質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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坂本・比叡山延暦寺の旅 その27 延暦寺 西塔(6) 釈迦伝
釈迦伝-1
 釈迦伝 1 太子誕生
 今から2500年ほど前、ヒマラヤの麓のカピラ国の浄飯王(じょうぼんのう)と后摩耶夫人(まやぶにん)との間に誕生されました。 その頃カピラ城近くに住むアシタ仙人は、太子誕生にまつわる数々の奇瑞(きずい;めでたいことの前兆として現れた不思議な現象)に驚き、太子に拝謁を願いでて抱かれる太子を拝し、はらはらと涙します。 「なぜ泣くのか」 とたずねると、仙人は、「この方は王位につけば仏陀(ぶっだ;悟りを開いて、真の道理をえた者)となられる方です」 と予言しました。
釈迦伝-2
 釈迦伝 2 宮殿の生活
 ご成婚後、太子は平和な生活を送られた。 夏・冬・雨期の三つの宮殿がもうけられ、蓮の池には水をたたえ、庭園には青・赤・白と色とりどりの華が咲きほこり、入浴には四人の侍女がお世話をし、身には栴檀(せんだん、香木の名、ビャクダンの異称)の香をぬり、新しい絹の衣装をつけ、歌と舞と酒とご馳走の享楽(きょうらく;快楽にふけり楽しむこと)をほしいいままにしました。 太子はこの栄華の生活に対し 「この生活は自分にとってどんな意味を持つのであろうか・・・・」 と反省され、沈うつな日を重ねるようになってゆきます。
釈迦伝-3
 釈迦伝 3 苦 行(くぎょう)
 世の無常をまのあたりに見た太子は、周囲の人々の言も聞かず出家します。 出家修行の旅に出た太子は、真の道が得られぬまま六年間の苦行の生活に入ります。 風雨や雷にもめげず、毎日毎日黙々として善定をおさめます。 体はみるみるやせ衰え、手足は枯れた葦(あし)のようになります。 それでも苦行はすべて解脱(げだつ;悟りの境地)への道でないことを悟ります。 太子は新たな道を求めるのでした。
釈迦伝-4
 釈迦伝 4 降 魔(ごうま)
 太子の成道が近づきました。 魔王はあらゆる手段で成道を邪魔します。 薄い羽衣をつけた妖艶(ようえん)な魔女三人を近づけ、媚能の限りを尽くし、太子の心を乱そうと企みます。 また悪鬼夜叉らがキバを出し、鉾(ほこ)をかざして迫ります。 太子は毅然(きぜん)として説法します。 たちまち魔女は老婆と化し、悪鬼夜叉は恐れ戦き逃げ去りました。
釈迦伝-5
 釈迦伝 5 釈尊の成道
 降魔の襲来をしりぞけた太子は、心の平和をとりかえし、平等の思いにひたります。 過去の宿世を想い起して、初めに第一の智慧を悟ります。 次に生死の相を知り第二の智慧を体得します。 次に煩悩を滅ぼし尽くし解脱して、「成すべきことは終った、再び迷いの生を受けることはない」 と悟ります。 この時、大地は歓喜に震え、神々は天華を降らせ、天楽を奏でて讃歓します。 こうして太子は、世界の人々の供養を受けるにふさわしい人、正しい悟りを得た人、即ち仏陀となります。 時に35歳、12月8日の明けの明星がきらめいていました。 尼連禅河のほとりの菩提樹の下で、太子は 「正覚を得た人」 になられたのです。 今後太子を釈尊と呼びます。 釈尊は千余の弟子をつれて王舎城に入り、その郊外に留まっていました。 釈尊を修行中から崇拝していたマガタ国の頻婆娑羅王はこの噂を聞き、多くの従者をつれて訪れ、説法を聞きこの地に永く留って化導されんことを願い、王は城外の閑静な場所竹林園に精舎(寺)を建てて寄進したいと申し出ます。 これが仏教の最初の精舎で、教団の発展もこれから軌道にのってゆくことになります。
JUGEMテーマ:写真

 釈迦堂の境内に掲示されている 「釈迦伝」です。 釈迦を理解する上で興味がありましたので写真展示します。 
 また、古典文学辞典によると 【釈迦】 は次のように記載されています。
 仏教の開祖。 生没は諸説あるが前566年ごろ〜前486年ごろか。 姓はゴータマ、名はシッダルタ。 「釈迦牟尼(しゃかむに)」 「釈尊(しゃくそん」 とも。 中部ネパールの釈迦族の浄飯(じょうぼん)王の子として迦毘羅(かびら)城に生まれる。 母は摩耶夫人(まやぶにん)。 80歳で入滅。
