質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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九州・大分の旅 その12 湯布院散策(2) 湯の坪街道
由布院駅-1
JR久大本線 由布院駅正面。 大分県由布市湯布院町川北8-2
由布院駅-2
駅舎に掲示されている駅名。 「由布院」「湯布院」でなく平仮名で書かれています。
由布院駅-3
横から見た駅舎。 平成2年(1990)竣工。 設計は大分県出身の建築家磯崎新氏。
由布院駅-4
駅の真正面に 「由布岳」 を望むことができます。 標高1584mで、東峰と西峰の二つのピークを持つ独立峰。 豊後富士の愛称で親しまれ、九州一の美峰です。
湯布院の風景-1
駅舎に向かって左側の樹木に、この時期(2012・10・28撮影)紅葉が見れます。
湯布院の風景-2
駅前通りを走る英国式クラシックカー 「ゆふいん観光スカーボロ」。 一日5便、定員9名で当日予約。 由布岳の絶景ポイント、津江の中道を走ります。
湯布院の風景-3
撮影日が休日とあって、たくさんの人で賑わう湯布院の目抜き通り 「湯の坪街道」。
湯布院の風景-4
湯の坪街道を 「ゆふいん観光人力車」 がゆったりと進みます。 ちなみに料金は一区間(約1km)御一人様2000円、御二人様3000円から、優雅な旅が楽しめます。
湯布院の風景-5
街道の中ほどにある行列ができる店、金賞コロッケ 2号店。 「全国コロッケコンクール」 で金賞を受賞したコロッケ屋さん。 サクサク、トローリの食感がヤミツキに!
湯布院の風景-6
レトロな看板が素敵な 「醬油屋本店」。 200種以上の調味料や惣菜を販売。 醸造元のもろみで漬けた自家製の漬け物が豊富です。
湯布院の風景-7
色とりどりの傘の花、湯布院は被写体が豊富です。
つわぶき
街道の石垣に咲く秋の花 「つわぶき」 がきれいです。 漢字で書くと 「石蕗」。 葉が蕗(ふき)に似ている。 名前は “つや” のある葉から “つやぶき” それが変化して “つわぶき” となった。 花言葉は 「秘めた想い」 「困難に傷つけられない」。
JUGEMテーマ:写真

 由布院駅から金鱗湖(きんりんこ)方面に向かう途中にある湯布院のメインストリート 「湯の坪街道」、観光客であふれています。 地元名産の土産店から雑貨屋やギャラリー、カフェまで、個性的な店が軒を連ねるこの通りは女性の人気スポットです。 
| 九州・大分の旅(日田・湯布院) | 19:00 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その11 湯布院散策(1) のどかな風景
のどかな風景-1
のどかな風景-2
JR久大本線沿線の、のどかな風景を撮影しながら由布院へ。 久大本線は、福岡県久留米市の久留米駅から大分県大分市の大分駅に至る全長141.5kmの九州横断路線。 「ゆふ高原線」 の愛称で親しまれています。
のどかな風景-3
のどかな風景-4
久大本線沿線の田んぼに白い物体! これは 「ロールベールサイレージ」 と呼ばれ、ロールの中身は牛が食べる牧草です。 昔は牧草を保存するサイロという円筒形の建物の中に貯めていましたが、コストがかさむことから、現在はロールベールサイレージに変わっています。
のどかな風景-5
清らかな川の流れを眼下に眺めながら、のどかな旅は続きます。
豊後中村駅
日本一の九重 “夢” 大吊橋の玄関口 「豊後(ぶんご)中村駅」。 特急 「ゆふ」 が停車します。 古くから木造駅舎がありましたが、平成22年(2010)に茅葺き屋根の新駅舎に建て替えられました。
のどかな風景-6
のどかな風景-7
幾何学的模様がきれいな風景です。
由布院駅-1
ゆふ高原線 由布院駅に到着。
由布院駅-2
由布院駅ホーム 真っ赤な電車がよく似合います。
