黒門橋から見る彦根城内堀。 ちなみに黒門橋は、城山から槻御殿や玄宮園に向かう一番近い橋。 現在、内堀に架かる3つの橋の中で唯一土橋になっています。
内堀を優雅に泳ぐ白鳥。
「楽々園;らくらくえん」 玄関。 大老、井伊直弼の生家。
・・・・・・開国の英傑 井伊直弼も1815年10月29日に父直中の14男としてこの屋敷で生まれた。 と書かれています。
現在、楽々園は老朽化のため保存整備事業実施中です。
修理前の御書院棟。
「御書院」 内部(御次之間から御上段を見る)。
槻御殿(けやきごてん)
第4代藩主井伊直興が延宝5年(1677年)に着手し、同7年に完成したもので、下屋敷として築造され、木材は槻(jけやき)でその華麗さは各大名も驚嘆したものである。 大老井伊直弼は、文化12年(1815年)10月29日ここで生まれた。 これらの建物は数棟の東屋(あずまや)よりなり、今日に至るまでしばしば修理が加えられたが、往時のおもかげをとどめている。 第12代藩主直亮が文化年間(1804年〜1817年)に楽々之間を増築して以来、槻御殿という正式の名よりはむしろ楽々園の名のほうが有名になった。
楽々園の名は、「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」 の意からとったといわれ、民の楽を楽しむという仁政の意をもっているともいわれている。
楽々園、枯山水庭園。 庭園の奥に 「玄宮園」 があります。
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写真 楽々園は、滋賀県彦根市にある歴史的建造物と庭園および遺構。 かっては、江戸時代初期(1677年)に彦根藩4代藩主井伊直興によって造営が開始された井伊家の下屋敷であった。
「御書院」、「地震の間」、「楽々の間」、「雷の間」、「新東西の間」 や 「鳰の間」 など江戸時代後期の数奇屋建築が現存する。 江戸時代は 「槻御殿」 あるいは 「黒門外御屋敷」 と呼ばれており、明治時代以降に 「楽々の間」 から 「楽々園」 と呼ばれるようになったとされる。 御書院から望む庭園は玄宮園の池泉を借景とする枯山水である。 戦前までは庭園と御書院の間に池が広がっていた。
敷地は国の特別史跡 「彦根城跡」 の区域に含まれる。 また、隣接する大名庭園の玄宮園とともに 「玄宮楽々園」 として国の名勝に指定されている。(フリー百科事典・ウィキペディアより)