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 19:10 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その26 延暦寺 西塔(5) 恵亮堂
西塔政所
西塔政所 延暦寺学問所 止観道場。
恵亮堂-1
恵亮堂-2
恵亮堂(えりょうどう)。
円戒国師寿塔
 円戒国師寿塔 寿塔とは、生前あらかじめ造ったお墓です。 この塔は、円戒国師・慈摂大師真盛上人(1443~1495)が、最初建立された。
 上人は、西塔南上坊で二十年間修学されていたが、十年間におよぶ応仁文明の大乱でおきた世の惨状を見るに忍びず、遂に意を決し、社会浄化に身を挺するために、三千宗徒との交わりを辞し、黒谷青龍寺へ隠棲されるが、その直前に建てられた。 決死の覚悟の表明である。 上人建立の寿塔は、元亀の兵災で破壊され、現在の寿塔は、天保十年(1839)知恩院二品尊超親王、西教寺二十七世真尚上人ら八人が施主となって建立されたものである。(掲示板より)
青龍寺案内石碑
法然上人ご修行地 青龍寺 案内石碑。
若山牧水歌碑-1
参道に立つ若山牧水の句碑。
若山牧水歌碑-2
 若山牧水と本覚院(ほんがくいん)
 旅と酒の歌人、“若山牧水” は大正七年五月に登叡。この西塔 “本覚院” に一週間滞在し、選歌や原稿をつづりて山に遊ぶ。
    比叡山(ひえやま)の
         古(ふ)りぬる寺の木がくれの
                   庭の筧(かけひ)を
                        聞きつつ眠る   牧水
 当時の “本覚院” は荒れ果て伊藤孝太郎という寺男が独り住む。 牧水と寺男は夜ごと杯を傾けてお互いの人生を語りあった。
   ※若山牧水(明治十八年〜昭和三年)
     宮崎県東郷町出身。 旧制延岡中学―早稲田大学。 歌誌 「創作」 を編集。
     生涯約六千九百首を詠む。 “牧水歌碑” は全国各地に二百基を数える。
   ※本覚院 現在は 「学寮」 の名称で一般公募の修行僧の宿舎となっている。
     “庭の筧” は今も残る。 筧とは、ふしを抜いた竹などの水を通す樋(とい)。
釈迦堂境内の黄葉
釈迦堂境内の黄葉(2011・12・2撮影)。
箕淵弁財天
比叡山三弁財天の一つ、箕淵弁財天(みのぶちべんざいてん)。
西塔エリア参道
西塔バス停、西塔参道入口に設けられたゲート。
JUGEMテーマ:写真

 西塔エリアは、美しい杉木立と静寂な空気につつまれ、天台建築様式の代表とされる荘厳な釈迦堂をはじめ、伝教大師の御廟 「浄土院」 や 「弁慶のにない堂」 と呼ばれる常行堂、法華堂など見どころが多いエリアです。
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 19:50 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その25 延暦寺 西塔(4) 釈迦堂
釈迦堂-1
延暦寺 釈迦堂(しゃかどう)境内
釈迦堂-2
国の重要文化財 建造物 延暦寺転法輪堂(てんぽうりんどう)(釈迦堂)
境内案内図(西塔)
延暦寺 西塔 境内案内図 左手(東塔)から入り西塔。右手に行くと横川です。
釈迦堂-3
釈迦堂-4
 重要文化財 建造物 延暦寺転法輪堂(釈迦堂) 一棟 (大津市坂本本町)
 転法輪堂は、桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、栩葺(とちぶき)形銅板葺の建物で、織田信長の焼き打ち後、文禄4年(1595) に豊臣秀吉の命により、貞和3年(1347) 頃に建てられた園城寺弥勒堂(金堂) が移されたもので、比叡山では最古の建築です。
 天台仏堂の特色である外陣(げじん)の床張り、内陣の一段低い土間となっていて型どうりのものですが、正面の柱間がすべて戸口(入口)になっていて珍しいものです。 また、側面は前より二間が戸口、他は連子窓が板壁になっており、縁も正面と側面の一部についているだけです。
 昭和34年(1959)の解体修理によって、全体的におだやかな美しい姿に復原されました。 明治33年(1900)4月に国の重要文化財に指定されました。
仏足石-1
石碑には「釈迦牟尼佛足石」 と刻まれています。
仏足石-2
 「仏足石」の掲示版。
釈迦牟尼佛
「仏足石」 の傍らに鎮座する 「釈迦牟尼佛;しゃかむにぶつ」。
