋根のコントラストが見物です。
御殿
御殿 島津家代々の藩主に受け継がれてきた磯御殿。 島津忠義が使用した部屋や30代忠重が幼少期に暮らした部屋など、優雅な邸内の風情は、御殿ガイドツアーで楽しめます。 別料金(大人600円) お抹茶と島津家ゆかりの茶菓子つき。
御殿中庭
御殿 中庭 邸内は撮影禁止ですが、唯一この中庭のみ撮影が出来ます。
桜島
御殿から庭園越しに眺める借景、桜島の雄大さはまさに南国の名園。 国の名勝庭園に指定されています。
庭園-3
国の名勝庭園 仙巌園
JUGEMテーマ:写真

 名勝庭園・史跡 仙巌園(せんがんえん)は、万治元(1658)年、島津家19代光久はこの地に別邸を築造しました。 桜島を築山、錦江湾を池に見立てた雄大な庭園は四季折々の表情で人びとを魅了します。 江戸時代には島津家当主の別邸として、明治期には本邸として使われた御殿です。
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:08 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その20 現在の西田橋、異人館
現在の西田橋-1
甲突川に架かる現在の 「 西田橋」。
現在の西田橋-2
西田橋の歩道部分
旧西田橋-1
橋の袂に掲示されている案内板。
 旧五大石橋:西田橋(抜粋)
 西田橋は鹿児島城下の玄関口にあたるところから、当時は左岸側に御門が設けられ、橋幅も6.2mと五大石橋の中で最大のものでした。 また二重アーチに見せる意匠を初めて採用し、壁石の扇状の組み方と合わせ、独特の美しさを生み出しています。
 西田橋で特筆されることは、高欄にすべて青銅の擬宝珠(ぎぼし)がかぶせられ、優雅な丸手摺(てすり)となっていることです。
旧西田橋-2
 旧西田橋の掲示板
 鹿児島(鶴丸)城内を出て、千石馬場を西に進むと甲突川に突き当たる。 天保年間(1830〜1844年)の絵図には、青銅擬宝珠の欄干のある板橋が描かれていたが、弘化3(1846)年に肥後の石工・岩永三五郎が、4連アーチの石橋を築いた。 こらが西田橋であり、長さ49.6m、幅6.3m、河床から中央アーチ頂点までの高さ4.3mの石橋であった。 しかし平成5(1993)年の8・6水害による河川工事に伴い撤去され、現在の石橋記念公園に移設されている。 西田橋の袂である甲突川左岸には屋根付きの御門があり、その明治初期の写真が左下の写真である。 門の手前には番所も設置され、城下への出入りを厳重に取り締まっていた。・・・・・
まち巡りバス
今回の鹿児島の旅でよく利用した 「まち巡りバス」。
歌碑-1
歌碑 「我は海の子」 作詞:宮原晃一郎(鹿児島市出身) 作曲:不詳
   一、我は海の子白浪の
         さわぐいそべの松原に
       煙たなびくとまやこそ
         我がなつかしき住家(すみか)なれ
            :
歌碑-2
「我は海の子」 の由来。
遊覧船
歌碑から見える錦江湾、「桜島」 を行き来する遊覧船。
異人館-1
まち巡りバスに乗り 「異人館前」 下車。
異人館-2
バス停から見る 「異人館」 全景。
異人館-3
表札 「旧鹿児島紡績所技術館」(近代化産業遺産)
異人館-4
 異人館 異彩放った白い洋館
 ―洋式紡績所の英人技師7人の居館―
 「西洋の進んだ文化や技術を積極的に学ぶべし」 薩英戦争の洗礼を受けた薩摩藩は、1865年(慶応元)国禁を侵して使節と留学生19人をイギリスに派遣しました。 この時、引率した新納久修、五代友厚らには、もう一つの重要な任務が託されていたのです。
 最後の藩主島津忠義は先代斉彬の意思を継いで、近代的な紡績工場の建設を計画していました。五代らはイギリスの工業地帯を回り、梳綿(そめん)機10台、精紡(せいぼう)機6台を買いつけ、技師7人を招くことに成功しました。
 1866年(慶応2)11月まず始めに司長のイ―=ホーム一行4人が到着。 翌年の正月には工務長ジョン=テットロウ、ついで技師2人が加わり、工場の完成に先駆け白ペンキ塗り木造2階建の宿舎が完成しました。 異人館と呼ばれたこの技師居館は、日本最初の洋式紡績工場とともに先進地薩摩のシンボルとして存在したのです。
 その後一時、鶴丸城跡に移され、七高造士館本館として使用されましたが、再び元の位置に戻され、現在は国の重要文化財として保存されています。
異人館-5
モダンな西洋館 「旧鹿児島紡績所技師館」(異人館)。
JUGEMテーマ:写真