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 「由布院」 と 「湯布院」 はどちらが正しいのか? どちらも間違いではありません。 湯布院は昭和30年に由布院町と湯平町が合併して誕生した地名です。 厳密にいうと、湯平町を含む場合は湯布院、含まない場合は由布院となります。 時が流れるにつれ、湯布院と由布院をきっちり分けて考える地元住民も少なくなり、又、観光に訪れる人も、駅は 「由布院」、観光地は 「湯布院」 の感覚でとらえているようです。(HPゆふいん観光より) 
 当ブログもそれに従って、駅は 「由布院」、観光地は 「湯布院」 と表記します。
| 九州・大分の旅(日田・湯布院) | 19:00 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その10 小京都・日田(10) 咸宜園(2) 素朴な佇まい
咸宜園-1
園内にある 「咸宜園教育研究センター」。
咸宜園-2
近世最大の私塾 「咸宜園」 を開いた淡窓肖像。 世界文化遺産の登録を目指す。
咸宜園-3
教育研究センターから見る 「秋風庵」 と 「遠思楼」。
咸宜園-4
素朴な佇まいの 「遠思楼」。 階下は書庫、階上は淡窓の書斎。
咸宜園-5
二階の書斎に上がれます、丸窓からの眺望。
咸宜園-6
 遠思楼(えんしろう)
 史跡咸宜園跡の一角に建つこの二階家は、嘉永2年(1849)廣瀬淡窓が68歳のときに書斎として建てられ、遠思楼と名づけられた。
 淡窓はこの楼を好んで使い、階下は書庫とし眺望のよい階上では読書や思索のほか門弟や知人たちと詩会を催し、月や雪をめでて小宴や談話を楽しんだりした。
 明治維新以降塾の衰退によって、明治7年(1874)には中城川畔に移され、多少の改修を加え民家として使われていた時期もある。
 昭和29年(1954)には、淡窓忌百年祭の記念事業として淡窓の居宅である 「秋風庵」 の裏に還された。 老朽化に伴ない、文化庁の補助を受けて保存修理工事が行なわれ、平成13年、往時の場所に素朴なたたずまいが復原された。 淡窓の漢詩集 「遠思楼詩鈔」 は、この建物に由来しこの楼の名を世にしらしめている。
咸宜園-7
淡窓の居宅 「秋風庵」。 淡窓は安政3年(1856)ここで没しました。
咸宜園-8
重厚な萱葺きが美しい 「秋風庵」 の玄関。
咸宜園-9
一階台所。
咸宜園-10
咸宜園-11
二階の部屋。
咸宜園-12
一階の部屋では、撮影当日も講話が開催中でした。
JR日田駅
小京都・日田の撮影を終え、再びJR日田駅へ帰ってきました。
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 日田は、文禄3年(1594)豊臣秀吉の蔵入地(直轄地)を支配する代官が置かれ、以来大名による支配もありましたが、それ以外は明治時代まで徳川幕府の天領となった地です。 今回の撮影の旅ではJR日田駅の北西、碁盤の目のような町筋 「豆田町」 や咸宜園を撮影しました。 天領の面影を残す古い町並みは絶好の被写体です。
 小京都・日田の撮影を終え、次の撮影地 「由布院」 へ向かいます。 由布院はJR日田駅から久大線(ゆふ高原線)に乗り、特急で約1時間のところにあります。
| 九州・大分の旅(日田・湯布院) | 19:00 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その9 小京都・日田(9) 咸宜園(1) 現存する遺構
咸宜園-1
日田市淡窓2丁目にある 「史跡咸宜園跡」。
咸宜園-2
東塾 絵図は塾生の話しをもとに描いたもの【大正2年(1913年)】 画師 長岡永邨
咸宜園-3
西塾
咸宜園-4
 史跡 咸宜園跡(かんぎえんあと)