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 「東塔」 エリアから 「西塔」 エリアに入り、山王院、浄土院、椿堂、にない堂を拝観し、最後は西塔の中心をなす大堂 「釈迦堂」 を参拝します。 正式には転法輪堂と云いますが、ご本尊に釈迦如来を祀ることから 「釈迦堂」 と呼ばれています。
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 19:10 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その24 延暦寺 西塔(3) にない堂
にない堂-1
二つの堂をつなぐ廊下。
にない堂-2
向かって右側が法華堂(ほっけどう)。
にない堂-3
にない堂-4
 重要文化財 建造物 延暦寺法華堂 一棟(大津市坂本本町)
 法華堂は、桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、栩葺(とちぶき)の建物で、正面に一間の向拝をつけています。 隣の常行堂も同形式で、桁行四間、梁間一間、唐破風造の廊下で結ばれていることから、廊下を 「にない俸」 に見立てて、両堂を 「にない堂」 と呼んでいます。
 普賢菩薩を本尊とする法華堂は、法華三昧を修する堂で、外観は蔀戸と板唐戸を用いた和様のすぐれた建築で、文禄四年(1595)に建てられたものです。 内部も、常行堂と同様で、柱が立つところには、すべて柱を立てるという珍しい形をとっています。
 昭和30年(1955)6月に常行堂と共に国の重要文化財に指定されました。
にない堂-5
向かって左側が常行堂(じょうぎょうどう)。
にない堂-6
にない堂-7
 重要文化財 建造物 延暦寺常行堂 一棟
 常行堂は、桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、栩葺の建物で、正面に一間の向拝をつけています。 隣の法華堂とは桁行四間、梁間一間、唐破風造の廊下でつながれ、二つの同形式の堂と廊下の姿から 「にない堂」 と呼ばれています。
 阿弥陀如来を本尊とする常行堂は、常行三昧を修する堂で、外観は蔀戸と板唐戸を用いた和様のすぐれた建築で、文禄四年(1595)に建てられたものです。 内部も柱を立てるところには、すべて柱を立てるという珍しい形をとっています。
 昭和30年(1955)6月に法華堂と共に国の重要文化財に指定されました。
にない堂-8
常行堂・法華堂 重要文化財の標識。
にない堂-9
標識の下には、きれいな苔が生えています。
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 椿堂から少し歩いたところに、二つの堂を渡り廊下で結ぶ 「にない堂」 があります。 昔、延暦寺西塔にいた力持ちの武蔵坊弁慶がこの渡り廊下を天秤棒にしてかついだという伝説から 「弁慶のにない堂」 と呼ばれています。

 【ミニ知識】 弁慶(べんけい)・・・・広辞苑より
 鎌倉初期の僧。 幼名は鬼若丸、熊野の別当の子という。 武蔵坊と号して比叡山西塔にいたが、源義経に仕えて武名をあげ、義経の没落に際しても忠実に随行、安宅(あたか)の関に危難を免れさせ、後に衣川の戦に討死したとして、「義経記」 や謡曲・幸若舞曲などに伝説化されている。(〜1189)
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 19:00 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その23 延暦寺 西塔(2) 椿堂
参道-1
浄土院の拝観を終え、静寂漂う参道を進みます。
参道-2
この時期(12/2)、参拝者は少ないようです。
参道-3
参道の傍らに立つ石塔 「五重照隅塔」。
椿堂-1
参道より少し下った処に建つお堂と鐘楼。
椿堂-2
御本尊には千手観世菩薩を祀る 「椿堂」。
椿堂-3
 椿堂 昔、聖徳太子が比叡山に登られた時に使われた椿の杖を此の地にさして置かれたところ、その椿が芽を出して大きく育ったという因縁から、此のお堂が椿堂と名づけられました。 お堂の傍に、それに因んだ椿の大木があります。 御本尊には千手観世菩薩をお祀りしています。
鐘楼
椿堂の傍に建つ小さな鐘楼。
石碑-1
