質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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長崎の旅 その51 龍馬の足跡をたどる(9) 若宮稲荷神社
若宮稲荷神社-1
小川に架かる石橋を渡ると 「若宮稲荷神社」 があります。
若宮稲荷神社-2
境内には、小振りの 「坂本龍馬之像」 が建立されています。
若宮稲荷神社-3
 長崎の伝統的なお祭である「竹ン芸」で有名な龍馬ゆかりの神社!!
「古いお宮を若宮」と親しまれている若宮稲荷神社は毎年10月14日・15日の秋大祭で奉納される「竹ン芸」で有名です。徒歩でわずかの所に「亀山社中跡」があり、坂本龍馬をはじめ長崎を訪れた志士等たちも多く参拝したと言われ「勤皇稲荷」とも呼ばれている。又、境内には坂本龍馬の像が建立されている。
 ここに注目!
 坂本龍馬をはじめ勤皇志士たちが参拝したことで「勤皇稲荷」とも呼ばれる若宮稲荷神社。今も龍馬や幕末の長崎を感じることができるおすすめの場所です。
 メモ書き “龍馬伝” 長崎ロケでは出演者(俳優)の方々が参拝され絵馬を奉納して行かれました。
若宮稲荷神社-4
朱色が鮮やかな 「若宮稲荷神社」 本殿。
若宮稲荷神社-5
余りにも立派な社殿に少々驚きました。
若宮稲荷神社-6
若宮稲荷神社-7
緑あふれる境内に朱色の社殿が並びます。
若宮稲荷神社-8
 若宮稲荷神社(わかみやいなりじんじゃ)
 延宝元年(1673)、出来大工町の乙名(おとな;一族の長)・若杉喜三太が開創。 伊良林郷の鎮守の神として崇敬を集め、“若宮様” と親しまれるようになりました。 明治元年(1868)、社号を伊良林稲荷神社と改称し、明治29年(1896)、境内の大改修等を行い、現在の神域を創成しました。 秋の祭り(10月14・15日)に奉納される行事「竹ン芸;たけんげい」は有名で、男狐・女狐の面をつけた若者が高さ10m余りの2本の青竹の上で曲芸を行います。 神社の使いである男狐と女狐が若宮神社の御神徳をよろこんで裏の竹藪で遊ぶ姿を模したものといわれています。
若宮稲荷神社-9
境内に建立されている 「坂本龍馬之像」。
若宮稲荷神社-10
やや小振りの 「坂本龍馬之像」 です。
若宮稲荷神社-11
 慶応元年(1865)幕末の風雲児坂本龍馬は、伊良林・亀山に日本最初のカンパニ― 「亀山社中」 を創設した。 亀山社中は、商業活動のかたわら倒幕運動にかかわり維新回天の事業を推しすすめ、日本の近代化に大きな役割を果たした。
 この銅像は、風頭山頂に立つ坂本龍馬之像の原型であり、龍馬ゆかりの地・亀山社中の一層の発展を願って制作者山崎和國氏から寄贈されたものである。
 題字は、山崎和國氏書。  平成三年十一月吉日 亀山社中ば活かす会
若宮稲荷神社-12
 坂本龍馬と若宮稲荷神社
 若宮稲荷神社は 「勤皇稲荷」 とも呼ばれています。
これは、当稲荷が南北朝の武将・楠木正成(1336没)の守護神であったことにちなみ、幕末に来崎した諸藩の志士が多く参詣したためと言われています。
 幕末当時、頼山陽の 『日本外史』 等の影響により、楠木正成の人気が高まり、勤皇の志士たちの厚い尊敬を集めていました。
 坂本龍馬(1835〜1867)も正成を崇拝していたらしく、正成の最期の地である神戸・湊川では 「月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き 菊の下水」 という歌を詠んでいます。 また、今も残る写真には、正成所持の刀を模して作らせたと言われる脇差を、腰に差した姿でおさまっています。
 若宮稲荷神社は、龍馬の創設した亀山社中や、盟友・佐々木三四郎と会飲した料亭・藤屋にも近いことから、たびたび参詣して、日本の維新回天が一日も早く成就する事を祈っていたのではないでしょうか。
JUGEMテーマ:写真