 ここは、幕末の儒者廣瀬淡窓(1782年〜1856年)の私塾咸宜園のあとである。 淡窓は、文化2年(1805)24才の時、豆田町の長福寺を借りて開塾したが、2年後に桂林荘(けいりんそう)を中城川の側に建ててそこに移った。 その後、文化14年桂林荘をこの地に移し、新に咸宜園と名づけた、以来、旭荘、青頓、林外等に承けつがれ、明治30年までの90年間に、全国から集まって来た約4,800人の子弟を教授した所である。 当時は、道を挟んだ西側に考槃楼(こうはんろう)などの西塾があり、東側の東塾には、この秋風庵(しゅうふうあん)の外、心遠処(しんえんしょ)、遠思楼(えんしろう)、講堂などが建ち並んでいた。 遺構としては、秋風庵と遠思楼及び西塾の車井戸のみが残っている。 秋風庵は、淡窓の伯父月化(俳人)が天明元年(1781)に建築したもので、東西八間半、南北三間半、東南に二階を持つ草葺の建物である。 淡窓は安政3年(1856)ここで没した。 現在でも秋風庵のまわりは、その頃の形態をとどめており往時をしのぶことが出来、学術上の遺跡として重要な文化財である。
     昭和7年7月22日国の史跡に指定されている。
咸宜園-5
史跡咸宜園跡入口
咸宜園-6
 国史跡 咸宜園跡 日田市淡窓2丁目
 江戸時代後期には日本全国で教育熱が高まり、各地で藩校や郷校(ごうこう)といった学校のほか、個人による私塾が多く開設された。 豊後日田の儒学者・廣瀬淡窓(1782ー1856)は豆田町の豪商廣瀬家の長男として生まれたが、生来病弱のため家督を弟・久兵衛に譲り、自らは学問教授の道に進んだ。 文化2年(1805)長福寺学寮を借りて開塾、その後 「成章舎」 「桂林園」 を経て、文化14年(1817)淡窓36歳のときに、自ら幼いころに養育され、俳人として著名な伯父月化の居宅・秋風庵の隣に塾を構え、「咸宜園」 と呼んだ。 咸宜園の 「咸宜」 とは  『詩経』  からとった言葉で、「ことごとくよろしい」 という意味である。
 入門時に身分・年齢・学歴を問わない 「三奪法;さんだつほう」、学力に基づき等級別に評価した「月旦評;げったんひょう」、門下生に塾の運営に関わる役割を与えて社会性を身につけさせる 「職任制;しょくにんせい」 などの独自の教育手法が評判となり、全国から多くの門下生が集まった。 現在も4,600名を超える 「入門簿」 が残されており、著名な人物に、大村益次郎、長三洲、上野彦馬、清浦奎吾、横田国臣(くにおみ)らがいる。 このほかに淡窓の日記などに名前が記された門下生を加えると、咸宜園で学んだ者は5,000名を超える。 門下生の多くは咸宜園で学んだ後に、藩校の教授となったほか、自ら私塾を開いた。 あるいは、明治学制発布後に学校の教師となり、近代教育の発展に貢献した。 咸宜園は淡窓没後も弟や義子、門下生に引継がれ、明治30年(1897)に閉塾するが、江戸時代の私塾としては最大の規模を有していた。
 咸宜園の建物は、門下生が増え、塾の規模が拡大するに従って増加した。 発掘調査の成果や残された絵図等から、門下生の学びと生活の場や、塾主の居宅・書斎を含めた多くの建物が確認された。 道を挟んだ東側に講堂・東塾・秋風庵・遠思楼など、西側には考槃楼・西塾・南塾などがあったが、明治以降、次第に失われていった。 その後、咸宜園蔵書を保管するための書蔵庫や淡窓図書館が敷地内に建設され、現在は東側に秋風庵・遠思楼・書蔵庫(移築後修理)・井戸屋形・外便所が残り、西側に井戸が現存している。
咸宜園-7
史跡咸宜園跡案内図 青字が現存する歴史的建造物。
咸宜園-8
咸宜園絵図
咸宜園-9
初桜之句碑(廣瀬月化の句碑) 「末世とは 何で言うたぞ 初桜(半津作久楽)」
咸宜園-10
現存する歴史的建造物 書蔵庫(移築後修理)
咸宜園-11
遠思楼(えんしろう)
咸宜園-12
秋風庵(しゅうふうあん)
咸宜園-13
井戸屋形
JUGEMテーマ:写真

 JR日田駅の北西1kmほどの場所にある廣瀬淡窓が文化14年(1817)に開いた私塾 「咸宜園跡」 があります。 萱葺きの 「秋風庵」 は淡窓のかっての住居で、90年に及ぶこの塾の歴史を解説した資料などが展示されています。 国指定の史跡。
| 九州・大分の旅(日田・湯布院) | 19:00 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その8 小京都・日田(8) 豆田町(7) 廣瀬資料館