参道に立つ石碑、伝教大師御遺誡 「我が志を述べよ」 天台座主大僧正孝淳。
石碑-2
 草野天平の詩碑 「弁慶の飛び六法 勧進帳を観て」
  一つの傷も胸の騒ぎもなく 真に為しをうして終った 独り凝って動かず
  晴れ渡る安宅の空に 知らず知らず涙が滲じむ 沁み徹る人生の味 成就の味 
                                         草野天平
 草野天平(くさのてんぺい) 1910~1952 東京市小石川区林町(現文京区)生まれ。 兄に詩人の心平がいる。 30歳より詩作を始め妻ユキの死後、故郷福島に帰り、詩作に専念した。 1944年、応召したが12月に病気のため帰還した。 1947年10月、詩集 『ひとつの道』 を出版。1950年、比叡山に赴き飯室谷の松禅院に入居を許される。 以後この地を去らなかった。 1952年4月、肺結核により死去。 1958年 『定本草野天平詩集』 が出版され、第2回高村光太郎賞を受賞した。 「覚え書」(遺稿)には 「私の詩は人間の根本の微小な物質で、幸福といふ一とかけらであります。」 とある。 凡てのものに片寄らずただ真っ直ぐ立つ正しい芸術を目ざした求道的詩人と言える。(日本現代詩辞典より)
親鸞聖人ご修行の地
森林の中に立つ石碑 「親鸞聖人ご修行の地」。
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 比叡山中で最も清浄な聖域 「浄土院」 の拝観を終え、静寂が漂う参道を 「西塔」 の中心である「釈迦堂」 へ向かいます。 参道には灯籠や石碑、お堂などを観ることができます。 延暦寺の境内はとにかく広大です。 丸一日をかけて 「東塔」 「西塔」 「横山」 の三塔巡拝を成し遂げます。
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 19:48 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その22 延暦寺 西塔(1) 浄土院
弁慶井
西塔へ向かう参道にある 「弁慶井」。 弁慶が西塔に住んでいた頃、千日間この水汲んで参詣したのが名前の由来。 現在も杉の根元から水が湧きでています。
無縁塔
弁慶井のそばにある 「無縁塔」。
山王院堂-1
山王院堂-2
 参道より石段を上ると 「山王院堂;さんのういんどう」 があります。
 山王院堂(掲示版より)
 詳しくは法華鎮護山王院といい、第六祖智証大師圓珍の住房で後唐院ともいった。千手観音を祀るので千手堂とか千手院の名でも知られるが、圓珍座主の滅後百年、圓珍派と慈覚大師圓仁派の学僧の間に紛争が起こり、圓珍派はここから智証大師圓珍の木像を背負って大津三井寺(園城寺)へ移住したといわれる。 このお堂は歴史上きわめて重要なお堂です。
参道-1
参道-2
山王院堂参拝後、人気のない参道を歩き 「浄土院」 へ向かいます。
浄土院-1
参道を下ったところに 「浄土院;じょうどいん」 が見えてきました。 この時期まだ紅葉が残っています。 2011年12月2日影。
浄土院-2
浄土院 勅使門
浄土院-3
 浄土院(伝教大師の御廟)
 ここは比叡山の開祖、伝教大師最澄上人のご廟所で、比叡山中で最も清浄な聖域です。 大師は一生を大乗戒坦院の独立に捧げられ、弘仁13年6月4日(822)中道院に於て、56歳で入寂されました。 弟子の慈覚大師円仁が、仁寿4年7月(854)この地に中国五合山竹林院を模してご廟所を建立し、大師の御遺骸を祀り、以来ご廟を守る僧侶を侍眞といい、一生山を降りない覚悟で昼夜を分かたず、厳しい戒律のもとに身心を清浄にして、生身の大師に仕えるように、今も霊前のお給仕に明け暮れしています。 またご廟前玉垣の辺りには、沙羅双樹と菩提樹が植えられ、極楽浄土の雰囲気がかもし出されています。 侍眞は、早暁より薄暮まで勤行と掃除勉学修行に励んで、12年間山を降りない籠山修行の内規に則って、生活しています。
浄土院-4
比叡山中で最も清浄な聖地へ、掃き清められた白砂がきれいでした。
浄土院-5
厳かな気持で、撮影させてもらいました。
浄土院-6
勅使門越しに見る浄土院。
浄土院-7
浄土院正面まで進むことができます。
浄土院-8
庭に可憐な花が咲いています。 名前は分かりませんが清楚な花です。
浄土院-9
浄土院、伝教大師最澄上人のご廟所。
