質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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PROFILE
会津若松の旅 その19 飯盛山(3) 宇賀神堂・会津さざえ堂
宇賀神堂-1
宇賀神堂 白虎隊十九士之霊像が安置されています。
宇賀神堂-2
正面上に掲げられている 「白虎隊士自刃之図」。
宇賀神堂-3
白虎隊十九士之霊像、手前の写真には 「白虎隊ただ一人の蘇生者飯沼貞雄氏(幼名貞吉)は嘉永6年若松に生れ蘇生後逓信省に任え技師となり退官後は仙台市に住んでいたが昭和6年2月12日79才で没した」 と記されています。
会津さざえ堂-1
会津さざえ堂-2
 国指定重要文化財 会津さざえ堂(旧正宗寺三匝堂;きゅうしょうそうじさんそうどう)
 さざえ堂は1796年に建てられたといわれる高さ16.5m、回廊の付いた六角三層の仏堂です。正面から螺旋状に右回りで上り、頂上の太鼓橋を越えると左回りの下りスロープになっていて背面出口に通じます。このような構造は木造建築として非常に珍しく、世界唯一の貴重な建物です。
会津さざえ堂-3
会津さざえ堂-4
 国指定重要文化財  旧正宗寺三匝堂(さざえ堂) 一棟 昭和57年3月30日指定
 六稜三層形式向拝付、銅板葺き(もと木羽葺き)
 「さざえ堂」 の通称があり、高さ16.5mで、初層真径約6.3mの六角形平面に回縁を付け、正面には唐破風の向拝を付している。
 正面から入ると右回りに螺旋状のスロープで登り、頂上の太鼓橋を越えると降りの左回りのスロープとなり背面出口に通ずる。 昇降を通じて建物内を三度回ることになるところから三匝堂の名がある。 スロープの内側に沿って西国札所の三十三観音像が祀られ、一度入ると巡礼を終えたことになるという、いわば江戸時代における庶民のための身近な巡礼の建物であった。
 『新編会津風土記』 には 「円通三匝堂」 と見え、寛政8年(1796)の建立と記され、また会津若松の実相寺の僧郁堂の建立とされている。
 仏堂建築としては、他に例を見ない特異なもので、六本の心柱(円柱)と同数の隅柱(六角柱)を駆使して、二重螺旋のスロープを造り上げた考案者である郁堂と棟梁の創意と技術には大きな意義がある。     福島県教育委員会
会津さざえ堂-5
「さざえ堂」 正面、これより参拝します。
会津さざえ堂-6
向拝の見事な彫刻。
会津さざえ堂-7
正面には、「円通三匝堂(さざえ堂)」 を建立した 「郁堂禅師」 の像。
会津さざえ堂-8
正面から入り、右回りに螺旋状のスロープを上ります。
会津さざえ堂-9
頂上の六角天井には無数の千社札。
JUGEMテーマ:写真

 白虎隊十九士の墓を御参りした帰りに、国指定重要文化財 「さざえ堂」 を参拝。 寛政8年(1796)、実相寺の僧郁堂により建立されたといわれる仏堂です。 六稜三層の形がさざえに似ていることからこの名で親しまれています。 参拝者は一度も対向する他の人に出会うことなく、また一度も同じ道を通ることなく、一方通行で参拝できる世界的にも珍しい建物です。
| 会津若松の旅 | 19:22 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その18 飯盛山(2) 白虎隊自刃の地
飯盛山-1
飯盛山-2
飯盛山に昭和3年、「ローマ市寄贈の碑」 古代宮殿の柱が建立。
飯盛山-3
飯盛山-4
フォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑。
飯盛山-5
 飯盛山に建つ 「白虎隊の歌詞」 作詞:島田磬也
          白 虎 隊
        戦雲 暗く 陽は落ちて
       孤城(こじょう)に月の 影悲し