ひな御殿
天領 『雛(ひな)御殿』。 歴史あるお雛さまを種類豊富に展示。 江戸時代(享保、天保)の雛人形など三千体以上を公開しています。
天領日田げた
製造直売の 「天領日田げた」 が店頭に並ぶお土産屋さん。
廣瀬資料館-1
幕府の御用商人だった廣瀬家の蔵を改築した資料館 「廣瀬資料館」。
廣瀬資料館-2
豊後の三賢人の一人である廣瀬淡窓の生家。
廣瀬資料館-3
蔵を利用した廣瀬資料館 「一号館」。 内部は撮影禁止。
廣瀬資料館-4
一号館前に掲示されている案内板。
廣瀬資料館-5
廣瀬資料館-6
漆喰壁から往時が偲ばれます。
廣瀬資料館-7
 日田の先哲 廣瀬家の先哲 八人
 【廣瀬月化】(ひろせげっか)
 商家博多屋(廣瀬家)に生まれる。 江戸時代中期の俳人として著名。 月化の時代明和6年(1769)広瀬家は、江戸幕府から初めて諸藩御用達を命ぜられる。
 【廣瀬桃秋】(とうしゅう)
 月化の弟で俳人。 淡窓の父。 後に家業を継ぐ。
 【廣瀬淡窓】(たんそう)
 儒学者・教育者。 敬天思想を持ち教聖といわれる江戸後期九州山間の日田に、全国から三千有余人の塾生が集い、師弟共に相親しみ学んだ私塾 「咸宜園;かんぎえん」 を創設。 明治維新後の日本教育界に歴史的多大な影響を与えた。
 【廣瀬秋子】(ときこ)
 病気がちの兄淡窓の心からなる健康と大成を願うも若くして病死。 淡窓より孝悌烈女の名を贈られた。
 【廣瀬久兵衛】(きゅうべえ)
 経世家。 淡窓の次弟。 淡窓にかわり家業を継ぐとともに、西国筋郡代塩谷大四郎の信任を得て、日田小ヶ瀬井出の開鑿(かいさく)などとともに、府内藩や福岡藩等に出向き、新田開拓事業、治水、殖産工業、財政立て直しなどを行った。
 【廣瀬旭荘】(きょくそう)
 儒学者・詩人。 淡窓の末弟だが養子となり学問に専念。 若くして咸宜園を継いだ。
 【廣瀬青邨】(せいそん)
 儒学者。 幕末の動乱期に淡窓の養子となり咸宜園を継いだ。 又、幕府の長州征伐失敗後、大政奉還、王政復古、さらに慶応4年(明治元年)倒幕戦争の開始と歴史が大きく動く時、抗戦姿勢の西国筋郡代窪田次郎右衛門に対し天下の形勢を進言。 日田からの立ち退きを実現させた。
 【廣瀬林外】(りんがい)
 儒学者。 旭荘の長男だが淡窓の嗣子(しし)となり、明治初期の最も困難な動乱期、御一新の世に咸宜園を継ぎ、塾経営の立て直しを行った。
   この先哲八名は『廣瀬八賢』ともいわれている。   日田市教育委員会
廣瀬資料館-8
唯一撮影ができる資料館内部。
廣瀬資料館-9
部屋の入口に掲げられた書、廣瀬家の家訓 『心高身低』(志は高く、身は低く)。
JUGEMテーマ:写真

 幕府の公金を取り扱う掛屋を営んでいた日田の豪商・廣瀬家は、広瀬淡窓の生家。 資料館には往時の天秤計りや各藩に貸し付けた証文、茶道具などが展示されています。 また、廣瀬家家訓 「心高身低」 は、今を生きる人生の教訓としたいものです。 
| 九州・大分の旅(日田・湯布院) | 19:00 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その7 小京都・日田(7) 豆田町(6) 市山亭懐古館
市山亭懐古館-1
重厚な門構えの市山亭懐古館(しざんてい かいこかん)。
市山亭懐古館-2
門を入ると正面に白壁が美しい重厚な木造建築物。
市山亭懐古館-3
館内に展示されている、粋できらびやかな町人文化、贅を尽くした節句人形。
市山亭懐古館-4
江戸・明治、往時の格式高い膳が並びます。
市山亭懐古館-5
座敷の一角に飾られた花瓶と屏風絵。
市山亭懐古館-6
市山亭懐古館-7
江戸時代から続いた、おもてなし文化を物語る陶磁器・漆器などが展示。
市山亭懐古館-8
嘉永6年(1853)、木下逸雲の書による額 「市山亭」。
市山亭懐古館-9
「市山亭の詩」 弘化2年(1845) 広瀬淡窓。
市山亭懐古館-10
 逸雲の間 嘉永5年(1852)創建、秋の七草のふすま及び衝立のぼたんの絵は長崎の三大画家の一人として有名な木下逸雲が描いたものです。(案内板より)