 亀山社中資料展示場から直ぐのところに、この若宮稲荷神社はあります。 小川にかかるアーチ式の石橋を渡ると緑豊かな森の中に朱色が鮮やかな社殿。
 坂本龍馬も参詣した神社に佇み、肌で歴史を感じてきました。 お勧めの若宮稲荷神社 参拝です。
| 長崎の旅(3) 歴史のエリア | 20:23 | comments(0) | - |
長崎の旅 その50 龍馬の足跡をたどる(8) 亀山社中資料展示場
資料展示場-1
ここが 「亀山社中資料展示場」 の入口です。
資料展示場-2
 亀山社中について
 慶応元年(1865)5月に、坂本龍馬(1835〜1867)は、この地に日本初の商社を設立し 「亀山社中」 と称しました。
 亀山社中の事業は航海・海運・貿易などでした。
 慶応3年(1867)4月、亀山社中は土佐藩直属の海援隊となり、坂本龍馬は隊長に任命されました。
 坂本龍馬は周知のとおり幕末における風雲児として東奔西走、維新の原動力となって、神戸海軍操練所の設立、亀山社中の設立、薩長連合の斡旋と大政奉還への第一人者として実践行動力の人となり日本の基礎を築き、33才の青春を燃焼しつくした先達の人です。 なお幕末期の名窯亀山焼の窯跡は50m程上方、現在の平公民館の場所になります。 また近くには 「竹ん芸」 で有名な若宮稲荷神社があり、市民の憩いの場所として親しまれています。(入口横の掲示版より)
資料展示場-3
資料展示場の内部、数多くの写真や資料が展示されています。
資料展示場-4
著名人の来場記念サインが数多く掲示されています。 左から真矢みきさん、横内正さん、阿藤快さん、孫正義氏など。
資料展示場-5
慶応年間 上野彦馬が長崎にて撮影した坂本龍馬。
資料展示場-6
上左;西郷隆盛(左は心霊写真)、下左;大久保利通、下右;島津斉彬(1809〜1858)、この写真は安政4年(1857)日本人が日本人を撮影した現存する最古の銀板写真です。
資料展示場-7
写真左、大浦お慶 33才の写真、長崎人で茶の貿易商。
資料展示場-8
左上;榎本武揚、黒田清隆、左下;近藤勇、土方歳三、右;勝海舟
資料展示場-9
左;高杉晋作(長州藩士)、右;桂小五郎(木戸孝允)(長州藩士)
資料展示場-10
陶器で製作された 「ブーツ」。
資料展示場-11
つまようじで描かれた坂本龍馬。
資料展示場-12
NHK大河ドラマ 「龍馬伝」 に出演された皆さん。
JUGEMテーマ:写真

