質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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PROFILE
満開の河津桜 ピンクの花がきれいです。
河津桜-1
河津桜、花のトンネルがきれいです。
河津桜-2
満開の河津桜と記念写真。
河津桜-3
河津川にそって両サイドに 「河津桜並木」。
河津桜-4
河川敷からの眺めも素晴らしいです。
河津桜-5
メインルートから少し離れたところに咲く一本の河津桜。 ボリュームがあります。
河津桜-6
河津桜-7
河津桜の可憐な花、ピンクがきれいです。
河津桜-8
峰温泉大噴湯公園の河津桜。
河津桜-9
遊歩道にある豊泉の足湯処。
河津桜-10
「河津桜原木」、河津桜発祥である樹齢約60年の原木も満開です。
河津桜-11
色とりどりの花が咲き誇る遊歩道。
JUGEMテーマ:写真
 
 静岡県河津町の町の木 「河津桜」 が満開です。 本日(2/28)撮影してきました。 伊豆急・河津駅付近の河口から河津川にそって 「河津桜並木」 が約3km続いています。 河津桜の数800本が満開。 その景観は圧巻です。 大勢の観光客が押し寄せ大変な混雑です。 花の見頃は天候が良ければこの1週間です。 現在開催中の第25回河津桜まつりは3月10日(火)まで。
| 桜の花 | 21:41 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その16 南洲公園(3) 南洲神社
南洲神社-1
南洲神社-2
南洲神社 御祭神 西郷隆盛命
南洲神社-3
南洲神社-4
「招魂」 西南之役戦歿者慰霊塔
南洲神社-5
南洲神社-6
南洲神社-7
 南洲神社電燈(登録有形文化財)
 大正2年に建設されたこの電燈は、高さ4.4m、鋳鉄製で、六角形の柱脚や六方に開いた花弁状の柱頭飾り、各接合部の繰形などの装飾をもつ。 近代日本の礎となった旧集成館が製造した数少ない遺構である。 文化保護法、第57条第1項の規定により、平成18年10月18日付けをもって文化財登録原簿に登録された。
南洲神社-8
南洲神社名誉宮司 鶴田正義句碑
南洲神社-9
西郷隆盛 漢詩
南洲神社-10
南洲神社全景
JUGEMテーマ:写真

 南洲神社は、鹿児島市上竜尾町にある南洲公園・南洲墓地の北隣に鎮座する神社です。 主祭神は西郷隆盛命 創建明治13年(1880) 西郷の命日にあたる9月24日には例祭が行われます。

 明治10年(1877)9月24日、官軍の総攻撃によって西郷隆盛以下薩軍が全滅し西南戦争が終結すると、鹿児島県令岩村通俊は官軍の許可を得て西郷隆盛らの遺体を鹿児島市内5ヵ所に仮埋葬した。 明治12年(1879)、有志によってそれらの墓を現在地にまとめて改葬し、その後、九州各地に散在していた西郷軍の遺骨を集めて計2023名が葬られる 「南洲墓地」 となった。
 西郷隆盛の偉徳を敬崇してその墓に参る者が年々増加したことから、明治13年(1880)、南洲墓地の隣に参拝所が設けられた。 大正11年(1922)6月28日、「南洲神社」 として無格社に認定された。 昭和20年(1945)に戦災で焼失し、同25年9月に再建された。(フリー百科事典 「ウィキペディア」より)
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:00 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その15 南洲公園(2) 常夜燈
常夜燈-1
常夜燈-2
南洲公園に立つ 「常夜燈」。
勝海舟歌碑
 勝海舟歌碑
   「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがままに 果たして君かな」
 明治6年(1873)朝鮮への使節派遣の問題で新政府を去った西郷隆盛は、鹿児島にもどり、青年の教育のため私学校を設立しました。
 ところが明治10年この私学校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。 ついに西南戦争を引き起こしたのです。 この歌は、幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私学校生徒に身を委(ゆだ)ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです。
 隣に立つ常夜燈は、西郷と勝海舟との会談により江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって建立されたものです。 歌碑はこの常夜燈と同じ花棚石(けだないし)でできています。
岩村県令記念碑-1
岩村県令記念碑-2
岩村県令記念碑(県令とは、県の長官、現在の知事)
庄内柿-1
庄内柿-2
 庄内柿
 この庄内柿は、庄内の偉人 菅臥牛翁(すげがぎゅうおう)と西郷南洲翁との徳の交わりを機縁として、山形県鶴岡市と鹿児島市が兄弟都市盟約を締結した、昭和44年11月7日に、鶴岡市から寄贈されました。
 庄内柿は庄内地方の特産品で、糖度が高くみずみずしく、庄内の秋を代表する果物の一つとして知られています。