 鹿児島市吉野町にある白ペンキ塗り木造2階建てのモダンな西洋館 「旧鹿児島紡績所技師館」は、日本における初期西洋建築物の代表例の一つとして学術的にも重要な遺物となっています。 明治初期のロマン漂うこの異人館は、国の重要文化財に指定されています。
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:28 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その19 石橋記念公園・祇園之洲公園(2) 高麗橋など
高麗橋-1高麗橋-2高麗橋-3
 甲突川(こうつきがわ)五石橋の一つ 「高麗橋;こうらいばし」。
 高麗橋は五石橋の中でも2番目に長い、4連アーチの石橋でした。上流側の水切り石は垂直に近い勾配で立ち上がり橋面近くまで築かれていました。 この大きな水切り石や河床に敷かれていた敷石で水の勢いが減らされ、橋が守られていました。
 高麗橋は1847年の創建以来、明治42年には橋面勾配の改修、大正10年頃には水道管を添架、昭和20〜30年頃にかけては戦災やその後の自動車等による破損に対する改修が行われていました。 高欄、橋面敷石、水切り石などは特に多くの補修がされていましたが、工事の記録が残っていないため、つくられた当時の形状を特定することが困難でした。
 しかし解体時の形状が、基本的には、明治42年の改修後の形状を残していると判断されたことから、市民に慣れ親しまれてきた明治末〜大正末期の姿に復元しました。
玉江橋-1
玉江橋-2
玉江橋-3
 甲突川五石橋の一つ 「玉江橋;たまえばし」。
 玉江橋は五石橋の中では一番上流にあり、最後につくられた4連アーチの石橋でした。 城下町郊外で通行量も少ないためか橋幅も一番せまく、また他の石橋に比べると建設費も格段に少なく、造りもやや粗末なことなどから実用橋として利用されていたと考えられます。
 玉江橋は他の石橋と違い、調査の結果、比較的近年(昭和30年代後半)に至るまで創建時(1849年)の形状を留めていたと考えられます。 壁石、水切り石、護床敷石等の補修は、ほとんどが昭和30年代後半に集中しています。
 復元に当たりこれらの改修跡、変状跡については写真や周辺部分、類似部分から推定して創建時の姿に復元しました。
薩英戦争記念碑
薩英戦争記念碑
祇園之洲砲台跡-1
祇園之洲砲台跡-2
鹿児島市指定史跡 祇園之洲砲台跡
祇園之洲砲台跡-3
  祇園之洲(ぎおんのす)と薩英戦争砲台跡
 たった一度の実践 ―世界の実力を知った薩英砲撃戦の遺跡―
 祇園之洲という名称は、稲荷川河口の祇園社(八坂神社)に由来します。 五社のひとつとして歴代藩主の信仰が厚く、京都祇園社にならった祇園祭り(オギオンサア)は、今もなお華やかな御神幸行列を伝えています。
 このあたり一帯は昔、遠干潟で祇園浜と呼ばれていましたが、島津家27代斉興(なりおき)のもとで藩政改革を断行した調所広郷(ずしょひろさと)が、兵士の屯集所として埋め立てました。
 その後、斉彬(なりあきら)がここに砲台を設置し、薩英戦争で初めて実戦に供されたのです。 正午に始まった砲撃戦は、3時間を経過し双方に相当の被害が出ていました。 最後尾で祇園之洲砲台を攻撃いていたレースホース号が、目の前で浅瀬に乗り上げたのはその時です。 ところがすでに砲台は、イギリスが誇るアームストロング砲で打ち砕かれ、藩士たちは指をくわえて敵艦が救出されるのを見送ったのです。
 イギリス側の死傷者63名、薩摩側は死傷者13名でしたが、城下の被害はすさまじく西洋との力の差を知った薩摩藩は、この戦いを契機に開国へと動き始めました。
慰霊塔-1
西南戦争官軍戦没者慰霊塔
慰霊塔-2
 両軍戦死者13,240余人 ―国内戦の悲惨さを物語る官軍将兵の寄せ墓―
 近代国家の生みの苦しみ―――と形容される西南戦争は、薩摩軍が維新の英雄、西郷隆盛を頭に戴き、7ヶ月の間、政府軍と攻防を繰り返した悲惨な戦いです。 この間の戦死者は、官軍側6,840余人、薩摩側6,400余人、あわせて13,240余人にのぼり、かぞえきれないほどの人々が親兄弟を失い、家を焼かれました。
 西南戦争最後の決戦場となった鹿児島でも、多くの将兵が倒れ、そのうちの官軍将兵1,270余人は全員がこの祇園之洲に葬られました。 もとは官修墓地として墓石が整然と並んでいましたが、荒廃が著しく、1955年(昭和30)地下納骨堂に合葬され、西南戦争100年に際して慰霊塔が建てられました。
 塔は、「悲」 「苦」 「悶」 を表す3像の上に 「和」 像が据えられています。 これは、生死の苦しみを離れ、安らぎを得ることを意味し、「和」 像の光背は新時代に芽吹く新樹を象徴しています。
 また、納骨堂の前方には西南戦争に参加した青森賢人が、戦乱の翌年1878年(明治11)に建てた碑が残されています。
クロマツ
公園に枝を広げる 「クロマツ」。
JUGEMテーマ:写真