 12畳と8畳の座敷は創建された当時のまま残っている貴重な建造物です。
市山亭懐古館-11
衝立に描かれた、木下逸雲作のぼたんの絵。
市山亭懐古館-12
心和む庭園。
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 市山亭(しざんてい)は徳川幕府の天領として栄えた日田随一の料亭として、代官や、全国の文人墨客に愛され、親しまれてきました。市山亭という家号には、「山の中にあって市を成す。町にあって山の風情を漂わせる」 という意味が込められています。
 市山亭懐古館では、料亭時代を通じ200余年にわたって収集したり、寄贈された美術品や市山亭コレクション、書画、食器などを6つのコーナーに分けて展示しています。(市山亭懐古館案内文より)
 
 【ミニ知識】 木下逸雲(きのした いつうん)・・・フリー百科事典・ウィキペディア
 寛政12年(1800)〜慶応2年(1866)。 江戸時代後期の長崎の南画家。 鉄翁祖門・三浦梧門と共に長崎三大画家とされる。 逸雲は多芸多才で知られ、書・篆刻(てんこく;木・石・金などに印を彫ること)を能くし、琵琶の演奏・制作に巧みで、煎茶をたしなみ、藤原相宰の名で優れた和歌を詠んだ。
| 九州・大分の旅(日田・湯布院) | 19:00 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その6 小京都・日田(6) 豆田町(5) 国の重要文化財
長福寺-1
長福寺 山門。
長福寺-2
 長福寺(ちょうふくじ)本堂 日田市豆田町53番地
 当寺は、天正12年(1584)に武内山城守によって開山されたと伝えられ、寛永14年(1637)に現在の地に遷った。
 寛文9年(1669)に建造された本堂は、江戸時代前期から後期に至る平面及び装飾の変遷過程がわかり、真宗寺院建築の様式や技法をよく残している。 西本願寺旧本堂の西山別院と類似した建築様式をもった全国的にも貴重な建築物である。
 長福寺はほかにも江戸時代の古い建造物群を残す天領日田の代表的寺院である。
    ○ 鐘楼(しょうろう)          安永 6年(1777)
    ○ 常燈明堂(じょうとうみょうどう) 享保11年(1726)
    ○ 経蔵(きょうぞう)          享保20年(1735)
    ○ 山門(さんもん)          19世紀前半
    ○ 燈篭(とうろう)           元禄13年(1700)
 広瀬淡窓の自伝 「懐旧楼筆記(かいきゅうろうひっき)」 によると、長福寺は淡窓が幼少のときに学び、24歳のとき 「長福寺学寮(がくりょう)」 を借りて初めて開塾したところとしても知られている。
  平成18年7月5日 国指定重要文化財     日田市教育委員会
長福寺-3
長福寺-4
19世紀前半に建造された長福寺山門。 木組みや彫刻が素晴らしいです。
長福寺-5
長福寺-6
 国の重宝文化財 長福寺本堂。
 本堂の建築年代は、記録から寛文9年(1669)とされていましたが、今回の解体調査により、外陣中央間仕切り部分に存する蓑束上部の実肘木から 「寛文8年6月豊後之國日田郡友田村之住人(後)藤作之丞作之」 の墨書が発見され、寛文期に建てられた事が明らかになりました。
 御本尊は、14世紀後半の作といわれる木造阿弥陀如来立像で、他に寛永元年(1624)の親鸞聖人御影、寛永8年(1631)の蓮如・七高僧・聖徳太子御影を奉安しています。(HP長福寺本堂より)
長福寺-7
元禄13年(1700)に中村氏により寄進されたもの。
長福寺-8
鐘楼。 桁行一間・梁間一間、入母屋造・本瓦葺で、安永6年(1777)に再建。 寛永21年(1644)の大鐘が吊り下がっていましたが、戦争により供出され、現梵鐘は昭和24年(1949)のものです。
草野本家-1
国の重要文化財 「草野本家の主屋」。
草野本家-2
草野本家、拝観入口。 開館しているときのみ青い幕が掛けられています。 残念ながら入口より先は撮影禁止です。