 菅臥牛翁・・・庄内藩(山形県)の有力な家老であった。 庄内藩は戊辰戦争で官軍に激しく抵抗したため厳しい処分を覚悟していたが、南洲翁の暖かい取り計らいにより処分は極めて寛大なものとなった。 この南洲翁の人徳に感服した臥牛翁は、明治8年自ら7名の旧庄内藩士と共に来鹿し南洲翁の教えを受けた。 後に臥牛翁はこれらの人々の手記を集め 「南洲翁遺訓」 を発刊し全国に頒布した。南洲翁の偉大さが全国に知れわたったのは実に臥牛翁の人徳がその一翼を担ったものといえる。
(HP;西郷どんの薩摩;西郷屋敷より)
黄興先生南洲墓地参詣之碑-1
黄興先生南洲墓地参詣之碑-2
黄興先生南洲墓地参詣之碑
保存樹-1
保存樹-2
鹿児島市保存樹、南洲公園のイチョウ。
噴煙を上げる桜島
南洲公園から見る、噴煙を上げる桜島。
JUGEMテーマ:写真

 南洲公園は海の見える高台にあるため、目の前に優雅にそびえ立つ桜島を望めます。 この日は噴煙を上げる桜島を撮影することができました。 また、公園の中には、西郷南洲にかかわる記念碑などがあり、それをひもとくと西郷隆盛の偉大さや人徳が読み取れます。。
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:00 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その14 南洲公園(1) 南洲墓地
南洲公園入口
まち巡りバスに乗り、バス停 「南洲公園入口」 下車。
篤姫誕生地
バス停の目の前にある、今和泉島津家屋敷跡(篤姫誕生地)。
南洲門前通り
南洲門前通りに建つ石灯篭。
南洲公園-1
南洲公園入口。
南洲公園-2
石段を上ると南洲公園。
南洲墓地-1
公園内、南洲墓地に建つ鳥居。
南洲墓地-2
 南洲墓地 「命もいらず名もいらず」
 ―信義を貢(つらぬ)いた巨星と群れ星ここに眠る―
 1877年(明治10)9月24日、城山で西郷隆盛が自刃して、ついに7ヶ月にわたった西南戦争が終わりました。 熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れた薩軍は、多くの死傷者を出しながら九州を南下して、故郷の城山を最期の決戦の場に選んだのです。
 南洲墓地には西南戦争に敗れた薩軍2023名もの将兵が眠っています。 1877年(明治10)岩崎谷で戦死した西郷以下40名を仮埋葬したこの地に、その2年後、市内各所に埋葬されていた遺骨を移し、さらに6年後、宮崎・熊本・大分の各県からも集められました。
 墓石は正面に西郷隆盛、左手に最後まで奮戦した桐野利明、右手に篠原国幹、他には村田新八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武など幹部が並び、鹿児島県令(知事)として西郷を支援し処刑された大山綱良や、わずか14歳にして戦場に消えた伊地知・池田両少年、兄弟5人が討ち死にした児玉兄弟、県外出身者の名も見られます。 また1879年(明治12)に設けられた参拝所は、1922年(大正11)西郷隆盛を祀る南洲神社となりました。
南洲墓地-3
写真(左)
南洲墓地-4
写真(右) 西南戦争終末直後の鹿児島市街と桜島(明治10年撮影)
南洲墓地-5
掲示版中央上 戦争経過地図 赤太線;薩軍主力の進撃路 青太線;薩軍主力の退却路 ×印;主な戦場(数字は期間)
南洲墓地-6
南洲墓地
南洲墓地-7
中央に西郷隆盛、左手に桐野利秋、右手に篠原国幹の墓。
JUGEMテーマ:写真