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 延暦寺 「東塔」エリア、国宝殿の見学を終え、徒歩でゆっくり散策しながら20分のところにある 「西塔」エリアへ向かいます。 この時期(12/2)、「東塔」エリアには参拝者を多く訪れますが、「西塔」エリアまで足を運ぶ人は少ないです。 厳かな雰囲気に包まれ、静寂が漂う 「浄土院」、今現在もご廟を守る僧侶 「侍眞」 が仕えておられることに敬意を表します。
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 19:34 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その21 延暦寺 東塔(5) 国宝殿など
住坊址
 慈眼大師天海大僧正住坊址。
 慈眼大師、南光坊 天海大僧正(1536〜1644)について(掲示板より)
 徳川家の三代にわたって宗教・政治のご意見番として活躍した天台宗の傑僧で、この地南光坊に住す。 織田信長の叡山焼打ち後の比叡山の復興に力を入れ、現代の根本中堂、大講堂その他主要堂塔は、天海大僧正が三代将軍家光を説いて再建が果されたもので、全国の信徒から比叡山延暦寺の大恩人と崇められている。
 東叡山寛永寺を開山して、比叡山の教学を関東に定着させ、日光山をも造営した人。 長寿の人でこの南光坊には73歳から4年間住み、比叡山東麓の慈眼堂には、99歳でお入りになり、のち東叡山で108歳まで長生きされた人である。
伝教碑
傳教碑 開祖最澄の大師号である 「傳教」 の二字を記したもの。揮毫したのは、天台宗の大僧正、豊道慶中(号、春海)です。
御遺跡
 大塔宮護良(おおとおのみやもりなが))親王御遺跡
 護良親王(1308〜1335)とは、後醍醐天皇の皇子。 落飾して尊雲と称し大塔宮といい、天台座主。 討幕を計り還俗、奈良・吉野・高野に潜行。 諸国に令旨を発して建武新政を招来。 征夷大将軍に任じられたが、のち足利尊氏のために鎌倉に幽閉、足利直義の臣、淵辺義博に殺された。(広辞苑より)
延暦寺事務所
延暦寺事務所
平和の祈り記念碑
事務所前に建つ 「世界宗教者 平和の祈り記念碑」。
一隅を照らす会館
「一隅を照らす会館」。
大黒天堂
 大黒天堂 最澄(伝教大師)が根本中堂を建てたおりに、守護神として大黒天を祀り一山の平和と一般の庶民の財福を祈ったのが始まり。
 豊臣秀吉も開運と福徳を祈願した故事もある。 別名、出世大黒天として人々に深く信仰されている。(HP延暦寺より)
慈鎮和尚の歌碑
 境内に立つ、慈鎮和尚の歌碑。
 「おほけなくうき世の民におほふかな わがたつ杣(そま)に墨染の袖」
意味は、身の程知らずだが、浮世の民を包むつもりだ。 私がいる比叡山の僧侶が着る墨染の服の袖で。(HP写真で見る日本の歴史【延暦寺】より引用)
登天天満宮-1
登天天満宮-2
境内に建つ、登天天満宮(とうてんてんまんぐう)。
国連平和の鐘
国連平和の鐘。
弁慶のひきづり鐘
 参道に掲示されている 「弁慶のひきづり鐘」。
 山門(比叡山)と寺門(三井寺)とがお互いに抗争にあけくれている頃の話
比叡山西塔の武蔵坊にいたと云う衆徒の荒法師弁慶は、つねに三井寺焼打ちの先鋒として攻撃していた。 ある戦いの時、三井寺の伽藍を焼いたうえ名鐘の一つを奪った豪力をもって任ずる弁慶は一人で引っぱって帰り大講堂につるしたと云う。 その時の鐘は現在三井寺にもどり、引っぱれた時の傷がついたまま保存されている。 
 三井寺の 「弁慶引摺り鐘」 はこちらに展示しています。
国宝殿
比叡山 「国宝殿」、伝教大師最澄の御真筆をはじめ、国宝・重要文化財を含む数多くの仏像・仏画・書跡等の文化財を所蔵しています。平成4年(1992)に開設。
JUGEMテーマ:写真

 延暦寺東塔エリア最後の見学は国宝殿です。 「国宝殿」 という名称は、伝教大師筆 「山家学生式」 のなかの 「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」 という言葉から名付けられました。
   主な収蔵品
     国宝・天台法華宗年分縁起 伝教大師筆 平安時代(9世紀)
     国宝・光定戒牒 嵯峨天皇筆 弘仁14年(823)
     重文・千手観音菩薩立像 平安時代(9世紀)