草野本家-3
 国指定重要文化財 草野家住宅 日田市豆田町127
 草野家は、寛永18年(1641)豆田町に移住し、元禄9年(1696)現在地に居を構えた。 この間、製蝋(せいろう)業を主として酒造業等を行うと共に、掛屋(かけや)、庄屋を務め、明治期には電力会社や銀行の設立に携わるなど、地域経済の発展に大きく貢献した。
 指定された建物は主屋(おもや)一棟、土蔵三棟で、このうち主屋は玄関部、店舗部、客間部、新座敷部、隠宅部、仏間部からなる。 最も古いものは享保10年(1725)頃建築の主屋仏間部で、次いで土蔵一棟が享保16年(1731)建築であり、いずれも保存状態は良好である。 また、通りに面して建つ玄関部、店舗部などは明和9年(1772)の豆田町大火直後に建てられており、漆喰塗大壁(しっくいぬりおおかべ)で防火性の高い居蔵造(いぐらづくり)とし、重厚な外観を呈している。
 一方、主屋後方に位置する客間部、隠宅部などは幕末から明治・大正期にかけて増改築されたもので、庭園と一体となった明るく開放的な構成をもち、玄関部、店舗部とは対照的な造りとなっている。 こうした開放的空間構成や文人画の小襖、竹・唐木・奇木などの材種で華やかに整えられた室内意匠には、当時日田で親しまれた煎茶席の建築的特徴が認められる。
 北部九州における代表的な居蔵造町家であり、近世から近代にかけての都市住宅の変遷や商家の生活文化を伝える大型の町家建築として価値が高い。
              平成21年12月8日指定。 日田市教育委員会
JUGEMテーマ:写真
 
 天領として栄えた江戸時代の名残を残す日田。土蔵やなまこ壁などの古い建物が残る町並みを散策できるのが魅力です。 その中でも、国の重要文化財の 「長福寺本堂」、「草野本家」 は必見です。
| 九州・大分の旅(日田・湯布院) | 19:25 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その5 小京都・日田(5) 豆田町(4) 保存地区
一新橋-1
一新橋-2
一新橋。 旧大橋、江戸末期まで大橋と呼ばれ下流の殿橋(御幸橋)と共に親しまれていました。 橋の下を流れる川は花月川(かげつがわ)です。
花月川
一新橋上から見る花月川、下流に見える橋は御幸橋。 現在穏やかに流れる川ですが、平成24年(2012)7月の九州北部豪雨で氾濫し約5千世帯、約1万4千人に避難指示がでました。 自然の恐ろしさを感じます。
上町通り
一新橋から見る 「上町通り」。 通りの入口には保存地区の掲示板が見えます。
掲示板
 重要伝統的建造物群保存地区
 日田市豆田町伝統的建造物群保存地区
 〜豆田町の歴史〜
 日田市では、周囲の山々から流れ出る豊富な水が集まって筑後川となることから、古来より水郷日田として知られ、北部九州の各地を結ぶ交通の要衝として栄えました。 江戸時代には、その大半が幕府直轄領(天領)となり、九州の政治、経済、文化の中心として繁栄しました。
 寛永16年(1639)に、日田御役所(日田陣屋)が置かれ、この陣屋膝下の町として発展した町人地が豆田町です。 町並みの成立は、17世紀初頭の丸山城建設にさかのぼり、当初は城の名にちなんで丸山町、ついで永山町と呼ばれていましたが、天領となった頃に豆田町に改称されました。
 明和4年(1767)に日田代官が西国筋郡代に昇格すると、日田は幕府による九州支配の拠点としてますます重要になりました。 この頃から、近隣諸国や京都・大坂商人との取引で富を得た商人達が台頭し、代官所の公金を預かり、西国諸大名に貸付ける掛屋(かけや)として活躍する者も現れました。 この強力な貸付資本は 「日田金;ひたがね」 として知られ、日田は一層経済的発展を遂げました。 こうして豊かな経済力を背景に都市文化も花開きました。

 〜日田市豆田町伝統的建造物群保存地区の概要〜