       誰(た)が吹く笛か 識(し)らねど
       今宵(こよい) 名残りの 白虎隊
             ・
飯盛山-6飯盛山-7
白虎隊士自刃者の中で唯一人の蘇生者、飯沼貞雄翁の墓。
飯盛山-8
白虎隊自刃の跡。
飯盛山-9
 慶応4年(1868)8月23日(新暦10月8日)、年齢が16~17歳で構成された士中二番隊の白虎隊士は猪苗代から十六橋を越えて進撃した西軍と戸の口原で交戦するも、敵の軍事力に圧倒されて退き、戸の口洞門をくぐってこの地に至った。
 炎上する城下を前に、玉砕か帰城かを巡って、激論を戦わした。 敵陣突入を提案する者もいれば、鶴ヶ城が簡単に落城するはずがないとして帰城を主張する者もいた。 しかし、最終的に 「誤って敵に捕らえられ屈辱を受けるような事があれば、主君に対して大変申し訳なく、祖先に対しても申し訳ない。この場は潔ぎよく自刃し、武士の本分を明らかにするべき」 との決断にはじめて、全員が同意し、一同列座し南鶴ヶ城に向かって訣別の意を表し、全員が自刃した。
 後、一名が蘇生。 その名は飯沼貞吉である。
 なお、鶴ヶ城の開城はその一ヵ月後であった。
 (飯沼貞雄書白虎隊顛末記参考)
飯盛山-10
「白虎隊士自刃之跡」 の石碑と白虎隊士石像。
飯盛山-11飯盛山-12
白虎隊士石像がのぞんでいる方向が鶴ヶ城です。
JUGEMテーマ:写真

 白虎隊士は、飯盛山から約3km離れた鶴ヶ城が黒煙に包まれているのを目撃し、もはやこれまでと考え、この地で自害しました。 現在は白虎隊士の石像や慰霊塔が建立されています。 
| 会津若松の旅 | 19:00 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その17 飯盛山(1) 白虎隊十九士の墓
飯盛山-1
白虎隊墳墓の地・飯盛山参道入口
飯盛山-2
飯盛山-3
飯盛山参道入口の全景
飯盛山-4
飯盛山-5
飯盛山-6
飯盛山動く坂道
飯盛山-7
飯盛山-8
飯盛山-9
墓前には早すぎる死を悼む香煙が絶えません。
飯盛山-10
白虎隊十九士の墓
飯盛山-11
 松平容保(かたもり)公弔歌の碑  
 戊辰戦役当時自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し九代藩主松平容保公が次の弔歌を詠まれたのを現河東町ハ田野の篤志家八田宗吉氏がこの碑を刻み建てたものである。
        「幾人の涙は石にそそぐとも
               その名は世々に朽じとぞ思う」    源 容 保
飯盛山-12
少年武士慰霊碑
飯盛山-13
 会津藩殉難烈婦の碑
 この碑は、会津戊辰戦役で自刃又は戦死した婦女子二百余名の霊を弔うため昭和3年4月1日藩士山川健次郎氏(男爵、理学博士、帝大総長)等の篤志家によって建てられた顕彰碑である。
JUGEMテーマ:写真

 飯盛山(いいもりやま)は福島県会津若松市の中心部から少し東側にある標高314mの山。 この山が飯を盛ったような形なのでその名が付けられたという。 会津における戊辰戦争の舞台として有名なのが、白虎隊が悲劇の最期を迎えた地なのです。 山の山腹には戊辰戦争に参加した少年兵・19名の白虎隊士の墓があります。
| 会津若松の旅 | 19:14 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その16 山本覚馬・新島八重生誕の地
シルクロード文明館
会津葵シルクロード文明館 海と陸のシルクロードから集めた美の遺産を展示した、煉瓦蔵の小さな美術館です。シルクロードの雰囲気に浸ってカフェが楽しめます。
西郷頼母邸跡-1
西郷頼母邸跡-2
 会津藩家老 西郷頼母(さいごうたのも)邸跡