 若宮稲荷神社そばに開設された 「亀山社中資料展示場」 には、上野彦馬が撮影した幕末の志士たちの写真や長崎の風景写真など約150点を展示しています。 写真だけではなく、明治新政府が布告した 「五箇条の御誓文」 の元となったといわれる 「新政府綱領八策」 の原文の写しを展示。 ファンには見逃せない展示品です。
| 長崎の旅(3) 歴史のエリア | 20:20 | comments(0) | - |
長崎の旅 その49 龍馬の足跡をたどる(7) 龍馬のぶーつ像
ブーツ像-1
 龍馬のぶーつ像
 幕末の風雲児・坂本龍馬は、日本で最初にブーツを履いたといわれています。
 身分制度が厳しい中、下級武士である郷士の家に生まれ、草履しか履けなかった龍馬は、自由と希望の地・長崎で  「ぶーつ」 を履き、新しい時代へと駆け抜けました。
 この 「龍馬のぶーつ像」 は、亀山社中創設百三十周年記念事業の一環として建立。 全国でも珍しい体験型のモニュメントで、実際にぶーつの中に足をいれ、舵を握ることができます。 ぜひ、龍馬の気分でお試しください。
       平成七年十月吉日 亀山社中ば活かす会 長崎市
ブーツ像-2
「ぶーつ像」 のある場所は非常に狭く、記念写真を撮るのに順番待ちです。
ブーツ像-3
ぶーつ像は、全国でも珍しい体験型のモニュメントです。
ブーツ像-4
ブーツ像-5
靴を履いたまヽ足を入れ、舵を握ることができます。
ブーツ像-6
青銅製の 「ぶーつ像」。 大人の足がすっぽりと入る大きさです。
ブーツ像-7
人がいなくなる瞬間を待って撮影した 「ぶーつ像」。 撮りたかった一枚の写真です。
ブーツ像-8
「龍馬のぶーつ像」 から見える眼下・長崎市内の風景です。
JUGEMテーマ:写真

 「龍馬のぶーつ像」
 坂本龍馬が亀山社中を創設してちょうど130年を記念して平成7年に建てられたものです。 海の男・坂本龍馬をイメージした舵輪と、ブロンズ製の大きなブーツがあり、実際に足を入れることができる体験型のモニュメントです。 ここから望む風景は、山肌に張り付くように立ち並ぶ家々など、長崎らしい美しいものであることから 「長崎都市景観賞」 を受賞しています。(旅行雑誌るるぶより) 
| 長崎の旅(3) 歴史のエリア | 19:18 | comments(0) | - |
2011 すその阿波おどり 華麗に舞う!
すその阿波おどり-1すその阿波おどり-2すその阿波おどり-3
地元 「舞路奴連」 、本場徳島や高円寺の正調阿波踊りに近付けるよう努力中!
すその阿波おどり-4すその阿波おどり-5すその阿波おどり-6
地元 「うぐいす連」、裾野市職員の連で平成9年に結成、今年で15回目の参加。
すその阿波おどり-7
地元 「ひびき連」 の皆さんです。
すその阿波おどり-8
地元 「さくら連」、さくら保育園の子供たちが阿波踊りに参加して20年目を迎えました。
すその阿波おどり-9
すその阿波おどり-10
地元 「すその連 」の皆さんです。
すその阿波おどり-11
すその阿波おどり-12
すその阿波おどり-13
東京高円寺から参加の招待連 「志留阿波連」 の皆さんです。
JUGEMテーマ:写真

 地元裾野市夏を彩る第28回すその阿波おどり大会が8月20日夕刻、JR裾野駅周辺で開催されました。 地元企業や愛好家でつくる 「連」 が市内から10組、東京都の高円寺や甲府市の県外からも8組の連が招待。 総勢700人が威勢の良い踊りを披露しました。 沿道には多くの市民が押し寄せ華麗な舞を楽しみました。
| 郷土の風景・催し | 20:29 | comments(0) | - |
家族で行く志摩・鳥羽の旅 速報!
志摩スペイン村-1
8月21日 志摩スペイン村 エスパーニャ通り。
志摩スペイン村-2
13:00 パレード シベレス広場。
志摩スペイン村-3
スペインの方でしょうか、美しい女性です。
志摩スペイン村-4
夜、雨上りのライトアップされたシベレス広場。
鳥羽湾遊覧-1
8月22日、遊覧船 「龍宮城」で鳥羽湾めぐり。
鳥羽湾遊覧-2
美しい島々を眺望。
ミキモト真珠島-1
ミキモト真珠島見学、御木本幸吉翁の銅像。 開島60周年。
ミキモト真珠島-2
豪華な真珠のネックレス。
ミキモト真珠島-3
ミキモトパールクラウン 真珠872個使用 昭和53年5月制作。
鳥羽水族館-1
鳥羽水族館入口。
鳥羽水族館-2
水槽に泳ぐ魚たちがきれいです。
JUGEMテーマ:写真