 石橋記念公園と稲荷川を挟んで連絡橋で結ばれた 「祇園之洲公園」 があります。 この公園に甲突川五石橋の二つ、高麗橋、玉江橋が移設復元されています。 またこの公園は、薩英戦争で実戦に使われた 「祇園之洲砲台跡」 や 「西南戦争官軍戦没者慰霊塔」 が建てられています。 

 薩英戦争とは、文久3年(1863)7月、生麦(なまむぎ)事件の責任追及のため鹿児島湾に進入したイギリス艦隊と薩摩藩との間で行われた戦闘。 同年10月和議が成立し同藩は責任を認め、以後双方は接近。
 生麦事件とは、文久2年(1862)8月21日、薩摩藩・島津久光の行列が生麦(現 横浜市鶴見区の一地区) にさしかかった際、イギリス人4人が騎馬のまま行列の前を通過しょうとしたのを怒り、従士が殺傷した事件。翌年イギリス軍艦の鹿児島砲撃(薩英戦争)の原因となったが、幕府が責任を負い、償金10万ポンドをイギリスに支払った。(広辞苑より)
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:29 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その18 石橋記念公園・祇園之洲公園(1) 西田橋
石橋記念公園-1
鹿児島市浜町にある石橋記念公園
石橋記念公園-2
 石橋記念公園 総合案内図
 鹿児島市の中心を流れる甲突川(こうつきがわ)には、かって上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋という5つの大きなアーチ石橋が架かり、「甲突川の五石橋」 として県民に親しまれてきました。
 この五石橋は、江戸時代末期に城下整備の一環として架けられたもので、薩摩藩の財政改革の成功と肥後(熊本県)から招かれた名石工岩永三五郎によって架橋が実現した歴史的所産です。
 しかしながら、平成5年(1993)8月6日、市街地の約1万2千戸が浸水するなど大きな被害をもたらした集中豪雨による洪水で、五石橋のうち武之橋と新上橋が流失していまいました。 そこで残った3橋は、貴重な文化遺産として後世まで確実に残すため、河川改修に合わせて移設して保存することになりました。
 移設地に選ばれた稲荷川河口周辺は、岩永三五郎が最初に架けた多連アーチの石橋・永安橋が近くにあったことから、三五郎とゆかりが深く、また、この河口両岸の土地はいずれも古い埋立地で、五石橋と同時代頃の遺跡をもつ土地でもあります。
 移設工事は、県が西田橋を、鹿児島市が高麗橋と玉江橋を行い、文化財や土木工学等の専門家の指導、助言を得ながら、平成6年から同11年にかけて石橋の調査解体、復元と慎重に進め、五石橋の歴史や技術等を伝える記念館も併設するなどして、石橋3橋が一体となった公園として同12年に開園しました。
 今後、この公園が鹿児島の歴史を知る場の一つとして広く県民に親しまれ、石橋の末長い保存活用に役立つことを願っています。
石橋記念館-1
石橋記念館
石橋記念館-2
石橋記念館-3
五石橋の歴史や技術等を伝える記念館内部。
石橋記念館-4
石橋記念館からの眺望、「西田橋」 と 「桜島」。
西田橋-1
石橋記念公園に移設された 「西田橋」。
西田橋-2
西田橋上からみる御門。
西田橋-3
橋の下を流れる美しい川の流れ、市民の憩いの場となっています。
西田橋御門-1
西田橋御門-2
西田橋御門
岩永三五郎-1
公園にある、甲突川五石橋を建造した 「岩永三五郎之像」。
岩永三五郎-2
岩永三五郎顕彰の由来。
岩永三五郎-3
岩永三五郎が最初に架けた多連アーチの石橋・永安橋の石碑。
桜島爆発
石橋記念公園を撮影中 「桜島」 が爆発!、噴煙を上げる桜島。
JUGEMテーマ:写真
 