 戊辰8月23日朝、西軍が鶴ヶ城下に侵入し急を告げる早鐘が打ち鳴らされると会津藩士・家族達は籠城戦に備え競って入城を急いだ。
 西郷邸では、頼母の留守を預かる妻・千重子が長男・吉十郎を城に送り出した後、一族を集め、幼い者や子女は足手まどいになり、恥辱を受ければ家名の恥になると説き聞かせ、母・律子(58才)をはじめ、季子(2才)までの21人そろって辞世の和歌を詠み自刃した。
  ≪辞世の和歌≫  この日、郭内では、230余名の婦女子が自刃するという大きな悲劇を生む戦いとなった。一族21人の墓は、鶴ヶ城南、門田町北青木善龍寺にあって毎年5月その霊を弔う 「なよ竹祭り」 がしめやかに行なわれている。
鶴ヶ城の堀
鶴ヶ城の堀を見ながら、八重生誕の地へ向かいます。
田中玄宰
 山本覚馬・新島八重生誕地の案内表示と 「田中玄宰ゆかりの地」。
 田中玄宰(たなかはるなか) 寛延元年〜文化5年(1748〜1808)
 田中家は代々会津藩の家老を務める家柄。 中でも、寛政時代、財政逼迫にあえいでいた会津藩を見事な改革案で立て直したことで有名なのが田中玄宰です。
 会津藩は天明2年、3年(1782〜3)に大変な冷害を受けました。 特に天明3年は餓死者も出るほどの大飢饉となり、藩も膨大な赤字を抱えました。
 儒学を学び、34歳で家老となった田中玄宰はこの時、藩主・松平容頌(かたのぶ)に藩政の抜本的改革を願い出ますが、許されず一度は職を辞します。 しかし、天明5年に再び家老に任命され、天明7年にもう一度藩主に改革案を提出、認められ有名な 「寛政の改革」 が実施されます。 玄宰がすすめた殖産興業や軍制・学制改革は、多方面で大きな成果を上げます。 特にその功として、のちに白虎隊士らも学んだ 「藩校日新館」 の設置があげられます。 日新館は日本三大藩校に数えられ、優秀な人物を輩出しました。 玄宰の改革が文武ともに天下の雄藩と呼ばれる礎をつくったのです。
 「我が骨は城と日新館の見えるところに埋めよ」 という遺言によって小田山山頂に墓があります。
日新館跡
会津藩校・日新館跡、藩校建立の恩人・須田新九郎頌徳碑。
 会津藩校日新館跡
 日新館は会津藩五代藩主松平容頌の時代、享和3年(1803)に5年の歳月を費やて完成しました。 日本有数の藩校日新館は文武両道の学校で、上級武士の子は十歳で入学しました。 敷地面積は七千坪余、孔子を祀る大成殿を中心に、多くの学舎が立ち並び、常時千人もの生徒が学問や武芸に励みました。
 日新館は明治元年(1868)の会津戊辰戦争で焼失し、現在では天文台の一部が残るだけとなっています。
八重生誕の地-1
山本覚馬・新島八重生誕地の案内板。
八重生誕の地-2
鶴ヶ城の近くに、生誕地はあります。
八重生誕の地-3
新島八重相関図
八重生誕の地-4
生誕地がある閑静な住宅地。
八重生誕の地-5
八重生誕の地-6
 民家の門前に立つ掲示板。
 山本覚馬・新島八重生誕の地
 会津藩士・山本覚馬(1828〜1892)は、砲術師範で日新館教授。 1864年、藩主の京都守護職就任に伴い、京都に転任。鳥羽・伏見の戦いで囚われるが、その識見を買われて、維新後に京都府顧問となり、京都の近代化に貢献する。 1875年、新島襄と同志社英学校(現同志社大学の前身)を設立した。
 覚馬の妹・八重(1845〜1932)は、砲術が得意で、白虎隊には八重が指導したという若者も入隊した。 戊辰戦争では自ら鶴ヶ城に籠城。 城明け渡しの前夜、城壁に 「明日の夜は何国(いづこ)の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」 と簪(かんざし)で刻んだ。
 1871年、兄を頼って京都に転じ、1876年に新島襄と結婚。 同志社女学校(現同志社女子大の前身)の舎監を務めた。 兄同様に、京都でキリスト教に入信。 ともに洛東・若王子の同志社墓地に眠る。・・・・
八重生誕の地-7
