質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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伊豆修善寺の旅(13) 日枝神社
日枝神社
日枝神社の本殿です。
子宝の杉
子宝の杉
「子宝の杉」 です。 天に向かって真直ぐにそびえ立つ、ごく稀なる根幹が接合した樹齢800年の大杉。 子は夫婦の鎹(かすがい)(掲示板より)
一位樫
静岡県指定天然記念物の 「イチイカシ・一位樫」 です。 根廻り5.5m、目通り4.5m、樹高25mの大木、一位樫は九州地方に成育する木で伊豆には珍しい。
 日枝神社は修禅寺の鬼門に当たり、弘法大師の建立といわれる。 明治初年(1868)の神仏混淆(こんこう)廃止令(神仏分離令)により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社であった。 境内には杉の大木、ケヤキ、マキ等が亭々とそびえ立っている。(掲示板より)
カゴノキ
「カゴノキ・鹿子の木」です。 黒っぽい樹皮がまだらにはがれ落ち、そのあとの新しい部分が白っぽいので、鹿の子模様になる。 鹿子の木の名はこの樹皮の模様からきている。 暖地の山地に生える常緑高木。 高さは普通10m〜15m、大きいものは20mほどになる。(掲示板より)
信功院跡
「信功院跡」です。 修禅寺八塔司の一つ信功院のあったところです。 源範頼は兄頼朝の誤解に依りこの信功院に幽閉されました。 建久五年(1194)梶原景時五百騎の不意打に合い範頼は防戦の末自害しました。 信功院は後に庚申(こうしん)堂となり今の庚申塔一基が残っています。(掲示板より) 

  ここは日枝(ひえ)神社です。 修禅寺に隣接し、昔は修禅寺の鎮守さまでした。
境内には子宝の杉の大木や県天然記念物に指定されている「一位樫」があります。 また、修禅寺に幽閉された源範頼が自害した場所です。 境内には幽閉地跡の表示と庚申塔がひっそりと建ています。

 【ミニ知識】 源範頼(みなもと の のりより)
  修善寺・赤蛙公園よりほどなく行ったところに 「源範頼の墓」 があります。 そこの掲示板に次のように書いてありましたので紹介します。
  鎌倉初期の武将 義朝の第六子で蒲の冠者(かばのかんじゃ・生まれが遠江蒲御厨)と呼ばれた。 治承四年(1180)、兄頼朝が源氏再興の挙兵をした時、その麾下(きか・直属の家来)に属した。 寿永二年(1183)頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に兵を率いて西上し、翌年近江の国で義仲を倒した。 次いで義経と共に一ノ谷の合戦で平家軍を破り、功によって三河守を任じられた。
  引続き平家追討のため九州に遠征し、平家滅亡後も九州に留って戦後の経営に当った後、鎌倉に帰った。 その後頼朝と義経の仲が険悪化した時、頼朝が範頼に義経を殺すよう命じたが、兄弟を殺すのは嫌だと断ると、範頼も義経のように叛(そむ)くようになると、疑われるようになった。
  建久四年(1193)五月の曽我兄弟仇討ちの時、頼朝も巻き込まれ殺されたと誤って伝えられ、嘆き悲しむ政子(頼朝の妻)を慰めて、「範頼がおりますからご安心下さい」 と云ったのが、頼朝亡きあと幕府横領の下心だと疑いを招いた。 範頼は百万陳弁につとめたが、同年八月十七日、ついに当地修禅寺に幽閉され、さらに同月末、梶原景時に攻められて、日枝神社下にあった信功院で自刃したと伝えられている、信功院は徳川時代に廃止され、現在は庚申塔一基を残すだけとなっている。
| 伊豆・修善寺の旅 | 19:08 | comments(0) | - |
伊豆修善寺の旅(12) 源頼家の墓 
源頼家の墓
  源頼家の墓 正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで18才で鎌倉幕府の二代将軍となった頼家は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、大きくゆれ動く時流と、みにくいかけひきに終始する政争に敗れ、在位わずか6年で、この修善寺に流され、元久元年(1204年)北条時政の手で入浴中に暗殺された。(享年23才)
  「修禅寺物語」は、こうした政治的背景の上に配所の若き将軍頼家と、面作り師夜叉王を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものである。
  この碑は、元禄16年頼家の五百回忌に当って、時の修禅寺住職筏山智船和尚が建てた供養碑であって、墓はその裏側に小さな五輪石塔が、二基のこされているのがそれである。(掲示板より)
頼家家臣 十三士の墓
  源頼家 家臣 十三士の墓 父頼朝の跡を継いで、鎌倉幕府二代将軍となった頼家は、元老の干渉も多く、相続のことなどから北条氏と対立するが、数年後には病気を理由に修善寺に幽閉されてしまった。
  しかし、鎌倉からの討手は容赦なく頼家を襲い、元久元年(1204)7月18日入浴中に暗殺された。この時頼家は23才という若さであった。
  吾妻鏡(鎌倉時代史書)によるとこの6日後、頼家の家臣らは謀反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに殺されたことが記されている。この墓は、その頼家の家臣13名の墓と伝えられている。頼家と運命を共にしたこれら家臣の氏名は判っていないが、全国的にある十三塚の一例との説もある。
  また、以前はここより東へ200mほどの山の麓にありましたが、台風被害のため、平成17年7月17日に、この場所に移築されました。(掲示板より)

