質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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伊豆下田の旅(31) 玉泉寺その6
カーター大統領御来訪
玉泉寺本堂横に掲示されていますカーター大統領歓迎の看板です。
カーター大統領御来訪記念
カーター大統領御来訪記念碑です。
アメリカ建国200年記念樹
アメリカ建国200年記念樹 「ハナミズキ」 と記念碑です。1976年アメリカ建国200年となるので日米友好記念植樹としてアメリカ・ヴァージニア州の州花 「ハナミズキ」 を昭和51年5月16日第37回黒船祭に際し植樹したもの。

  1979年(昭和54年)6月27日、 第39代アメリカ合衆国ジミー・カーター大統領は、 ロザリン・カーター夫人、 エミリー・カーター嬢を伴い、 玉泉寺を御訪問下さいました。 ハリス記念碑、 本堂を御見学なされ、 黒船ペリー艦隊将兵墓地をお参りなされました。(玉泉寺リーフレットより)

  世界を動かす現職のアメリカ合衆国の大統領が、日本の辺境の小さなお寺を訪問されるのは、 異例のことではないでしょうか。
  当時の様子をお寺の人から聞きました。 訪問される1ヶ月前から警備の方がお寺に泊まり込み入念な点検がされたそうです。 特に狙撃に関しては徹底的に調べたそうです。 大統領一行は近くのヘリポートにヘリコプターでお出でになり、 車で玉泉寺にこられたそうです。 無事お帰りを見送った関係者はホットされたことでしょう。
  歴史の表舞台となった玉泉寺偏は今回で終わりです。

   ◆ 『玉泉寺』 に興味のある方、ホームページはこちらです。

追伸 管理者:miya は7/31〜8/2 家族旅行のため、ブログ更新はお休みです。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:31 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(30) 玉泉寺その5
牛乳発祥の地
以前にも展示しましたが、ハリス記念館入口に置いてある表示板です。記念館拝観後、私もここで一本牛乳を飲んできました。美味しい牛乳でした。
日本最初の賭殺場の跡
玉泉寺は日本最初の賭殺場でもあり、 その跡がここです。 写真には写っていませんが右側に牛王如来が建立されています。

  前回の 「牛乳の碑」 でお分かりのように、 玉泉寺は日本の牛乳の発祥地であり、 また日本最初の賭殺場でもあるのです。
  掲示板によりますと 「当時、領事館員の食料のため仏手柑樹の幹に牛を繋ぎ屠殺せるもの、 昭和6年4月8日東京牛肉商の手により牛王如来を建立し供養す。 樹は枯れたためハリス記念館に保存す。 後世村人は屠牛木と云う。」
  記念館に展示されている仏手柑樹を見てきました。 ケースの中に枯れた幹の大きい樹が展示されていました。

【ミニ知識】広辞苑などで調べました。
  仏手柑(ぶしゅかん)・・・・・ミカン科シトロン類の常緑低木。 高さ3m余。 幹はユズに似て枝に刺(とげ)があり、 葉は楕円形。 初夏、 白色5弁の花を開く。 果実の下端は裂けて、 まるで手の指のような形になり、 仏の手を連想させるのでこの名が付いたもの。 伊予柑に似た良い香りがしますが、 食べる部分はほとんどないので観賞用。 名前からしてもおめでたい名なので、 お正月によく飾られます。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:07 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(29) 玉泉寺その4
「牛乳の碑」 です。

  この碑は玉泉寺の本堂前に建立されている 『牛乳の碑』 です。碑には次のように書かれています。侍女お吉の献身ぶりが伺えます。

                     牛乳の碑
                                     農林大臣 河野一郎
  安政5年(1858年)2月 米国総領事タウンゼント・ハリスは、 政務多忙を極め病床にありました。 侍女のお吉は、 ハリスが牛乳を欲するのを知り、 禁を犯して下田近在から、 和牛の乳を集めハリスに毎日与えたということです。 その時ハリスが15日間で飲んだ9合8勺の牛乳の代価が1両3分88文之は、 米3表分に相当したといいますから当時牛乳が如何に高価で貴重なものであったかが分かります。

  このことが日本における牛乳売買の初めといわれます。 爾来(じらい;その後)百余年牛乳は現在重要な国民栄養食糧として年生産一千余万石に達し酪農事業は重要な国策となりました。 乳業の発達は国富の充実と共に前途益々津々たるものがあります。

   タウンゼント・ハリス
    1804年米国ニューヨーク州に生まれ
    1856年来日し
    1862年帰国その間初代米国総領事として日米親交の基礎を築く
    1879年2月75才で没した