 8月21日(日)/22日(月)の二日間、志摩・鳥羽周辺を家族で旅してきました。
 大気の状態が不安定で雨が心配でしたが、一日目の昼のパレード終了直後に激しい雷雨に遇いました。  また一旦上がっていた雨が夜のパレード中に雨が降り出す生憎の天候でしたが、何とか予定していた撮影はできました。 翌日の22日は天候に恵まれ快適な旅ができました。
 今回、一日目は志摩スペイン村を閉園まで楽しみ、二日目は鳥羽湾めぐり、ミキモト真珠島、そして鳥羽水族館を見学・撮影。 後日、「志摩・鳥羽の旅」 と題して写真を展示しますので見て下さい。
| 志摩・鳥羽の旅(志摩編) | 20:45 | comments(0) | - |
長崎の旅 その48 龍馬の足跡をたどる(6) 長崎市亀山社中記念館
龍馬通り
この龍馬通りを下ると 「亀山社中の跡・長崎市亀山社中記念館」 があります。
亀山社中-1
「亀山社中の跡 」 と 「長崎市亀山社中記念館」 入口。
亀山社中-2
NHK大河ドラマ 「龍馬伝」 が放映中とあって、大勢の観光客で押し寄せていました。
亀山社中-3
門をくぐると、小さな庭があります。
亀山社中-4
記念館の中に入ると、ほぼ等身大の凛々しい坂本龍馬の写真。 来館記念に、ここで刀を持って記念写真を撮る人が多いです。
亀山社中-5
亀山社中-6
 紋服(もんぷく)【複製】
 坂本龍馬が着ていた黒地羽二重の紋服です。 龍馬が滞在していた京都河原町の醤油商近江屋の井口家に伝わりました。 坂本家の家紋 「組み合わせ角に桔梗紋」 が入っています。 着物の丈が145cmなので龍馬の身長は170cmを超えると推定されています。 この時代としては大変大柄な人でした。 紋服は昭和15年(1940)に京都国立博物館へと寄贈されました。(原資料:京都国立博物館所属)(説明文より)
亀山社中-7
 ブーツ【再現】
 龍馬がはいていたブーツの再現品。 慶応年間に長崎で撮影された写真にこのような革靴が写っています。 実際に用いたブーツは現存しないため、写真や当時のカタログを参考にして、長崎で復元製作されたものです。(説明文より)
亀山社中-8
 月琴(げっきん)
 月琴は、その胴の形が月に、音が琴に似ていることからその名がついたとされています。 四本の弦と短い棹をもち、べっ甲の爪で演奏されます。 中国から長崎にもたらされ、江戸時代中期から、明清楽(中国清時代の音曲)の流行とともに全国に普及しました。 長崎でも月琴がさかんに演奏されていたといいます。
 龍馬の妻・お龍も月琴を弾いており、慶応2年(1866)6月には 「長崎に月琴の稽古に行きたい」 との希望によって来崎し、翌年2月ごろまで彼女はここ長崎に滞在しました。(HP長崎市亀山社中記念館より)
亀山社中-9
ガラスケースには、複製のピストルや刀も展示されています。
亀山社中-10
 公文菊僊画(くもんぎくせんが) 坂本龍馬立像
 坂本龍馬や中岡慎太郎など土佐の志士の肖像画を描いた高知の画家・公文菊僊(1873―1945)の作品。 龍馬の顕彰が盛んだった昭和初期に多数描かれたもののひとつです。 龍馬の立ち姿の写真をもとに独特の風貌が再現されています。 龍馬の頭上には日露戦争に際して明治帝の皇后の夢枕に龍馬が立って日本の必勝を予言したことが記されています。(説明文より)
JUGEMテーマ:写真