 南洲墓地は城山の北隣、錦江湾を望む丘にあります。 南洲とは西郷の号名。 墓地には西郷隆盛をはじめ、桐野利秋・村田新八など西南戦争で亡くなった薩軍兵士が眠っています。 墓地の両側には西郷隆盛を祀る南洲神社、2010年4月にリニューアルオープンした西郷南洲顕彰館があります。
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:00 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その13 西郷隆盛終焉の地
私学校跡-1
鹿児島市城山町にある「西郷南洲翁設立 私学校跡」。 私学校跡地に残る正門。
私学校跡-2
史跡 私学校跡 石塀
私学校跡-3
 私学校跡 「おはんら何たることをしでかしたか」
 ―西南戦争は、私学校生徒の暴走で始まった―
 遣韓使節(けんかんしせつ)をめぐる政争に敗れたことで、辞表を出して帰郷した西郷隆盛は、一介の農夫として静かに暮らそうとしました。 ところが西郷を慕って続々と帰郷した若者たちはこれを許さず西郷は求められるままに、私学校を設立しました。
 1874年(明治7)6月、鶴丸城の厩跡(うまやあと)に篠原国幹が監督する銃隊学校と村田新八が監督する砲隊学校、これを本校として城下に 12、県下に136もの分校がうまれたのです。 また幼年学校として西郷以下の賞典禄(しょうてんろく;戊辰戦争の賜金)を運営費に賞典学校もつくられました。 私学校には、はじめ教師としてオランダ人やイギリス人を招き、生徒をヨーロッパに留学させる計画もありました。 私学校の費用はすべて県費でまかなわれました。 私学校は年々強大化し、反政府の気運を高まらせ、ついに過激派生徒が暴走。 政府火薬庫の襲撃によって西南戦争を引き起こし、私学校はわずか4年でその歴史を閉じたのです。 石垣には激戦のあとを物語る銃弾の跡があります。
西郷隆盛洞窟-1
鹿児島市城山町にある 「西郷隆盛洞窟」。
西郷隆盛洞窟-2
手前の小さい洞窟。 西南戦争の最末期に総攻撃を受けた西郷隆盛が桐野利秋をはじめ私学校の幹部たちとともに銃弾に倒れるまでの最後の5日間を過ごした洞窟。
西郷隆盛洞窟-3
 西郷隆盛洞窟 「おはんらにやった命」
 ―西南戦争 最後の司令部―
 1877年(明治10)9月24日、午前4時政府軍の城山総攻撃が始まりました。 城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。 これを囲む政府軍は、何重もの柵をめぐらし、その数4万。 死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間すごしたこの洞窟を出ました。 桐野利明、別所晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。 この日の西郷の出立ちは妻のイトが縫った縞の単衣に白い兵児帯。 ゆっくりと岩崎谷を下ります。 その時流弾が西郷の腰に命中。 別所の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです。
 西南戦争というのは、不平士族の反乱のあいつぐ中、西郷を慕う私学校の生徒たちが、政府の挑発によって引き起こした暴動が始まりです。首謀者の引き渡しか全面戦争か、その結論を」出したののは 「おはんらにやった命」 という西郷の一言でした。 2月15日、ついに挙兵。 熊本で政府軍と激しい攻防をくりかえすも、近代兵器の前に敗退。 7ヶ月にわたる大乱の最後を、西郷は故山城山で迎えたのです。
西郷隆盛洞窟-4
掲示板写真(左)
西郷隆盛洞窟-5
掲示板写真(右) 城山の薩軍陣地跡 「薩軍は強固な堡塁(ほうるい)をめぐらせた」。
西郷隆盛終焉の地-1
鹿児島市城山町にある 「西郷隆盛終焉の地」。
西郷隆盛終焉の地-2
「南洲翁終焉之地 」 と刻まれています。
西郷隆盛終焉の地-3
 西郷隆盛終焉(しゅうえん)の地
 「晋(しん)どん、もうここらでよか」
 ―波乱の道、ここに尽きる―
 ズドン、ズドン!2発の銃弾が西郷隆盛の腰を大腿部を撃ち抜きました。 城山洞窟を出てわずか300m、650歩でついに途は閉ざされたのです。 「晋どん、もうここらでよか。」 東を向き、皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。 1877年(明治10)9月24日のことです。 西郷を敬愛する私学校生徒を中心に強大な反政府勢力となった薩軍が2月15日に50年ぶりの豪雪をついて熊本に軍を進めて以来、7ヶ月もつづいた 「西南の役」 が終わったのです。
 熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れ、人吉から宮崎、延岡に追われ薩軍はついに解散。 西郷以下の幹部は、宮崎県北の可愛岳(えのだけ)を突破し九州の中央山脈を縦走する難行軍の末、故郷鹿児島を死に場所に選んだのです。 岩崎谷の銃声がやみ、西郷の死体が発見された時、政府軍の総司令 山県有朋(やまがたありとも)中将は 「翁はまことの天下の豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ。」 と語り、いつまでも黙禱(もくとう)したということです。
JUGEMテーマ:写真