  伊豆は当社創業の地であり且つ下田に工場をもつゆかりの地でありますので下田と牛乳とを記念して

                           1962年5月17日
                           森永乳業株式会社
                           取締役社長 大野 勇建之
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:10 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(28) 玉泉寺その3
ハリス記念館入口です。
ハリス記念館入口です。
記念館の裏手にあじさいが咲いていました。
記念館の裏手にきれいなあじさいが咲いていました。
記念館の裏手にあじさいが咲いていました。
あじさいが咲いている右側の歩道を登って行くと露艦ディアナ号乗員の墓があります。

  ここは玉泉寺境内にありますハリス記念館です。 当記念館には、タウンゼント・ハリスが領事館当時愛用の遺品や関係資料、古文書等が多数展示してあります。 特に柿崎村名主 浜田与平治の日記は、領事館当時の出来事を正確に伺い知ることが出来ます。 
  又、黒船来航時、下田港に於いて踏海の企を起こした吉田松陰先生の遺品や、ヒュースケンに使えたおふくの遺品、ロシア、ディアナ号将校モジャイスキー撮影の日本最古の銀板写真、その他多数の資料を展示する幕末開国の第一級の資料館であります。(玉泉寺リーフレットより抜粋)

  タウンゼント・ハリス略歴
   1804年 ニューヨーク州サンデーヒルに生まれる。
   1846年 ニューヨーク市教育局長
   1847年 ニューヨーク市立大学前身フリーアカデミー創設
   1854年 清国寧波領事任命
   1855年 日本駐箚総領事に任命さる。
   1856年 玉泉寺に米国領事館を開設
   1857年 江戸城にて13代将軍家定に謁見
   1858年 日米修好通商条約14ヶ条を締結
   1859年 公使に昇任
   1862年 帰国
   1878年 ニューヨークにて死去 74才
          ニューヨーク、ブルックリンにあるグリーンウッド墓地に永眠する。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:08 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(27) 玉泉寺その2
米国総領事旗掲揚之地
米国総領事旗掲揚之地とタウンゼント・ハリス記念碑です。

  安政3年(1856)8月5日、日本最初の領事館が開設され、翌日星条旗がが庭高くひるがえった地が、正にここなのです。日米両国にとって記念すべき場所なのです。
  記念碑は英文ですが、日本人に分かりやすく日本語の掲示板がありました。 ハリスの日記に旗揚げの状況や心理が書かれています。

                 ≪英文碑面訳≫
  1856年9月4日(安政3年8月6日)初めて日本帝国の一角に領事旗を掲げ、翌年11月23日までこの地に居住し1858年7月29日江戸条約によりて日本の門戸を世界に開きたる、米国総領事タウンゼント・ハリス記念の為此の碑を建つ。
  ※最後に下田を去りたるは1859年6月30日なり
    1927年9月4日
    建立者 子爵    渋沢栄一
    故駐日米国大使  エドガー・エー・バンクロフト
    シカゴ 市民     ヘンリー・エム・ウルフ
               ★       ★       ★
  1856年9月4日木曜日 (ハリス日記より)
興奮と蚊のため、ひじょうに僅かしか眠れなかった。 蚊はたいへん大きい。 午前7時に水兵たちが旗棹をたてに上陸した。 荒い仕事。 はかどらない作業。 円材が倒れて、横桁が折れる。 幸いに誰も怪我はない。 とうとう艦から加勢をうける。 旗棹が立った。 水兵たちが、それを廻って輪形をつくる。
  そして、この日の午後2時半に、この帝国におけるこれまでの「最初の領事旗」を私は掲揚する。 厳粛な反省ー変化の前兆ー疑いもなく新しい時代がはじまる。 敢えて問う.....日本の真の幸福になるだろうか?.....
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:16 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(26) 玉泉寺その1
玉泉寺山門です。
玉泉寺山門です。
玉泉寺本堂です。
玉泉寺本堂です。
本堂前にあじさいが咲いていました。
本堂前にあじさいが咲いていました。(6月21日撮影)
あじさいが咲いていました。
境内にもあじさいがきれいに咲いていました。

  嘉永7年・安政元年(1854)3月、日米和親条約により下田が開港され、同年5月和親条約付則下田条約が締結されると、玉泉寺は米人休息所・埋葬所に指定された。
  安政3年(1856)7月、タウンゼント・ハリスが米国総領事として下田に着任した。 8月5日、日本最初の領事館がここ玉泉寺(ぎょくせんじ)に開設され、翌日星条旗が庭高く翻った。(掲示板より)
  尚、境内には、黒船(ペリー艦隊)の米人乗員5名の墓地とディアナ号露人乗員3名、アイコルド号露人乗員1名の墓地があります。