 天領時代に町人地として発展した豆田町とその周辺は、往時の地割りをよく残し、伝統的な建物が群として良好に残っていることから、約10.7ヘクタールの範囲が平成16年12月10日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
 南北2本の通りと東西5本の通りからなる整然とした町割や、街区の敷地割は、江戸初期の城下町建設時の形状を引き継ぐものです。 豆田町では明和9年(1772)や明治13年(1880)、明治20年(1887)に大火があり、火災を契機に、茅葺の町家が居蔵造(いぐらつくり;瓦を葺いて木部を土で塗り込める造り) へと変わっていきました。 江戸期から大正期に建てられた居蔵造の町家を中心に、木部を見せる真壁造の町家、近代の洋館、醸造蔵、昭和初期の三階建家屋等が並び、町ごとに特徴ある歴史的景観を残しています。
 保存地区北部の長福寺本堂と、大規模商家建築である南部の草野家住宅は、国の重要文化財に指定されています。
御幸橋
御幸橋(みゆきばし)から、御幸通り(下町通り)を見る。
看板
御幸橋に日田弁で書かれた看板。 ドライバーの皆さんへ。
御幸通り-1
情緒漂う 「御幸通り」。
御幸通り-2
女性に人気の観光スポットです。
御幸通り-3
のんびりと散策が楽しめる御幸通り。
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 江戸幕府の直轄地 「天領」 の面影が残る小京都・日田。 なかでも当時の町割りが残る豆田の町並みは歴史情緒あふれ、昔の雰囲気が楽しめます。 上町通りから一新橋、御幸橋を撮影し御幸通りに入る。 往時を偲びながら散策を楽しみます。
| 九州・大分の旅(日田・湯布院) | 19:01 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その4 小京都・日田(4) 豆田町(3) 薫長酒造
クンチョウ酒造-1
豆田町上町通りを更に進み 「一新橋」 手前に 「薫長(クンチョウ)酒造」 があります。
クンチョウ酒造-2
クンチョウ酒造(株) 酒蔵資料館入口。
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クンチョウ酒造-4
 酒林(さかばやし)(杉玉)の由来
 杉玉は古くから酒屋の看板として知られていますが、もともとは杉の葉を束ねただけのもので元来日本の酒造りの神様とされる大物主大神(おおものぬしおおかみ)と少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀る三輪明神。 大神(おおみわ)神社(奈良桜井市)の神木である “杉” にちなんだものとされている。
 後に新酒ができたしるしとして造り酒屋や酒を商う店に掲げられるようになったが、“さかばやし” 呼ばれる由来は中国では酒屋の看板を 〔酒家望子(ぼうし)〕 と言いこのぼうしが、“ばやし” と訛ったという新井白石の説、また酒の異名掃愁箒(そうしゅうそう)から 〔酒箒〕 が転訛したという説などがある。
 毎年新酒のできる頃掲られる青々とした杉玉は季節の移り変りと共に色づいてくるが、それは新酒のの爽やかさから枯淡ともいえる古酒の味わいまで、四季折々に楽しめる日本酒の味の推移を教えてくれるものである。
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入口を入ると酒蔵らしい雰囲気が漂います。
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壁に掲示されている清酒薫長のポスターに、日田市出身の女優 「真屋順子」 さん。
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右手に酒樽を見ながら奥へ進みます。
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お酒の歴史や製造工程が一目でわかる 「お酒の学習室」。