八重生誕の地-8
民家の門前に建つ、「山本覚馬・新島八重生誕の地」 の石碑。 開城前夜に詠んだと伝わる歌が刻まれています。
JUGEMテーマ:写真

 鶴ヶ城見学と撮影を終え、案内板をたよりに 石碑 「山本覚馬・新島八重の生誕の地」 を訪ねました。 鶴ヶ城の西口から約500m、その碑は閑静な住宅地の中にあります。 この碑は、この付近にあった旧山本家を記念するため、民家のご支援を得て1989年5月30日に除幕されました。
| 会津若松の旅 | 20:08 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その15 鶴ヶ城(8) お城周辺の光景
鶴ヶ城-1
鶴ヶ城歴代城主家紋
鶴ヶ城-2
馬洗石 本丸南側土手側に藩主が馬術を稽古するための馬場があった。 この石は、馬の口洗いのために用いられたと伝えられている。(掲示板より)
鶴ヶ城-3
 萱野国老殉節碑(かやのこくろうじゅんせつひ)
 萱野権兵衛長修(かやのごんべいながのぶ)は国家老(くにがろう)として内政の責任を担っていた。 慶応4年(1868)戊辰戦争では先頭に立って激務にあたった。 また敗戦処理に際しては、城明け渡しや藩主父子の助命嘆願に力を尽くした。 その結果、藩主は死を許されたが、戦争責任は家老田中土佐(たなかとさ)、神保内蔵助(じんぼくらのすけ)、萱野権兵衛にあるとされ、田中、神保は既に死亡しており、萱野権兵衛のみがその罪を一身に背負い切腹した。 この碑は昭和9年、有志の手によって建立された。(掲示板より)
鶴ヶ城-4
鶴ヶ城-5
 鶴ヶ城稲荷神社
 この稲荷神社は約600年前にお城ができた頃から守護神として祀られていました。 当時はこれより東手の三ノ丸にあったものを現在の地に移されたといわれています。
 伝説によれば、築城の縄張りに苦心した芦名直盛が勧請先の田中稲荷神社に祈ったところ、霊夢があり目覚めてみると降り積もった雪に狐の足跡があり、それをしるべとして築城の縄張りを決め、名城を築くことができたと伝えられています。
 現在は蚕養国神社(会津若松市蚕養町)の管理で、元旦詣りや学業成就、商売繁盛、家内安全や交通安全祈願など広く人々の信仰を集めています。(掲示板より)
鶴ヶ城-6
鶴ヶ城-7
城内の老木。
鶴ヶ城-8
緑鮮やかな樹。
鶴ヶ城-9
忠魂碑
鶴ヶ城-10
  頌徳碑 松平保定
戊辰の役後 名城鶴ヶ城は没収され 後これが競売に附された時 旧藩士遠藤敬止氏は独力私財を投げて購入し明治23年これを旧藩主松平家へ献納した 城跡は現在会津若松市の所有に属している 明治百年にあたり頌徳碑を建立してその功に報いる   昭和45年10月

 遠藤敬止翁頌徳碑について(碑の前に立つ掲示板より)
 遠藤敬止翁(1849~1904年)は旧会津藩士。 会津戊辰戦争では各地に転戦の後鶴ヶ城に籠城した。 明治6(1873)年大蔵省銀行事務講習所の講師となり、「銀行実験論」を出版した。  明治11(1878)年仙台に第七十七国立銀行が設立されるに当たり教授役になり、明治14(1881)年2代目頭取に就任し、以降逝去するまで通算約23年間頭取を務め東北の経済発展に大きく貢献した。
 明治23(1890)年旧会津藩主松平家が政府より鶴ヶ城跡地86,806坪の払下げを受けた際、遠藤敬止翁は 「この城跡は戊辰の逆境に幾千の魂を留めた古戦場なので、千古の記念にしなければならない」 と私財を出し松平家に献納した。 現在この鶴ヶ城跡地は国の史跡に指定され会津若松市の所有となっている。 昭和45(1970)年この徳を称えて頌徳碑が建立された。
    平成15(2003)年6月遠藤敬止翁百年忌法要記念 遠藤敬止顕彰会
鶴ヶ城-11
 会津若松市観光PRキャラクター 「お城ボくん」。 平成23年にリニューアルされた赤瓦の鶴ヶ城をモチーフに、赤瓦のお城とロボットを融合したデザインとなっています。