 鹿児島市の中心を流れる甲突川には、江戸末期、肥後の名石工 「岩永三五郎」 指導のもと建造された5つのアーチ石橋が架けられていました。 中でも 「西田橋」 は、城下の表玄関として豪華に建造され、あの 「篤姫」 もお輿入れの時渡ったといわれています。 本公園、石橋に興味のある方必見です。
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:06 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その17 南洲公園(4) 西郷南洲顕彰館
西郷南洲顕彰館-1
墓所からの石段を上がると 「西郷南洲顕彰館」、「竹公園」へ。
西郷南洲顕彰館-2
西郷南洲顕彰館-3
南洲公園内、西郷隆盛墓所の近くに建つ 「西郷南洲顕彰館」。
竹公園-1
顕彰館のすぐ後方にある 「竹公園」。
竹公園-2
島津吉貴(しまづよしたか)公ゆかりの竹公園。
竹公園-3
公園に生い茂る竹林・。
竹公園-4
 公園中央に建つ、吉貴公の戒名が刻まれている石碑。
 島津吉貴公は江戸時代中期の島津第21代当主。薩摩藩の第4藩主。
吉貴公はそれまであった加治木島津家、垂水島津家に加え自分の息子たちに越前家、今和泉島津家と言う分家を作らせ、この4分家のみが本家に後継者がいない場合に藩主を出せる家系としました。(フリー百科事典 「ウィキペディア」より)
南洲公園
南洲公園・西郷南洲顕彰館から見る桜島。
JUGEMテーマ:写真

 西郷南洲顕彰館は、昭和52年迎えた大西郷百年祭の記念事業として、南洲翁を敬慕する20数万人の人々の浄財により建立されたものです。 1978年(昭和53)7月開館、鹿児島市立として運営されています。 館内には、西郷隆盛を中心に大久保利通や明治維新について展示されています。
 二階に展示されている南洲翁遺訓は、明治元年(1868)10月、幕府のためよく戦った荘内藩(山形県鶴岡地方)は、西郷の率いる北越征討軍に降伏しました。 西郷は寛大に取り扱って処分をしませんでした。 以後、荘内藩と西郷の親交が続きました。 明治22年西郷の賊名が解かれると、荘内藩の人々は、『南洲翁遺訓』 を刊行し、西郷の偉さを全国にひろめました。(館内ガイドより)
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:00 | comments(0) | - |
可睡斉 その8(完) 地蔵堂(旧東陽軒)、JR袋井駅
可睡斉の風景
可睡斉風景、本堂(右)と秋葉総本殿三尺坊御真殿(左奥)
一輪の花
境内に咲く一輪の花、ツバキ。
大きな下駄
奉納されている大きな下駄。
大きなスコップ
大きなスコップ。
老木と石灯籠
可睡斉の風景、老木と石灯篭。
松の木
枝ぶりが見事な松の木。
ようこそかすいへ
門前で見掛けた看板 「ようこそかすいへ」。
地蔵堂-1
可睡斉総門前に建つ 「地蔵堂」(旧東陽軒)。
地蔵堂-2
地蔵堂-3
地蔵堂-4
可睡斉の始まり 「東陽軒」。
JR袋井駅-1
東海道五十三次 どまん中 JR袋井駅北口(愛称;秋葉口) 2014年12月完成
JR袋井駅-2
駅前ロータリーに建つ彫刻ステンレス製 「燦 SAN」。
JR袋井駅-3
駅前にある彫刻 ブロンズ像 「Happy Birthday」。
JUGEMテーマ:写真

