2006.09.29 Friday
伊豆修善寺の旅(12) 源頼家の墓

源頼家の墓 正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで18才で鎌倉幕府の二代将軍となった頼家は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、大きくゆれ動く時流と、みにくいかけひきに終始する政争に敗れ、在位わずか6年で、この修善寺に流され、元久元年(1204年)北条時政の手で入浴中に暗殺された。(享年23才)
「修禅寺物語」は、こうした政治的背景の上に配所の若き将軍頼家と、面作り師夜叉王を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものである。
この碑は、元禄16年頼家の五百回忌に当って、時の修禅寺住職筏山智船和尚が建てた供養碑であって、墓はその裏側に小さな五輪石塔が、二基のこされているのがそれである。(掲示板より)

源頼家 家臣 十三士の墓 父頼朝の跡を継いで、鎌倉幕府二代将軍となった頼家は、元老の干渉も多く、相続のことなどから北条氏と対立するが、数年後には病気を理由に修善寺に幽閉されてしまった。
しかし、鎌倉からの討手は容赦なく頼家を襲い、元久元年(1204)7月18日入浴中に暗殺された。この時頼家は23才という若さであった。
吾妻鏡(鎌倉時代史書)によるとこの6日後、頼家の家臣らは謀反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに殺されたことが記されている。この墓は、その頼家の家臣13名の墓と伝えられている。頼家と運命を共にしたこれら家臣の氏名は判っていないが、全国的にある十三塚の一例との説もある。
また、以前はここより東へ200mほどの山の麓にありましたが、台風被害のため、平成17年7月17日に、この場所に移築されました。(掲示板より)
「指月殿」の近くに頼家の墓があります。北条時政にとっては孫にあたる頼家を暗殺するという骨肉相食む悲しい出来事です。若くして暗殺された頼家の墓に冥福を祈って合掌してきました。
また十三士の墓は2004年10月の台風22号の被害で山崩れに遭い、全ての墓が埋没。 復旧作業で探しあてたのが3基のみでした。平成17年、現在の場所で頼家の墓の近くに移築したものです。