鶴ヶ城-12
公園内休憩所
鶴ヶ城-13
鶴ヶ城天守閣(西側) 明治5年頃撮影
鶴ヶ城-14
休憩所から見る、赤瓦が美しい現在の 「鶴ヶ城天守閣」。
JUGEMテーマ:写真

 蒲生氏郷は、鶴ヶ城の生みの親。 統治はわずか4年でしたが、地名を 「若松」 に改め、城下町の基盤をつくり、今よりも高い七層の鶴ヶ城を築き、千家茶道の流れを汲む茶室鱗閣もつくりました。 その鶴ヶ城も明治7年(1874)取り壊され、その後昭和40年(1965)に天守閣再建。 そして平成23年(2011)天守閣屋根瓦を赤瓦に葺き替え完成。 今、その優雅な美しい姿を見ることができます。
| 会津若松の旅 | 20:18 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その14 鶴ヶ城(7) 城主ゆかりの茶室・鱗閣
鱗閣-1
鶴ヶ城主ゆかりの茶室・鱗閣(りんかく)の表門。 裏千家家元が書いた扁額が掲げられています。 福島県指定重要文化財(建造物)。
鱗閣-2
鱗閣-3
茶室 「鱗閣」 の歴史。
鱗閣-4
寄付(よりつき) 外露地に構えられる建物で、茶会に先立って客が連客と待ち合わせたり身支度を整えて、席入りの準備をする施設。 この寄付は、森川家から移築、復元したものである。(掲示板より)
鱗閣-5
竹垣が施されている庭園。
鱗閣-6
腰掛待合(こしかけまちあい) 客人がお茶席に呼ばれるのを待つ場所。
鱗閣-7
扁額には 「蒲鶴亭;ほかくてい」 の文字。 鎖の間(蒲鶴亭)、茶室に付けられた書院的な一室。 無駄を省いた茶室とは異なり、装飾をすることが許されています。
鱗閣-8
茶室・鱗閣、表千家家元が書いた扁額が掲げられています。
鱗閣-9
茶室・鱗閣(三畳台目席・さんじょうだいめせき)の入口、躙口(にじりぐち)。
お茶室特有の客人用の出入り口。縦横60cmぐらいの狭さで、身をかがめてようやくくぐれる程度の小窓。
鱗閣-10
敷石が並ぶ見学路。
鱗閣-11
苔むした茶室の屋根。
鱗閣-12
 三千家 系譜
 いまや 「SADO」 として世界的に認識されている茶道は、16世紀の後半に、千利休によって基礎がつくられました。 特に織田信長などの武将たちに好まれたため、政治的な部分を含め、影響力は高まっていきます。 しかし、本質的なところを究めようとする利休の考え方は、華やかさを好む時の権力者の豊臣秀吉には次第に疎まれるようになり、ついに利休は切腹を命じられ、千家も廃絶の危機に瀕しました。 このとき長男の道安を高弟の細川忠興が、同じく次男の小庵を蒲生氏郷が蟄居とする形で引き受け、やがて赦免されて二人は千家を再興します。 道安が継いだ堺千家は途絶えてしまいますが、小庵は子の宗旦へ家督を譲り、宗旦の子の代で 「表」 「裏」 「武者小路」 の三千家が興され、以後現代まで受継がれてきています。
鱗閣-13
 森川家ゆかりの牡丹(ぼたん)
 若狭守森川重則は、慶長17年(1612)に蒲生氏郷の子秀行公より、城内にあった牡丹の木を拝領した。 そののち三代忠郷は若くして死亡。 蒲生家は御家断絶。 その後森川家は浪人となったが、この牡丹を自宅で大切に保存し、佳節(かせつ・・・めでたい日)には旧重臣等相寄り、この牡丹を囲んで旧主を偲んだと伝えられている。 この牡丹は、平成4年に復元された鱗閣へ移された。(掲示板より)
鱗閣-14
金之間跡、本丸御殿の応接間だったところを礎石で表しています。
JUGEMテーマ:写真

 輪郭の歴史