 可睡斉総門の前に建つ地蔵堂(旧東陽軒)が可睡斉の始まりです。 現在の建物は、昭和60年に観音堂を移築したもの。 撮影当日、偶然にも法要が行われる日にあたり、堂の扉が開らかれ観音さまを参拝することができました。

 今回をもって可睡斉の写真展示は終了です。 可睡斉には、JR東海道線袋井駅からバス可睡斉方面行きで約10分、「可睡」下車。 お勧めのビュースポットです。(完)
| 家康公四百年祭 | 19:00 | comments(0) | - |
可睡斉 その7 家康公 出世六の字穴・奥の院
整然と並ぶ石灯籠
可睡斉の境内に整然と並ぶ石灯籠。
案内板
行き先案内版。
奥の院への参道
奥の院に向かう参道。
参道に咲く可憐な花-1
参道に咲く可憐な花-2
参道に咲く可憐な花。
出世六の字穴-1
徳川家康公 世六の字穴の石碑。
出世六の字穴-2
徳川家康公ゆかりの穴 「出世六の字穴」。
出世六の字穴-3
奥行き約10mほどの洞穴。
出世六の字穴-4
洞穴には延命地蔵が祀られています。
出世六の字穴-5
洞穴の入口に掲示されている 出世六の字穴』 伝説。
奥の院-1
奥の院-2
奥の院-3
「出世六の字穴」 のすぐ先にあるお不動さん 「奥の院」。 平成18年不審火による火災で全焼した 「奥の院不動明王堂」、平成20年6月に再建されました。
UGEMテーマ:写真

 秋葉総本殿可睡斉を参拝後、家康公 「出世六の字穴」、「奥の院」 の撮影と参拝をしてきました。 戦国時代、徳川家康は武田信玄との戦いにおいて遠江・森、袋井方面へと攻めてきた武田勢に追われ、この寺の洞穴に隠れて命拾いをした伝説の 「出世六の字穴」 は、案内板から徒歩数分のところにあります。
| 家康公四百年祭 | 19:00 | comments(0) | - |
可睡斉 その6 瑞龍閣・位牌堂・大黒殿
瑞龍閣-1
瑞龍閣-2
可睡斉・瑞龍閣 曲線状の唐破風屋根の玄関、荘厳な造りです。
瑞龍閣-3
瑞龍閣-4
瑞龍閣の外観と前庭。
瑞龍閣-5
玄関前に立つ石碑。
位牌堂-1
可睡斉・位牌堂
位牌堂-2
位牌堂-3
入口の左右に置かれている像の置物。
位牌堂-4
たくさんの位牌が安置されています。
大黒殿-1
可睡斉・大黒殿
大黒殿-2
中央に出世大黒天が祀られています。
勝軍地蔵
勝軍地蔵
慈母観音
慈母観音 いつくしみ深い母、子授け、安産、子育ての観音さまです。
JUGEMテーマ:写真