  「指月殿」の近くに頼家の墓があります。北条時政にとっては孫にあたる頼家を暗殺するという骨肉相食む悲しい出来事です。若くして暗殺された頼家の墓に冥福を祈って合掌してきました。
  また十三士の墓は2004年10月の台風22号の被害で山崩れに遭い、全ての墓が埋没。 復旧作業で探しあてたのが3基のみでした。平成17年、現在の場所で頼家の墓の近くに移築したものです。

| 伊豆・修善寺の旅 | 19:08 | comments(0) | - |
伊豆修善寺の旅(11) 指月殿
指月殿
伊豆最古の木造建築物 「指月殿」 です。
釈迦如来坐像
本尊の釈迦如来坐像です。鎌倉時代の作で、静岡県指定文化財です。
阿形・仁王像
藤原時代の作で、阿形・仁王像です。
吽形・仁王像
藤原時代の作で、吽形・仁王像です。
掲示板
指月殿の掲示板です。

  この掲示板にはこのように書いてあります。
  この指月殿(しげつでん)は、鎌倉時代に尼将軍とよばれた北条政子が、政争の犠牲となった実子である二代将軍頼家の菩提所として建立したもので、伊豆最古の木造建築といわれております。
  指月とは経典を意味し、かっては鎌倉から送られてきた数千巻にも及ぶ宋版大蔵経を収める経堂でしたが、経本は散失し、わずかに 「放光般若波羅密経・巻第二十三」 だけが、静岡県指定文化財として、本寺の修善寺宝物館に残っております。
  本尊の釈迦如来坐像は、スギなどの寄木造りで、高さ203cm、この種の像としては伊豆最大で、鎌倉時代の作、ハスの花を持った禅宗式というめずらしい形をしているため静岡県指定文化財となっております。
  阿吽二体の仁王像は本尊よりさらに古く、藤原時代の作、かっての修禅寺境内は広大であり、当時は横瀬にあった寺門で入口を守っていたといわれ、本尊ともども非常に貴重な三体は昭和57年より2年の歳月をかけ、大修復が行われました。
  扁額 「指月殿」 は元の名僧・一山一寧の書といわれますが、これは複製で、実物は修禅寺本堂に保存されています。

  【ミニ知識】 北条 政子(ほうじょう まさこ) 日本史事典より
  1157〜1225 鎌倉初期、源頼朝の妻。 北条時政の娘
伊豆配流中の頼朝と結婚し、頼家・実朝を生む。 頼朝の死後、父時政・弟義時とともに幕府政治を掌握。 牧氏の陰謀(実朝を廃して、時政の女婿・平賀朝雅を将軍に立てようとしたもの)を察知して時政を隠退させ、実朝死後は4代将軍として京都から九条頼経を迎え、みずから後見人となる。 「尼将軍」 といわれ、承久の乱(1221)に際しては御家人の動揺を抑えて幕府の危機を救う役目を果たした。

  承久の乱(じょうきゅう の らん)・・・承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討滅を図って敗れ、かえって公家勢力の衰微、武家勢力の強盛を招いた戦乱。

