2010.06.30 Wednesday
馬籠宿と妻籠宿の旅 その5 馬籠宿(5) 高札場
宿場内には、いくつかの茶房があります。
その中の一つに 「馬籠宿・喫茶 穰(みのる)」 があります。
店のオープンデッキから最高の恵那山を望みながらお茶をどうぞ!
ふらりと入りたくなる 「馬籠宿 喫茶 かっぺ」 もあります。
馬籠宿上入口付近に案内板があります。 案内板には次のように書かれています。
中 山 道
中山道は、はじめ 「中仙道」 と書かれていたが、本州の中部山岳地帯を貫いている道路ということから、享保元年(1716)以降、「中山道」 と書き改め、やはり 「なかせんどう」 と読まれた。 江戸と京都を結ぶ重要な街道で、その延長は132里(約550Km)、ここには六十九の宿場が置かれていた。
この道路は東海道・奥州街道・甲州街道・日光街道とともに 「天下の五街道」 の一つといわれ、参勤交代の際、ここを通る大名は三四家と定められていた。 江戸幕府にとっては西日本にある諸大名の動向対策と、これらの諸国を支配していくうえに極めて重要な性格を持つ道路であった。
陣 場
ここらあたり一帯の地名を 「陣場」 という。 天正12年(1584)に徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧山の決戦のとき、木曽路を防衛する豊臣方は、馬籠城を島崎重通に固めさせていた。 家康方は兵七千をもって木曽に攻め入り、その一部は馬籠城を攻略すべくこの地に陣を敷いた。 故にここを 「陣場」 と呼ぶようになった。
高 札 場
江戸時代には、村人たちに法令などを徹底遵守させる目的で、板に墨書きしたものを掲示する場所を定めたが、それは村の入口や庄屋宅の近くなど人目につき易い場所が選ばれ、藩の厳重な管理下におかれていた。 村人たちはその場所を 「こうさつば」 とか 「ごはんぎょうば」 といった。
文字が読めない人が多いその当時、正月になると庄屋は村人をこの場所に集めて読んで聞かせ、これを守るように言い聞かせた。 現在復元されているものは、正徳元年(1711)に公布された 「御朱印、毒薬等の定書き」 や、明和七年(1770)の 「徒党禁止」 の札などで、復元の際に読みやすい楷書に書き直した。
案内板の直ぐ近く、「下入口」 から約600mの位置にある 「上入口」 の表示板です。
更に「中山道」を上がると左側に 「馬籠宿 上但馬屋」 があります。
中山道の街道端には、 「高札場;こうさつば」 が復元されています。
江戸時代の雰囲気が漂う「高札場」です。
江戸時代から、「博奕(ばくち)の類一切に禁制の事」 と定められています。
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中山道・馬籠(まごめ)宿、約600mの石畳の両側に40余軒の食堂・茶房・みやげ店が軒を並べています。 藤村記念館や馬籠脇本陣史料館などで歴史を 学んだあとは、道中のうまいもん食べ歩きや民芸品などの買物も見どころの一つです。