 亀山社中とは
 坂本龍馬(1835―1867)は、土佐国高知城下(現在の高知県高知市)に生まれ、江戸で剣術や砲術の修業の後、帰国して土佐勤王党に加盟しました。 その後土佐を脱藩して幕臣・勝海舟の門人となり、勝塾や神戸海軍操練所に学びました。
 元治元年(1864)以降操練所が閉鎖されたため、脱藩者の龍馬と同志たちは薩摩藩に保護され、鹿児島を経由して長崎にやってきました。 そして、慶応元年(1865)夏頃、薩摩藩や長崎商人・小曾根(こぞね)家の援助を受け、日本最初の商社といわれる 「亀山社中」 を結成しました。
 この団体は、龍馬らが最初に拠点を構えた地 「亀山」 と、仲間・結社を意味する 「社中」 をあわせてそう呼ばれました。
 亀山社中の最大の業績は、慶応2年(1866)に、長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃や蒸気船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)の購入・運搬に成功したことです。 そのことが、慶応2年(1866)1月の薩長盟約締結へとつながり、新しい時代をひらくための足がかりとなったのです。(HP長崎市亀山社中記念館より) 

 「亀山社中」 は、坂本龍馬とその同志により設立された結社で、日本初の商社と言われています。活動期間は約2年間でしたが、海運業などの活動の他に、薩長同盟などにも参画するなど、幕末・維新史において、重要な役割を果たしました。
 老朽化した建物を当時の建物に限りなく近い形に改修・復元し、「長崎市亀山社中記念館」 として平成21年8月にオープンしました。 名誉館長は、坂本龍馬に造詣が深い武田鉄也氏が勤めています。(HP観光スポットより)

 全国の龍馬ファンの皆様
 龍馬が駆け上がった階段をのぼり、龍馬が見た空をながめ、そしてこの記念館で、龍馬のエネルギーを感じ取って下さい。(名誉館長の就任のことばより)
| 長崎の旅(3) 歴史のエリア | 20:07 | comments(0) | - |
長崎の旅 その47 龍馬の足跡をたどる(5) 龍馬通り
龍馬通り-1
風頭公園・展望台から龍馬通りを下って 「亀山社中跡」 へと向かいます。
龍馬通り-2
猟馬通り-3
龍馬通りには、案内板が掲示されていますので、迷うことはありません。
龍馬通り-4
龍馬通り-5
龍馬通り-6
道端に咲く美しい花々を撮影しながら、龍馬通りを下ります。
龍馬通り-7
龍馬通りの石碑を見ながら、左の道を下ります。
龍馬通り-8
龍馬通りに設置されている 「長崎歴史探訪路」 の石碑
龍馬通り-9
龍馬通り、よか眺め一目千両 坂の街。
猟馬通り-10
一目千両の眺めです
龍馬通り-11
かなり急な坂を下ってきました。 亀山社中跡は直ぐ近くです。
JUGEMテーマ:写真
 
 龍馬通りとは、風頭公園から寺町まで続く全長約3Kmの下り坂、階段道を指します。今からさかのぼること140余年、慶応元年(1865)に日本初の貿易商社となる亀山社中が設立され、坂本龍馬や亀山社中の志士たちが闊歩したであろうこの道は、「長崎歴史探訪路」 として整備されました。
| 長崎の旅(3) 歴史のエリア | 19:55 | comments(0) | - |
長崎の旅 その46 龍馬の足跡をたどる(4) 風頭公園の風景
風頭公園-1
風頭公園案内図 風頭山バス停(左下)から上野家墓地、坂本龍馬之像、司馬遼太郎文学碑を見学。 その後山頂付近の散策をします。
風頭公園-2
風頭公園-3
風頭山、山頂付近の岩肌です。
風頭公園-4
岩に食い入る樹木、自然の力強さを感じます。
風頭公園-5
子供たちが遊ぶ広場に建つ石碑。 明治三十五年 中興開拓 王林宗詮翁 と刻まれています。 王林宗詮についてHP等で調査しましたがわかりませんでした。
風頭公園-6
風頭公園-7
小さな公園・さくら園があります。 春にはきれいな桜が咲くことでしょう。
風頭公園-8
これが風頭公園にある展望台です。
風頭公園-9
展望台からの眺望。
風頭公園-10
カメラのズームをUPすると坂本龍馬の像、司馬遼太郎文学碑が見えます。 坂本龍馬之像の後ろではためく旗は、海援隊の隊旗です。
JUGEMテーマ:写真