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薫長酒造のシンボル塔、赤レンガ造りの煙突。
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奥の階段を上ると、そこは時代が逆行し酒造りの歴史を感じます。
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案内人の方から教わった「薫長酒造」 撮影のベストアングル。
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 薫長の酒蔵は元禄15年(1702)に建てられた一番古い蔵をはじめ、5棟の蔵がすべて建築当時の姿で残っている全国的にも大変珍しい酒蔵群です。 現在もその蔵を使って清酒や焼酎の製造を行なっています。
 酒蔵資料館やお酒の学習室を見学した後は、蔵元ショップやカフェで試飲や買物も楽しむことができます。 小京都・日田のお勧め観光スポットです。
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九州・大分の旅 その3 小京都・日田(3) 豆田町(2) 日本丸館
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国登録有形文化財 岩尾薬舗 日本丸館(にほんがんかん)全景。
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当時が偲ばれる一階の台所。
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製丸器(機) 江戸後期富山の業者によって考案されたもの。
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中国製の保存がめ 製丸機から作られた丸薬をこの保存瓶にいったん収納し、岩尾家の仏前に奉り、供養(写真)の後に製品包装に移したものです。
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当時の薬の包装紙など。
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倉座敷。
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商家の金婚式の再現(昭和13年当時)。
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百日紅(さるすべり)でつくられた、鯛活造りを盛る祝い舟桶。
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当時の華やかな商家の暮らしが展示されています。
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最上階の展望楼。
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展望楼からの眺望、眼下に見えるのは 「天領まちの駅」。
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 木造四層三階建ての当館は、江戸末期から昭和初期にかけて増改築を重ね現在に至っている。 当館は地元で 「豆田の天守閣」 と呼ばれ、平成4年、日田市の都市景観建築指定第一号に登録されています。
  岩尾薬舗が製造した心臓と熱さましの特効薬 「日本丸(にほんがん)」は、明治に生まれ、その後大正、昭和と爆発的な売れ行きで人気を呼んだ。 昭和40年代には原料の仕入れが困難になり製造をやむなく中止、90年余の歴史に幕を閉じた。 1993年(平成5年)資料館 「日本丸館」 を開館、現在に至る。(資料館案内より)
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