質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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小江戸・川越の旅 その22 喜多院(1)
喜多院-1
喜多院-2
喜多院の山門、国指定の重要文化財 。総ケヤキ造りの四脚門で、切妻造り、本瓦葺き。 寛永9年(1632)の造立。 寛永15年の大火をまぬがれた唯一の建造物。
喜多院-3
喜多院-4
本堂・慈恵(じえ)堂 県指定の重要文化財。 喜多院一山の本堂で、桁行9間、梁間6間、一重、屋根入母屋造り、銅板葺き。寛永16年(1639)の再建。 厄除け大師として有名な慈恵大師(元三大師)が祀られている。
喜多院-5
多宝塔 県指定の文化財。 寛永16年(1639)の造立。 本瓦葺きの三間多宝塔で、高さ約13m。 昭和48年に復原修理が行われた。
喜多院-6
喜多院-7
鐘楼門 国指定の重要文化財。 桁行3間、梁間2間、袴腰付き、屋根入母屋造り、本瓦葺き。 元禄15年(1702)在銘の銅鐘が懸けられている。 前面に竜、背面に鷹の木彫が二個づつはめ込まれている。
喜多院-8
慈眼堂(じげんどう) 天海僧正は寛永20年(1643)10月2日寛永寺(東京の上野公園にある徳川将軍家の菩提所)において入寂(にゅうじゃく;僧の死)し、慈眼大師の諡号(しごう;死後の称号)をおくられた。 3年後の正保2年(1645)には徳川家光の命により御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのが慈眼堂。
喜多院-9
慈眼堂に行く石段で何かの撮影が行われていました。
喜多院-10
聖徳太子を祀っている六角太子堂と木遣(きやり)塚
喜多院-11
喜多院山門前に建立されている 「天海僧正像」 と 「白山権現」。
JUGEMテーマ:写真

 川越大師として親しまれている天台宗の寺。 同宗の関東総本山とされ、正式には 「星野山無量寿寺喜多院」 という。 平安時代初期の天長7年(830)、淳和(じゅんな)天皇の勅願により、慈覚(じかく)大師円仁が阿弥陀如来を安置して一宇を造立した。 これが開基とされ、元久2年(1205)兵火で焼失したが、永仁4年(1296)、伏見天皇の命により、尊海僧正が入住して再興。 このとき厄除大師として知られる慈恵大師(元三大師)を併せ祀ったと伝えられている。
 以来、関東天台宗門教学の道場として寺運は隆盛、正安3年(1300)、後伏見天皇から 「星野山」 の勅額を賜った。 天文6年(1537)、北条氏綱と上杉朝定の戦火に焼けたが、慶長4年(1599)、徳川家康の信任厚い 「天海僧正」 が来山して重興。 家康は寺領500石を寄せて寺に保護の手を加えた。 当時、堂塔が 南院・中院・北院に分かれており、天海が北院に住したので、一山の寺名を 「喜多院」 と称するようになったのだという。(郷土資料事典より)

 江戸時代初期、名僧天海僧正が住職をつとめた寺として、また江戸城から移築された三大将軍徳川家光・春日局ゆかりの建物をはじめとする、多くの文化財を所蔵している喜多院の名は川越というより、埼玉県を代表する寺院として全国的に有名。
 徳川家康の信任を得ていた天海僧正が第27世住職になると、幕府から厚い庇護を受け、江戸城から豪華な壁画や墨絵で装飾された 「客殿」 と呼ばれる家光誕生の間や3代将軍家光の乳母として知られる春日局が使用した 「書院」 と呼ばれる春日局化粧の間などが移築された。 江戸城ゆかりの建造物に加え、山門・鐘楼門・慈眼堂などが重要文化財に指定されている。(小江戸川越観光協会HPより)

 【ミニ知識】 天海(てんかい) 1536〜1616(家康より6才年上で、27年長生き)
 江戸初期の天台宗の僧。 南光坊と称。 会津の人。 南都北嶺を遊学した後、川越喜多院などに住す。 徳川家康の知遇を受け、内外の政務に参画、延暦寺の復興と日光山の整備にも尽力。 家康の死後、東照大権現の贈号と日光山改葬を主導。 また寛永寺を創建し、大蔵経を刊行、天海版と称せられる。 諡号は慈眼大師。(広辞苑より)
| 小江戸 川越の旅 | 19:40 | comments(0) | - |









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