臼杵城古橋口を入ると直ぐ 「鐙坂;あぶみざか」 です。
大友時代から登城路として使われていた道で、外敵を防ぐため岩を掘り切って造った狭い道です。馬の鐙(あぶみ)に似ていることから、「鐙坂」 と呼ばれました。 太田氏時代には内堀をまたぐ橋が掛けられ、稲葉氏時代には 「古橋 」 と呼ばれていました。
※鐙とは、鞍の両脇にさげ騎者の足をふみかける馬具。(広辞苑より)
畳櫓(たたみやぐら) 天保年間に再築された櫓で、1階と2階の床面積が同じ 「重箱造り」 という古式の構造をしています。 解体修理の際に、下見坂で隠された銃眼 「隠し狭間;かくしさま」 のあることがわかりました。
掲示されている案内板。
稲葉氏の城郭改修
帯曲輪(おびぐるわ)
大友氏時代から太田時代(1556―1600)にかけて、臼杵城二之丸、本丸に入るには、城下町に面した入口から鐙坂(あぶみざか)を通り現在の弓道場の横を抜けて城の東部にあたる空堀にたどりつき、そこから上るという大変遠回りをするコースをたどっていました。
稲葉氏の入城直後、町場に近い位置に登城口があるのは防衛上不安があったためか、新たに三之丸のやや奥まった部分に登城口を設け二之丸へと上がる間に中之門、上之門と呼ばれる門と枡形(ますがた)を造るという守りの堅い城内通路が整備されました。 これによって旧来の道は上之門を境に2つに分断され、畳櫓から上之門に至る空間が帯のように細長いものであることから帯曲輪と呼ばれるようになりました。
また、この新しい登城口を今橋口(いまはしぐち)、それ以前の鐙坂の登城口は古橋口(ふるはしぐち)と呼ばれるようになったのもこの頃からです。
※枡形とは、城の一の門と二の門との間の広く平らな正方形または長方形の地。 ここで敵の進む勢を鈍らせる。(広辞苑より)
畳櫓(たたみやぐら) 畳櫓は、桁行4間(7.92m)、梁行3間(4.44m)の2階建て、入母屋造りの屋根を持つ櫓です。 この櫓は、正保年間(1644〜1648年)頃に建てられたのが始まりのようです。 宝暦13年(1763年)の大火で焼失しましたが、その再建は明和年間(1764〜1772年)頃ではないかと推定されます。
「畳櫓」 という名称については、祇園社(現在の八坂神社)から見た方角(たつみ)が由来する説や中に畳が敷かれていたからという説等がありますが、はっきりした由来は不明です。
時鐘(ときのかね)
この時報楼の鐘は 「原山時鐘;はらやまときかね」 といいます。 鐘に刻まれた銘によると、元禄13年(1700年)に鋳造されたとあります。 その後、寛政2年(1790年)に改鋳され、江戸末期までは原山時鐘堂(二王座)で時を告げていたものと記録に残っています。
明治6年(1873年頃)の臼杵城廃城後、この 「原山時鐘」 が臼杵城跡畳櫓横へ移され、その後も昭和末期まで、鐘の音を聞くことができました。
しかし、いつの頃からか鐘の撞(つ)き手がなくなり、「鐘の音」 は途絶えたままとなっていました。 平成20年(2008年)、臼杵城跡西ノ丸鐙坂の土塀復元に際し、この鐘は畳櫓横から約140年ぶりに、ここ時鐘櫓跡に置かれたが、鐘の音が復活することはありませんでした。
そこで、平成22年(2010年)6月、臼杵ロータリークラブは、創立50周年記念事業として、鐘の音を復活するため、「時報楼」の整備を行いました。
遠い元禄の昔から、うすき市民の思い出に刻まれつづけた鐘の音を感じていただければ幸いです。
大門櫓(だいもんやぐら)
17世紀初頭に城内通行の利便を高めるために造られたと思われる櫓門で、17世紀後半に二の丸居館ができると玄関口のような存在になりました。 平成12年に摸擬復原建物が整備されました。 両脇の石垣は18世紀後半とみられる 「亀甲積;きつこうづみ」 です。
大門櫓をくぐると、二の丸跡に出ます。
現在、二の丸跡には 「臼杵護国神社」 があります。
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写真 臼杵公園(臼杵城跡)
大友宗麟によって築かれ、江戸時代は臼杵藩5万石の城として幾多の歴史を積み重ねてきた臼杵城。 春になると約千本の桜が見事に咲き誇り 「臼杵城址桜まつり」 が行われます。
尚、写真の説明文は、うすきがいど、臼杵城散策マップや案内板より引用しました。