 戦国時代に織田信長のもとで茶道を大成させた千利休でしたが、豊臣秀吉の怒りに触れて切腹を命じられました。 【利休七哲】 として茶道の弟子の筆頭格だった会津藩主・蒲生氏郷は、千家がお取りつぶしになると茶道全体が廃(すた)れてしまうと危惧し、利休の子の小庵をかくまいました。 その間氏郷は秀吉に千家再興を願い出て、許しが得られたため小庵は1594年に京都に戻り、やがて現在の表・裏・武者小路の三千家に分かれました。 この小庵が会津にいる間に鱗閣が建てられたと伝えられています。 茶室の中にある 「床柱」 は、小庵が自ら削ったものだとも伝えられています。
 その後、鶴ヶ城はめまぐるしく城主が入れ替わります。 特に1643年に会津の領主となった保科正之は、のちに 「大名三茶人」 に 数えられるほど茶道を好み、特に武家茶道として石州流を興した片桐石州に師事して会津にも広めました。
 そして戊辰戦争となり、降伏後、城内の建物はすべて取り壊されることになっていましたが、市内の茶人森川善兵衛が由緒ある茶室が無くなることを惜しんで、自邸に移築・保存しました。 その後平成2年(1990)にもとの場所へ復元されることになり、建物は福島県の重要文化財に指定されるなど往時の姿を守りながら、心豊かな空間をつくりだしています。(鱗閣リーフレットより引用)
| 会津若松の旅 | 19:18 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その13 鶴ヶ城(6) 武者走りと美しい石垣
武者走り-1
武者走り-2
鶴ヶ城 武者走り
武者走り-3
向かって右側が 「昇り」。
武者走り-4
向かって左側が 「降り」 として造られています。
武者走り-5
天守閣展望台から眼下に見る 「武者走り」。
石垣-1
見事に積み上げられた、切込みはぎの石垣。
石垣-2
椿坂にある巨大な 「遊女石」。 推定7.5トンで、城内最大の石材だそうです。 遊女の歌や踊りに励まされて動かしたと伝えられています。
石垣-3
台形に積み上げられた美しい石垣、見事な出来栄えです。
石垣-4
石垣-5
城跡に見られる美しい石垣を撮影。
石垣-6
桜の老木と石垣が美しい。
石垣-7
水堀に映える石垣。
JUGEMテーマ:写真

 鶴ヶ城天守閣の見学を終え、再び美しい石垣を撮影しました。 V字型に造られた 「武者走り」、石を削り、きれいに整形してして積む 「切込みはぎ」 の石垣。 遊女の歌や踊りに励まされて動かしたと伝えられる 「遊女石」、建築当時にタイムスリップしてその光景をカメラに収めたいものです。 天守台の 「野面積み」 と併せて美しい石垣は鶴ヶ城の見どころの一つです。
| 会津若松の旅 | 19:00 | comments(1) | - |
会津若松の旅 その12 鶴ヶ城(5) 美しい景観
鶴ヶ城-1
城内で開催されている紙芝居 「新島八重物語」。 敗者となった者たちが生きていくには知識を身につけるしかないと必死に勉強する姿が描かれています。
鶴ヶ城-2
唯一撮影できた、城内南走長屋。
鶴ヶ城-3
南走長屋の格子戸より撮影。 天守閣南側の美しい景観。
鶴ヶ城-4
鶴ヶ城-5
天守閣の見学を終え、周辺の美しい景観を撮影。
鶴ヶ城-6
城址に立つ 「天守閣再建50周年」 の掲示板。
鶴ヶ城-7
掲示板と同じ構図で撮影したもの。
鶴ヶ城-8
昭和40年(1965)に復元された鉄門(くろがねもん)。 奥御殿に通じる表門。
名称の由来ともなった鉄張りの門扉だったため、建物が頑丈であり、大砲の死角になったことから、戦争時鉄門内で作戦会議が開かれたそうです。
鶴ヶ城-9
鉄門から見た天守閣。
鶴ヶ城-10
国内唯一の赤瓦が美しい層塔型5重5階の鶴ヶ城天守閣。 お城が最もきれいに見えるアングルです。
JUGEMテーマ:写真
 
 鶴ヶ城は今から約630年ほど前に、その前身ともいえる東黒川館を蘆名直盛(あしななおもり)が築いたのがはじまりと言われ、戊辰戦争では1ヶ月に及ぶ激しい攻防戦に耐えた名城。 明治7年に取り壊されましたが、昭和40年に再建、平成23年には赤瓦へのふき替えが完了し幕末当時の姿に再現されました。 その優美な天守閣を最高のアングルで撮影することができ感動です。