 瑞龍閣は、現在開催中(3月115日まで)の 「可睡斉ひなまつり」 の会場となっている 「牡丹の間」 「菊の間」 がある木造2階建の大規模和風建築です。
 1937(昭和12)に建てられた和風建築で、正面に荘厳な唐破風屋根の玄関を構えます。 2階は50畳敷きの 「菊の間」 と 「牡丹の間」 があります。 室名にふさわしい襖絵や装飾で豪華に飾られ、床脇の変化に富んだ棚も特徴的です。 別棟には、大東司(だいとうす;トイレのこと)があります。
 
| 家康公四百年祭 | 19:02 | comments(0) | - |
可睡斉 その5 秋葉総本殿 可睡斉
秋葉山-1
秋葉山-2
秋葉総本殿可睡斉
秋葉山-3
秋葉山-4
参道両側に鎮座する 「鳥天狗・三尺坊大権現」。
秋葉山-5
 秋葉総本殿 可睡斉
 当山は日本第一の火防霊場にして明治6年廃仏毀釈に伴い 「三尺坊大権現さま」 のご本躰が秋葉山秋葉寺から本寺可睡斉へご遷座された事から起ったものであります以来 「秋葉総本殿三尺坊大権現鎮座道場」 として全国に奉祭する秋葉さまの総本山として、名を知らるゝに至ったのです。 三尺坊大権現さまは、1300年前、信州戸隠村岸本家に生れ新潟蔵王権現堂の第一道場たる三尺坊また戸隠山西窟道場においてご修行成就され観音大士のご化身として信仰を頂いております。 大願に曰く一心を以って我を信ずれば諸々心願必ず成就す。 火防・交通安全・厄除、當病平癒・進学成就等・諸願成就の御祈祷道場です。・・・・・(一部不鮮明な部分あり)
秋葉山-6
秋葉三尺坊大権現を祀る 「御真殿」。 金色に輝く 『秋葉総本殿』 の扁額。
秋葉山-7
正面に掲げられた扁額。
秋葉山-8
秋葉山-9
大きな天狗の面。
秋葉山-10
秋葉山-11
御真殿に掲げられた面や絵。
秋葉山-12
秋葉三尺坊大権現が描かれた凧。
JUGEMテーマ:写真

 秋葉総本殿可睡斉は、1873(明治6)、静岡県浜松市 秋葉山(あきはさん)の神仏分離に伴い三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)が遷座され火防災除の寺となりました。 三尺坊は長野出身のお坊さんで、修行を積んで天狗となったのちに秋葉山へ降り立ち、そこでさらに火伏の秘法を習得されたそうです。
| 家康公四百年祭 | 19:00 | comments(0) | - |
可睡斉 その4 総門・山門・本堂
可睡斉・総門-1
可睡斉・総門 山号 萬松山(ばんしょうざん)
総門-2
総門天井
境内案内図
可睡斉境内案内図 境内は約10万坪
山門
金剛力士像(阿形像)金剛力士像(吽形像)
 可睡斉・山門 昭和10年(1935)に当時、建築界の重鎮、特に寺社建築の泰斗(たいと;権威者)であった伊東忠太博士に設計依頼していたが、完成にまで至らず、76年の歳月を経てこの度、伊東忠太博士の設計図を基に平成22年(2010)に落慶しました。 彫刻師は岐阜県美濃の大橋裕瑞師。
おさすり大黒-1
おさすり大黒-2
福徳をさずかる 「おさすり大黒様」。
輪蔵-1
輪蔵-2
輪蔵-3
 可睡斉・輪蔵堂 輪蔵とは、仏教の法宝である経典を収め置く、寺院建築において古来より重要視されてきた堂宇であり、由緒名刹寺院には欠くことのできない大切なものです。(案内板より)
可睡斉・本堂-1
本堂-2
 可睡斉・本堂 
 聖観世音菩薩を本尊とし、高祖承陽大師、太祖常済大師を両祖とします。
念ずれば花ひらく・地蔵
本堂前にある 『念ずれば花ひらく・地蔵』。 念じながら手を合わせてきました。
JUGEMテーマ:写真

 可睡斉(かすいさい)は、静岡県袋井市久能にある曹洞宗の寺院で寺紋は丸に三つ葵です。 東海道一の禅の修行道場である可睡斉は悠久六百年の歴史を刻む、徳川家康公が名づけた古刹です。 
 現在は、曹洞宗・専門僧堂として多くの雲水(」修行僧)が修行をしておられます。
| 家康公四百年祭 | 19:18 | comments(0) | - |
このページの先頭へ