 城山展望台で雄大な桜島を撮影後、西郷隆盛が銃弾に倒れるまでの5日間を過ごした洞窟と終焉の地を見てきました。 私学校の幹部たちと過ごした洞窟はわずか二畳ほどの広さです。 洞窟から約300mのところに終焉の地はあります。 この後、西郷隆盛の墓がある南洲公園へ向かいます。
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:46 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その12 城山展望台
城山展望台-1
まち巡りバスにて 「城山」 下車。 これより、土産店が並ぶ通りを展望台へ進みます。
城山展望台-2
カラフルな傘が並ぶ土産屋さん。
城山展望台-3
きれいに整備された遊歩道。
城山展望台-4
 城山公園
 明治23年、鹿児島市最初の公園として開設されました。公園面積は、展望台(高さ 107m)から東側斜面を含む15.6haです。
 緑豊かな遊歩道や雄大な桜島、美しい錦江湾、市街地を眺める展望台、林間で遊べるドン広場、鶴丸城の二の丸庭園であった探勝園などがあります。
 この 「城山」 は、14世紀(南北朝時代)豪族上山氏の山城の跡で、明治10年西南戦争の最後の激戦地となったところです。
 また、樹齢約400年にもなるクスの大木など常緑広葉樹やシロヤマシダ、シロヤマゼンマイなどのシダ類等、約600種余りの植物が密生しています。 市街地にあって南九州特有の照葉樹林を保ち、数多くの野鳥や昆虫が生息する自然の宝庫です。
 このため、約10.9haが昭和6年6月 「史跡・天然記念物」 として国の文化財指定を受けています。
城山展望台-5
「城山展望台視点場」 に到着。
城山展望台-6
高さ107mの城山展望台からの眺望。 眼下に鹿児島市街地、美しい錦江湾、そして雄大な桜島が望めます。 素晴らしい眺めです。
城山展望台-7
展望台に御手植えされた樹、「大正9年3月26日 皇太子殿下御手植公孫樹」。公孫樹(こうそんじゅ)とは、イチョウの漢名(老木でないと実らず、孫の代に実る樹の意)。
城山展望台-8
展望台に密生する樹林。
城山展望台-9
 城山展望台に立つ掲示板
 桜島・成立ち
 桜島が噴火する前、鹿児島湾(錦江湾)には巨大な穴があいていました。 この穴は姶良カルテラと呼ばれ、約29,000年前の巨大噴火によってできたものです。 このときの噴火で大量のマグマが流出し、南九州全域を埋め尽くしました。 その後、約26,000年前にカルテラの南部で起きた噴火でできたのが桜島です。
 桜島・歴史
 桜島の歴史は噴火の歴史とも言われ、これまで幾度も大規模な噴火を繰り返してきています。 中でも、大正3年(1914年)の大噴火では、大量の溶岩の流出により、もともと島だった桜島と大隅半島とが陸続きになりました。 桜島は鹿児島市街地の沖合い約4kmにあり、現在も活動している活火山ですが、約5,000人の市民が火山と共生しています。
城山展望台-10
ワイドで撮影した展望台からの眺望。
JUGEMテーマ:写真