 長崎県の龍馬像と言えば、風頭公園の坂本龍馬之像です。 当初の計画では、この像は丸山公園に建立される予定ででしたが自治会の反対で風頭公園に変更されたそうです。 しかし丸山公園には別の坂本龍馬之像が建立されています。
| 長崎の旅(3) 歴史のエリア | 21:16 | comments(0) | - |
長崎の旅 その45 龍馬の足跡をたどる(3) 坂本龍馬之像
風頭公園
この道の先に、坂本龍馬之像、司馬遼太郎文学碑があります。
坂本龍馬之像-1
今回の旅で撮影したかった一枚の写真 「坂本龍馬之像」 です。
坂本龍馬之像-2
高さ4.7m(全身像3.2m+台座1.5m)、腕を組み、視線は水平線(世界)を見つめ、ブーツを履き、左足を一歩前に出す凛々しい青年龍馬像です。
坂本龍馬之像-3
ブーツ姿の坂本龍馬之像、人気のポイントの一つです。
坂本龍馬之像-4
地元ボランティアガイドの説明を聞く観光客。
司馬遼太郎文学碑
坂本龍馬之像の傍らに立つ 「司馬遼太郎文学碑」
  船が長崎の港内に入ったとき、龍馬は胸がおどるような思いをおさえかね、
  「長崎はわしの希望じゃ」 と、陸奥陽之助にいった。
  「やがては日本回天の足場になる」 ともいった。
                       司馬遼太郎 「龍馬がゆく」 より
展望台-1
 風頭(かざがしら)公園展望台
 標高152mの風頭山の山頂部に位置する公園で、こちらの展望台のほか、園内最高峰の芝生公園などからも長崎港方向のパノラマが鑑賞できます。 亀山社中跡や龍馬が駆け抜けた寺町を眼下に、長崎県庁から長崎市役所、ビル群がひしめく観光通り等の賑やかな町並みが広がります。 さらに、長崎港の左右の丘陵地帯には道路照明や住宅光による星のような夜景。 長崎の発展をリアルに感じられ、龍馬が夢見た未来の長崎の姿がここにあります。
展望台-2
眼下に 「長崎女神大橋」が見えます。
展望台-3
標高333mの稲佐山、1000万ドルの夜景が楽しめます。
展望台-4
星のような夜景を見せてくれる住宅街。
展望台-5
鮮やかな朱色の大型船も見えます。
JUGEMテーマ:写真