     重文・五大明王像 鎌倉時代(」13世紀)など 
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 19:57 | comments(2) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その20 延暦寺 東塔(4) 法華総持院・東塔
東塔・掲示板-1
 東塔へ向かう参道に掲げられた大きな掲示板。 鎌倉古絵図による東塔
 今に残る比叡山最古の唯一の記録である 「比叡山東塔絵図」(鎌倉初期) によると、中央にとりわけ大きく描かれた塔は基壇の上に立ち下層は方五間で前面に格子戸が入り、上層は方三間、屋根は、檜皮ぶき、屋上には相輪があったらしいと予想がつきます。 そして塔内には慈覚大師が、唐から授かってきた仏舎利はもちろん大日如来など胎蔵界五仏が安置されていました。
 昭和の大再建といわれる東塔の様式にはこの鎌倉古絵図が重要な参考にされたことは、いうまでもありません。
東塔・掲示板-2
 胎蔵界五仏の製作
 塔内には下層須弥壇に創建当事と同様に本尊の胎蔵界五仏が京都の大仏師の松久朋琳師の手で奉製され安置されています。
 本尊―胎蔵界五仏とは
  Ο 大 日 如 来
  Ο 開敷華王如来
  Ο 宝 幢 如 来
  Ο 天鼓雷音如来
  Ο 無 量 寿 如来
の五体の如来像を云います。
 比叡山では胎蔵界を主に金剛界を従とし塔内には須弥壇に本尊五仏(木彫)を安置し、その背面の壁画に金剛界五仏を安置しています。
東塔・掲示板-3
 壁画の製作
参道石段
これより小雨でしっとりと濡れた石段を上って 「法華総持院」 を参拝します。
阿弥陀堂-1
阿弥陀堂-2
石段の正面に建つ 「法華総持院・阿弥陀堂」。
東塔-1
阿弥陀堂の左側に 「法華総持院・東塔」 があります。
東塔-2
 東塔 最澄(伝教大師)が 「法華経」 千部を安置する塔として、日本全国6箇所(上野宝塔院・筑前宝塔院・豊前宝塔院・下野宝塔院・山城宝塔院(比叡山西塔)・近江宝塔院)の聖地に建立し国土と国民を護ることを発願された宝塔を総括する宝塔で近江宝塔院にあたる。 法華総持院は、根本中堂とともに重要な信仰道場。 高さ30m、木造構造、重層多宝塔。上層部には仏舎利と法華経1000部を安置、下層部は胎蔵界大日如来像が祀られている。 昭和55年(1980)、10月、天台宗徒の佐川清氏(佐川急便グループ会長)の寄進により織田信長の焼き打ちから400年ぶりに再建された。
HP延暦寺より引用)
鐘楼
法華総持院境内に建つ鐘楼。
阿弥陀堂と東塔
阿弥陀堂と東塔。
JUGEMテーマ:写真

 さわやかな風にふかれながら歴史を探索できる東塔には、比叡山延暦寺の総本堂国宝根本中堂があり、御本尊秘仏薬師如来をまつる宝前には1200年間守り継がれた 「不滅の法灯」 が光り輝いています。 その他それぞれの一宗を開かれたお祖師像が安置された大講堂をはじめ、戒壇院や文殊楼、法華総持院、阿弥陀堂、東塔など重要な堂塔が数多く集まっている延暦寺の中心的な存在です。 時間をかけて訪問したい堂塔です。 
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 19:36 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その19 延暦寺 東塔(3) 戒壇院
戒壇院-1
延暦寺 戒壇院(かいだんいん)
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 重要文化財 建造物 延暦寺戒壇院 一棟 (大津市坂本町)
 戒壇院は桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、栩葺(とちぶき)の建物で、正面に軒唐破風をつけています。 外観からは、裳階(もこし)をつけていることから、二重屋根のように、また、柱間も方五間の建物のように見えます。
 この戒壇院も、近世に復興されたもので、延宝6年(1678)に建てられたと伝えられています。 和様・唐様両様式を合わせもち木部に丹や黒の色彩を主に施し、内部は石敷で、石の戒壇を築いています。 延暦寺にあっては戒壇院は 「戒壇」 として意義のあるものです。 明治34年(1901)8月に国の重要文化財に指定されました。