 城山展望台 高さ107mの展望台からは鹿児島市の中心部と桜島が一望できます。 パノラマのような眺めは東洋のナポリと称されているそうです。 撮影日は、生憎朝から雨が降り、城山からの眺望が心配でしたが、幸いにも午後から日差しが差し込め美しい桜島を撮影することが出来ました。
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:00 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その11 近代文学館・メルヘン館と鹿児島市立美術館
近代文学館・メルヘン館-1
近代文学館・メルヘン館-2
 かごしま近代文学館・メルヘン館入口。
 入口を入って左側に近代文学館、右側にメルヘン館があります。 近代文学館は撮影禁止、1階には、鹿児島県と特に縁の深い作家である海音寺潮五郎・林芙美子・椋鳩十・梅崎春生・島尾敏雄・向田邦子の6名に関する常設展示が行われており、2階では有島武郎ら22名の文人に関する常設展示が行われています。
メルヘン館-1
かごしまメルヘン館
メルヘン館-2
メルヘン館-3
「不思議な国のアリス」 のトリックアートやミニアスレチックなどユニークな設備が満載。 子供が楽しめる遊具がたくさんあって、雨の日などは特に重宝です。
美術館-1
鹿児島市立美術館
美術館-2
撮影当日(10/26)、市民アートフェアかごしま2014開催。
美術館-3
美術館-4
鹿児島市立美術館 正面玄関を入ると、3階まで吹き抜けの円形エントランスホール。 床と壁は大理石張りで、天窓のある直径15mのドームには、薩摩切子の文様が施されています。 総工費は23億円と伝えられています。
美術館-5
屋外展示のロダン 「ユスタッシュ・ド・サン=ピェール」。
JUGEMテーマ:写真

 鹿児島市立美術館は昭和60年(1985)10月29日開館。 薩摩藩主島津氏の居城であった鶴丸城二の丸跡にあります。 城山の山麓に位置するこの地は、政治、文化の中心地として発展したところです。 館では、日本の近代洋画の発展に貢献した黒田清輝や藤島武二など、また開館を記念して収集を始めた西洋美術コレクションであるモネやピサロ、ルノアール、セザンヌ、ロダンなどの作品を収集しています。 年に2回特別企画展を開催し、幅広い美術の紹介に努めています。
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:01 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その10 鹿児島県歴史資料センター黎明館 篤姫像
黎明館-1
正門入口に建つ石碑 「黎明館(れいめいかん)」。
黎明館-2
「史跡 鶴丸城跡」 に建つ鹿児島県歴史資料センター黎明館。
篤姫-1
篤姫-2
黎明館に展示されたNHK大河ドラマ 「篤姫」 の女乗物
篤姫-3
篤姫-4
御鈴廊下の鈴
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薄緑地松に四季花柄金襴振袖打掛 鶴丸城で幾島から厳しくお姫様教育を受けている時代に着用したもの。
篤姫-6
緑色疋田一松に桜小紋柄金襴袖打掛 鶴丸城でめざましい精進ぶりで御台所になるための修行に邁進する篤姫が着用したもの。
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黎明館正門入口を入って右側に建つ 「篤姫像」。
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 碑文 「私事一命ニかけ是非々々御頼申候事二候」
 天璋院(篤姫)は、天保6年(1835年)今和泉島津家の姫として現在の鹿児島市に生まれた。 嘉永6年(1853年)、島津家第28代当主島津斉彬の養女となり鶴丸城に入り、安政3年(1856年)、近衛家の養女として、第13代将軍徳川家定の御台所となる。 わずか2年足らずで家定が没した後は、落飾して天璋院と号した。
 その後、世の流れは討幕へと大きく傾いた。 討幕軍の先頭に立っているのは実家の薩摩藩であり、その参謀は西郷隆盛であった。 天璋院は、苦しい立場の中、最後まで江戸城に留まり、徳川家の存続に力を尽くした。
 冒頭のことばは、天璋院が、戊辰戦争の際、徳川家の存続を願い、官軍隊長に宛てた嘆願書の一節である。
 幕末から明治にかけての激動の時代に、自分の信じる道を生き抜いた天璋院は、明治16年(1883年)に没するまで、再び故郷鹿児島の地を踏むことはなかった。
 平成20年のNHK大河ドラマ 「篤姫」 放送にあわせて設置した 「篤姫館」 は県内外から66万人余りの入館者をみた。 この像は、その収益を基に、天璋院の功績を顕彰するため建立するものである。
         平成22年12月19日  「篤姫館」実行委員会  制作 中村晋也
JUGEMテーマ:写真