| 会津若松の旅 | 19:07 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その11 鶴ヶ城(4) 天守閣
鶴ヶ城-1
明治7年(1874)に取り壊されましたが、昭和40年(1965)に再建された 「鶴ヶ城」。
鶴ヶ城-2
鶴ヶ城入場券売場。
鶴ヶ城-3
真下から見上げる鶴ヶ城天守閣。
鶴ヶ城-4
天守台は野面積みの石垣。
鶴ヶ城-5
若松城天守閣入口と渡し石。 残念ながらこれより先、城内は撮影禁止。
鶴ヶ城-6
 展望台から見下ろす手前から走長屋(はしりながや)、鉄門(くろがねもん)、南走長屋、干飯櫓(ほしいやぐら)。 南走長屋、干飯櫓は江戸時代の工法・技術で平成13年(2001)に復元されました。
 走長屋は、戦いの際に本丸を守るため武士たちが行き来できるように造られた建物、鉄門は昭和40年(1965)に復元され、名前の由来は鉄張りの門扉、干飯櫓は天守閣につながる重要な位置に建てられ城内にあった11の二重櫓の中で一番大きい櫓で食料の貯蔵庫として使われました。鶴ヶ城-7
鶴ヶ城-8
平成23年(2011)には赤瓦へのふき替えが完了し幕末当時の姿を再現、現存する天守閣では国内唯一の赤瓦の天守閣となっています。
鶴ヶ城-9
鶴ヶ城-10
鶴ヶ城-11
鶴ヶ城天守閣展望台からの眺望。 城下町を360度のパノラマで見渡せます。
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 若松城は、福島県会津若松市追手町1-1にあった城である。 地元では鶴ヶ城(つるがじょう)といい、地元以外では会津若松城と呼ばれることも多い。 文献史上では黒川城、会津城とされることもある。 国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。(フリー百科事典・ウィキペディアより)

 慶応4年(1868)の戊辰戦争で、新島八重は籠城戦に参加し、銃や大砲で戦うだけでなく、食事の用意や弾丸製造、負傷者の手当てなどもこなしたという。 新政府軍から天守閣へ砲弾が撃ち込まれると、八重も城南の砲台から迎撃するなど男性顔負けの活躍をした。 その後鶴ヶ城は開城したが、八重の奮闘ぶりは後世に語り継がれることとなった。(るるぶ情報版より)
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会津若松の旅 その10 鶴ヶ城(3) 美しい石垣
廊下橋
これより 「廊下橋」 を渡ります。 元々屋根付きの廊下造りだったことが名前の由来。 二の丸と本丸を結ぶ、長さ約14m、幅約5m、堀からの高さ10mの橋。 敵が侵入できないように切り落とすこともできた橋です。
石垣-1
石垣-2
廊下橋上から撮影した水堀左右の石垣。
石垣-3
石垣-4
石垣-5
石垣-6
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様々な形状の石が積み上げられた石垣、美しい模様を呈しています。
石垣-8
石垣-9
歴史を感じる苔むした石垣。
石垣-10
石垣の前に建つ案内板。
石垣-11
蒲生」時代の表門表示。
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 難攻不落の名城とうたわれた 「鶴ヶ城」 は、戊辰の戦役で新政府軍の猛攻の前に籠城一カ月、城は落ちなかった。 その後、明治元年(1868)9月開城。 明治7年(1874)石垣や立樹などを除き天守をはじめとする建造物は総て解体された。
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