  この修善寺は、源頼朝の弟範頼と2代目将軍頼家が幽閉、暗殺されたことで有名。源氏将軍は3代で絶えてしまいます。源氏の悲しい歴史の一頁がこの地にあります。
| 伊豆・修善寺の旅 | 19:21 | comments(0) | - |
伊豆修善寺の旅(10) 修善寺彫
修善寺彫
修善寺彫のお店を訪ねてみました。
修善寺彫
このお店は指月殿に行く途中にあります。
修善寺彫
彫刻刀で字を書く修善寺彫です。
修善寺彫
修善寺彫の竹栞(たけしおり)です。一枚500円で販売しています。
修善寺彫
修善寺彫
お店のご主人に特にお願いして、内部を撮影させてもらいました。見事な作品です。

                修善寺彫の竹栞をご覧下さい
  文字は書いたものではなく彫刻刀で一枚一枚手で彫りましたもので彫った字が
  筆で書いたようなやわらかな書体になっているのが修善寺彫の技術の特徴です。
                  修善寺彫当主 鍵和田 松丘(かぎわだ しょうきゅう)

  以上の如く入口に表示されています。 店内には一字一字丁寧に彫られた修善寺彫の作品が並んでいます。 下書きもしないで、しかも彫刻刀で、達筆な方が書いたようなやわらかい文字が書ける、匠の技に感服しました。 正しく芸術品です。    
| 伊豆・修善寺の旅 | 19:08 | comments(2) | - |
伊豆修善寺の旅(9) 赤蛙公園
赤蛙公園
赤蛙公園

  ここは桂川に架かる滝下橋の袂に位置する 「赤蛙(あかがえる)公園」 です。 掲示板にこのように書いてあります。
 作家、島木健作(明治36年〜昭和20年)は、昭和19年の秋、胸部疾患の療養のため修善寺の温泉宿へ滞在していた。 ある日の散策で桂川の上流まで歩いて行った帰り道、この付近で川を見つめていると一匹の赤蛙が目に入った。
  蛙は向こう岸へ渡ろうとして一生懸命に泳ぎ、押し流され、這い上がることをくりかえしているうち、ついに精魂つきて渦の中へ呑み込まれてしまった。
  死期の近かった健作は、蛙の生への努力を共感をもって感慨深く眺め、運命に従順なものだけをもつ静けさに強く感動し、帰京後、有名な短編 「赤蛙」 を書いた。発表は彼の死後の昭和21年で、遺稿とも云われている。
  長編を書き続けていた健作は、死の直前にこの傑作短編を書き残したことによって、いよいよ詩人的資質を鮮やかにしたと云われている。

  【ミニ知識】 島木 健作(しまき けんさく) を百科事典などで調べてみました。
  島木 健作(1903・明治36―1945・昭和20)・・・小説家。 本名:朝倉菊雄。 札幌生れ。 東北大法学部に入学。 東北学連に加盟し、学業を捨て、香川県の農民組合で農民運動に参加。 1928(昭和3)年の三・一五事件で検挙され、転向。
  1934年≪癩≫≪盲目≫を書いて文壇に出た。 いわゆる転向文学の作家で≪生活の探求≫≪人間の復活≫などで多くの読者を得た。 遺作に≪赤蛙≫がある。

  私はこの修善寺にある赤蛙公園で初めて 「島木健作」 を知りました。 早速、図書館に行き、遺作となった小説「赤蛙」を読みました。 新書版で11頁の短編です。
  病に疲れた体を癒すため、修善寺の宿で静かな時間を過ごす。 ある日散歩に出かけた健作は、桂川の中洲に 「赤蛙」 をみつけ観察。 向こう岸に渡ろうとする赤蛙、何度も挑戦するが川の流れに負けて失敗する。 最後は力つき黄色い腹を上にして渦のなかに消えていく、自然界の神秘的な様子が書かれています。 
| 伊豆・修善寺の旅 | 19:07 | comments(0) | - |
伊豆修善寺の旅(8) ギャラリーしゅぜんじ回廊
ギャラリーしゅぜんじ回廊
ギャラリーしゅぜんじ回廊
ギャラリーしゅぜんじ回廊
ギャラリーしゅぜんじ回廊
ギャラリーしゅぜんじ回廊