  今回から日本開国の歴史の表舞台に立った玉泉寺について展示します。
尚、玉泉寺は昭和26年 国指定史跡になっています。 改めて歴史の勉強をしたいと思っています。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:12 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(25) 了仙寺その4
了仙寺横穴遺跡
了仙寺横穴遺跡

  ここは了仙寺境内裏にあります 『了仙寺横穴遺跡』 です。この遺跡・洞窟は、今から約1300〜1400年程前、古墳時代に墓として利用されていたと考えられおり、洞窟内より人骨とともに、幻玉や水晶製の腕輪や首飾り等の装具品、土師器、須恵器が出土しました。 これらの遺物は死者とともに埋められた副葬品であり、その質や量からみてこの地域の有力者の墓と考えられています。(掲示板より)
  洞窟の手前に柵が設けてあり、中には入ることができませんでしたが、貴重な伊豆の歴史の遺産です。今回で了仙寺偏は終わりです。

   ◆ 『了仙寺』 に興味のある方 、ホームページはこちらです。

| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:08 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(24) 了仙寺その3
了仙寺宝物館です。

  ここは了仙寺の境内にあります 『了仙寺宝物館』 です。 宝物館には日本で最大のペリーと黒船のコレクションが展示されています。 15分間の館内ビデオ説明を見た後、じっくりとコレクションを観賞すると分かりやすいです。
  黒船アートコレクションとして、黒船来航絵巻、ペリー来航瓦版、黒船来航絵図など貴重な資料が展示されています。下田の歴史に興味ある方は必見です。
  ちなみに入館料 大人;500円、中高生;150円です。入館時間は8:30〜17:00です。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:06 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(23) 了仙寺その2
ペリー提督黒船陸戦隊調練の図

  この図は了仙寺本堂正面に掲示されています 『安政元年(1854)ペリー提督黒船陸戦隊調練の図』 です。
  黒船従軍画家 ハイネ筆 原画はアメリカ海軍兵学校所蔵 石版画は了仙寺所蔵 写真は了仙寺所蔵の石版画の複製  調練終了後 ペリーと林大学頭全権との間に日米下田条約が締結された。 図中の本堂は現存、庫裡鐘楼は安政の大津波によって消失した。 と図の下の説明文に書いてあります。

  ≪日米下田条約と了仙寺≫
  横浜で締結した日米和親条約では細かい点がほとんど決められていなかったため、下田に上陸したペリーは早速日本側と交渉に入りました。 その場所になったのが了仙寺です。 十日間にわたる協議の結果、1854年6月17日(嘉永7年5月22日)、日米下田条約(日米和親条約付則13ヶ条)が結ばれました。 
  この中で、アメリカ人は下田の街中を自由に歩く権利、すなわち「遊歩権」を与えられました。 これは一種の交流権ともいえるもので、黒船のアメリカ人と下田の町民たちはそこここで異文化の交流を体験しました。 
  了仙寺では、下田の町民たちを対象としたコンサートがアメリカ海軍の軍楽隊によって開かれました。 これが日本の最初の洋楽のコンサートです。(HP了仙寺・下田条約より引用)
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:22 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(22) 了仙寺その1
了仙寺山門です。
ペリーロードの終点、了仙寺山門です。
了仙寺本堂です。
国指定史跡 法順山・了仙寺(日蓮宗) の本堂です。
アメリカジャスミンです。
別名ジャスミン寺ともいわれ、約1000株のアメリカジャスミンが植えられています。
アメリカジャスミンの花です。
5月中旬〜6月初旬に「香りの花まつり」が行われます。アメリカジャスミンの花です。

  嘉永7年・安政元年(1854)下田上陸時のペリーは、300人の水兵に大砲を引かせ、軍楽隊付きで現在の「ペリーロード」約700mをここ了仙寺までにぎやかに行進して、下田の人々を驚かせたといいます。
  またここ了仙寺は嘉永7年5月22日(1854年6月17日)、日米下田条約(日米和親条約付則13ヶ条)が締結された場所でもあります。

  了仙寺の由来(了仙寺リーフレットより)
日蓮宗 創建;寛永12年2月(1635)  開基;第二代下田奉行・今村伝四郎政長 
開山;身延山久遠寺第十一世・行学院日朝上人

  大阪夏の陣の時、目に病を持たれた徳川家康公は、家臣の勧めにより当時目の神様として崇められていた行学院日朝上人に病平癒の願をかけられた。 その祈願が成就した後、第三代将軍家光公の命により建てられたのが了仙寺である。

  了仙寺創建は第二代下田奉行・今村伝四郎政長公によるが、それ以降朱印状をもって領地を拝領した。今村公は防波堤の建設、日本で初めての廻船問屋を開設するなど湊町下田の繁栄の基礎を作った。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:16 | comments(0) | - |
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