 平成元年(1989)5月、有志の呼びかけで全国からの募金により建立さた 「坂本龍馬之像」。 制作者は長崎県西彼杵郡高島町(現長崎市)出身の彫刻家、山崎和國。 また、像の傍らには司馬遼太郎の文学碑があります。 そしてこの場所が眼下に長崎の町のパノラマが鑑賞できる展望台です。 龍馬ファン必見の長崎観光ポイントです。
| 長崎の旅(3) 歴史のエリア | 20:13 | comments(0) | - |
長崎の旅 その44 龍馬の足跡をたどる(2) 上野彦馬の墓
加福家墓地-1
市指定史跡 阿蘭陀通詞加福家墓地の案内標示。
加福家墓地-2
加福家墓地-3
 市指定史跡 阿蘭陀通詞加福家墓地(おらんだ つうじ かふくけぼち)
 指定年月日:平成12年4月28日
 加福家は代々阿蘭陀通詞を継承した家柄である。 始祖吉左衛門は初めポルトガル語の通訳として勤めていたが、ポルトガル人の国外退去に伴って阿蘭陀通詞へと移行した。 寛文4年(1664)小通詞となり、その後寛文8年(1668)には、大通詞に就任している。 阿蘭陀通詞の大役である江戸番通詞も勤めたが、元禄2年(1689)江戸参府の際、72歳で没している。
 加福家は、吉左衛門の後、明治維新に至るまで八代にわたって阿蘭陀通詞を勤めている。 吉左衛門の他に3代喜七郎、4代喜蔵、5代安次郎及び6代新右衛門がそれぞれ年番大通詞に就任している。 墓地内には、大小併せて29基の墓碑があるが、中には寛文(1661~72)年間の墓碑もほぼ原型のまま残っていることもあり、大変貴重であるといえる。
上野彦馬の墓-1
 墓地参道入口にある案内板 上野彦馬の墓
 上野彦馬は幕末の長崎が生んだ我が国写真術の始祖であり彦馬が写した坂本龍馬や桂小五郎などの写真は余りにも有名であります。
  幕末維新 動乱時代に職業写真家として苦難の道を切りひらいた彦馬の生涯と偉大な業績が日本写真発展の基礎となって生きつづけています。
           天 保9年(1838) 長崎に生る
           明治37年(1904) 66才没
                       上野彦馬顕彰会
上野彦馬の墓-2
日本写真界の始祖 上野彦馬先生墓地参道 昭和五十四年五月二十日 長崎写真師協会と刻まれています。 筆者、写真を愛好する者として参拝してきます。
上野彦馬の墓-3
墓地に立つ 「上野彦馬先生顕彰碑」、創業百年祭記念 昭和38年10月吉日。 
上野彦馬の墓-4
上野彦馬の墓-5
 市指定史跡 上野(彦馬)家墓地
 指定年月日:平成18年1月10日
 上野家は絵師の家系であり、絵画、鋳金などに秀でていた。 幕末の当主俊之丞(しゅんのじょう)、彦馬(ひこま)(1838〜1904)父子は2代にわたり、写真技術の習得と普及に多大の功績を挙げ、わが国の近代化学研究の発展に寄与した。 彦馬は日本最初の職業写真家として著名であり、高杉晋作、桂小五郎たちを撮影したことでも知られている。
 墓地には上野家初代の左衛門尉英傳、3代若元、5代若瑞、6代俊之丞、7代彦馬などの墓碑が立つ。 これら墓碑群のなかで最も古い、英傳の墓碑は五輪塔様式であり、延宝3年(1677)の年代を示す。 これは上野家墓地の近くに所在する阿蘭陀通詞加福家墓地、唐通事 林・官梅家墓地(ともに市指定史跡)にある墓碑と同型である。
風頭大権現-1
風頭公園に祀られている 「風頭大権現」。
風頭大権現-2
幾つもの鳥居をくぐると本殿、その先に八角堂があります。
風頭大権現-3
本殿の大きさに比べて、いささか大きな注連縄が飾られています。 これから先の旅の安全と健康を祈願しました。
JUGEMテーマ:写真

 上野彦馬について百科事典マイペディアには次のように記載されています。

 うえのひこま【上野彦馬】(1838―1904)
 写真家。 長崎生れ。 1858年、オランダの海軍医官ポンペによって長崎に開かれた医学伝習所に入門、化学の研究を行うとともに渡来の写真技術を学ぶ。 自らも写真研究・実験に務め、来日していたフランス人職業写真家からの教えで、その技術を確かなものとした。 1862年、長崎中島川河畔に日本最初の営業写真館である <上野撮影局> を開業。 1866年に撮影された坂本龍馬像をはじめ、幕末の武士や町民のポートレート写真、長崎の風景や西南戦争の記録写真などが残されている。 
| 長崎の旅(3) 歴史のエリア | 19:47 | comments(0) | - |
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