  竹林の小径内にある回廊式の和風ギャラリーです。年間を通して、修善寺ゆかりの写真展や企画展が開催されています。 休憩所やお手洗いも完備していますので散策の一休みにお立ち寄り下さい。
 また、ここで毎年開催される、古き佳き日に栄えたと修善寺に伝わる幻の芝居小屋 「桂座」、当世随一の芸人たちがよみがえらせる修善寺 「桂座伝説」 は知る人ぞ知る演奏芸術です。 一夜の思い出に鑑賞されてはいかがですか。
| 伊豆・修善寺の旅 | 19:08 | comments(0) | - |
伊豆修善寺の旅(7) 竹林の小径 その2
楓橋
桂川に架かる朱色が鮮やかな 「かえで橋」 です。竹林の小径にあります。
ポンプ置場と火の見やぐら
散策路の途中にあります 「桂遊ポンプ置場」 と火の見やぐらです。
竹林の小径
散策路の終点で、滝下橋側の入口になります。

  きれいに整備された石畳の散歩道を歩きます。 途中に修善寺温泉を火災から守る「桂遊ポンプ置場」や可愛い火の見やぐらがあります。 その近くに朱色の「かえで橋」が架かっています。 この付近は紅葉の頃は素晴らしい風景となります。 散歩道は「ギャラリーしゅぜんじ回廊」を見ながら終点の滝下橋へと進みます。
| 伊豆・修善寺の旅 | 19:11 | comments(0) | - |
伊豆修善寺の旅(6) 竹林の小径 その1
竹林の小径入口
竹林の小径
竹林の小径
竹林の小径
竹林の小径

  ここは修善寺の風景で、女性の方やカメラマンにとって一番人気のあるスポットで 「竹林の小径(こみち)」 です。 朱塗りの桂橋から滝下橋まで桂川に沿って整備された約400mの散歩路です。 途中、竹製の円形のベンチや茶屋もあります。
  両側に竹林がのびる石畳の道を、清流のせせらぎを聞きながらのんびり散策することができます。 撮影した日は猛暑でしたが、ここは別世界です。竹林が心地よい日陰を作ってくれ、また清流からのそよ風が肌に気持ちいいです。
| 伊豆・修善寺の旅 | 19:10 | comments(0) | - |
伊豆修善寺の旅(5) 弘法の湯
弘法の湯
街中にあります公園に 「弘法の湯」 が出ています。
掲示板
「弘法の湯」の掲示板です。「この源泉は伊豆の地中深くから湧き出ているもので飲用できます。」と書いてあります。 健康によさそうなので私も飲んできました。
湯賭け稚児大師
湯掛け稚児大師です。 稚児大師が手に持っておられるのが「独鈷杵」です。

湯掛け稚児大師の掲示板にこのように書いてあります。
  前の川(桂川)の中に在る独鈷の湯は、その昔、孝行者の息子が年老いた父親の背中を川の水で流してやっているのをご覧になった弘法大師が、水では冷たかろうと、持っていた独鈷で岩で掘ったところ湧き出したものと伝えられています。
  この故事にあやかって、当町旅館組合が、皆さんの健康を願って、ここに稚児大師の像を建立しました。 お子さまの健全を願う方、ご自身の健康を願う方、もしくは、現在疾患をお持ちの方等、願いを込めてお湯を灌(そそ)いてあげて下さい。
  修善寺にお越しの際は、公園に立ち寄り 「弘法の湯」 を戴き、願いを込めて稚児大師にお湯を灌いであげて下さい。
| 伊豆・修善寺の旅 | 19:06 | comments(0) | - |
伊豆修善寺の旅(4) 観光案内
修善寺温泉観光ガイド
街中に提示されています 「修善寺温泉観光ガイド」 です。
案内版
街中には 「案内版」 が整備されています。迷うことはありません。
人力車
旅の情緒を味わいたい方、お年寄りで歩くのがつらい方、人力車で散策できます。

  修善寺温泉は、こじんまりとした街です。 ガイドの掲示板や案内板が、きっちりと整備されており非常に散策しやすい観光地です。 歴史があり、自然があり、また多くの文化人の足跡が残る修善寺。 弘法大師の伝説が残る独鈷の湯を始め、源氏の秘話が残る史跡など、歴史ある史跡めぐりをしましょう。
| 伊豆・修善寺の旅 | 19:11 | comments(0) | - |
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