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延宝6年(1678)建立、和様・唐様両様式を合わせもつ 「戒壇院」。
伝教大師
 東塔に向かう参道に掲示さている比叡山開山伝教大師御像。
 伝教大師の教え 伝教大師の精神を現代に生かす「一隅を照らす運動」
 すぐれた人材育成のために、伝教大師の著された、「山家学生式」 の冒頭に 「国宝とは何物ぞ、道心なり、道心ある人を名ずけて国宝となす・・・・・一隅を照らす、これ即ち国宝なり」 とあります。 その言葉通り叡山は多くの人材を輩出しておりその精神はこんな現代であるからこそ、受継ぎ発展させなければなりません。・・・・・・
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 戒壇院は、最澄(伝教大師)が建立すべく心血を注いだ天台宗の僧侶に大乗戒(規律)を授ける堂。 比叡山中で最も重要なお堂。 大講堂の西側の丘の上に建つ。 しかし、最澄が生きている間には許可が出ず、許可が出たのは最澄が亡くなった弘仁13年(822)6月4日の7日後であった。 1年後の4月に後継者の義真(初代天台座主)により最初の大乗戒(規律)が授けられ、さらに5年後に創建された。 現在の建物は、延宝6年(1678)に再建されたもの。 内陣に得戒和尚、釈迦牟尼仏と文殊・弥勒の両菩薩が祀られている。 年に一度、授戒会が行われる。 (HP延暦寺より引用)
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坂本・比叡山延暦寺の旅 その18 延暦寺 東塔(2) 大講堂
己講坂-1
己講坂(いこうざか)。
己講坂-2
 己講坂と菩提樹
 この石段の坂を己講坂と称し、天台職位の最高を探題、次を己講と称す。 即ち五年に一度大講堂で行われる法華大会の講師をつとめる役にして大会のため入堂する際己講のみが、この坂を問答往復の想をねりながら登りこの菩提樹の元にて意を決し入堂する処。
鐘楼-1
大講堂前に建つ 「鐘楼」。
鐘楼-2
「開運の鐘」 と呼ばれる鐘楼。 昔は比叡山に一大事があった時にはこの鐘が撞(つ)かれた。 延暦寺焼き討ちの時も撞かれました。 当時の梵鐘は国宝殿に保管。
大講堂-1
大講堂。
大講堂-2
本尊は大日如来。 比叡山から出た宗派開祖像も安置されています。
大講堂-3
 大講堂 小説 吉川英治 『新平家物語』 より
 国を揺り動かした、僧兵たちの誇りが息づく。
 三塔十六谷に住む叡山の法師たちは、まだ勤行(ごんぎょう;仏前に読経や回向をすること)にもつかない。 未明の夢を、ふいに、醒(さ)まされた。 「大講堂の鐘が鳴るぞぅつ・・・・・。「大講堂に集まれいっ」 誰かは知らぬが、どこかで、雲を呼ぶようにどなっている。 ―ごうん、ゴウうん、ごうウウん・・・・。 鳴りやまない鐘の音を耳にしながら、法師たちは、下に、鎧を着こみ、上に法衣をまとひ、太刀を帯び、薙刀をもち―老師の場合は、竹の入堂杖をつき―われ先にと、谷々から、雲の湧くように、登ってゆく。

 山門の名で関白忠道、鳥羽院へ使者を立て、清盛父子を糾弾したが受入られず、強訴することになった僧兵たちの様子です。 山中にこだまする鐘の音とともに、大講堂に集った僧兵たち。 彼らに代表される比叡山延暦寺の力が、かっては日本の政治や社会にも影響を及ぼしていたことがよくわかる一節です。
大講堂-4
大講堂、現在の建物は昭和38年(1963)に、坂本にある東照宮の讃仏堂を移築したもので、寛永11年(1634)の建立です。 重要文化財に指定され、最初から数えて10代目の建築物となっています。
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 大講堂は、僧侶が法華経の講義を聞いたり、問答をしたりする学問修行の道場です。 本尊は大日如来で、本尊の両脇には日蓮・道元・栄西・円珍・法然・親鸞・良忍・真盛・一遍といった、比叡山から大成して新たな宗派を打ち立てた祖師の像が安置されています。 
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 20:23 | comments(0) | - |
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