 鹿児島県歴史資料センター黎明館は、鹿児島市城山町にある資料館です。 島津氏の居住であった鶴丸城跡に1983年10月に開館しました。 常設展示として、「テーマ展示」 では鹿児島の歴史を「原始・古代」、「中世」、「近世」、「「近・現代」の4つに分け、政治・社会史を中心に編年的に展示されています。 また、部門別展示として 「歴史」 「民俗」 「美術・工芸」 の3つの部門に分け、実物を用いながら展示されています。(フリー百科事典 「ウィキペディア」より)
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:00 | comments(0) | - |
あたみ桜 糸川桜まつり
あたみ桜-1
道路沿いの 「あたみ桜」 が満開です。
あたみ桜-2
バス停 「銀座」 がある 「糸川橋;いとがわばし」。
あたみ桜-3
糸川橋付近で見る満開の 「あたみ桜」。
あたみ桜-4
糸川遊歩道
あたみ桜-5あたみ桜-6
あたみ桜-7
ピンクの花がきれいな 「あたみ桜」。あたみ桜-8あたみ桜-9
2月15日(日)まで 「第5回 あたみ桜 糸川桜まつり」 が開催されています。
レインボーデッキ
糸川橋から徒歩約10分で熱海海岸へ。
北イタリアのサンレモ市リビィエラ海岸をイメージした 「レンボーデッキ」。
サンビーチ
熱海サンビーチ
ムーンテラス
「恋人の聖地」 に認定されている 「サンビーチ」 と 「ムーンテラス」。 テラス尖端の噴水には恋人たちが愛を誓い合うことのできるモニュメントがあります。
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 2月7日(土) 熱海梅園の帰り、JR熱海駅行きバスに乗車しバス停 「銀座」で下車。 「第5回 あたみ桜 糸川桜まつり」 を撮影してきました。 日本で最も早く咲く桜 「あたみ桜」 が満開です。 梅と桜が同時に咲く、ひと足早い春に出会える町 熱海。 糸川橋から徒歩約10分で熱海ビーチへ、異国情緒が楽しめます。
| 桜の花 | 19:00 | comments(0) | - |
熱海梅園 梅の花が見頃です。
熱海梅園-1
第71回 熱海梅園 梅まつり会場
熱海梅園-2
2/7現在、紅梅 白梅が見頃です。
熱海梅園-3
美しく咲く紅梅。
熱海梅園-4
熱海梅園-5
熱海梅園-6
可憐に咲く梅の花。
熱海梅園-7
黄色い花がきれいな 「蝋梅(ろうばい)」。
熱海梅園-8
名前はわかりませんが、満開の黄色い花。
熱海梅園-9
熱海梅園-10
熱海芸妓連の演芸会と野点茶会。
熱海梅園-11
戦豆の猿まわし。
熱海梅園-12
大勢の観光客で賑わう熱海梅園。
JUGEMテーマ:写真

 2月7日(土)、第71回 熱海梅園 梅まつり を撮影してきました。 熱海梅園は、日本一早咲きの梅、そして遅い紅葉で有名です。 明治19年に開園、樹齢100年を超える梅の古木を含め58品種・473本あります。2月7日現在、梅園全体で見頃を迎えています。 この日は土曜日とあって大勢の観光客で大盛況です。
 3月8日までの梅まつり期間中の日曜日・祝日には、園内でミス熱海撮影会をはじめ色々なイベントが開催されます。
| 梅の花 | 19:00 | comments(0) | - |
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