質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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伊豆下田の旅(54) 吉田松陰寓寄処
吉田松陰寓寄処
下田市蓮台寺にあります 「吉田松陰寓寄処(よしだしょういん ぐうきしょ)」 です。
隠れの間
隠れの間説明文
二階にあります 「隠れの間」 です。
お風呂
皮膚病の治療をしたお風呂です。
吉田松陰肖像画
吉田松陰25歳の肖像画と上の額は士規七則(松蔭書)の複製です。

  ここは吉田松陰寓寄処です。(昭和16年10月27日指定 静岡県史跡) 掲示板に以下の如く書いてあります。
  嘉永7年(1854)3月18日、米国ペリー艦隊を追って下田に到着した吉田松陰、金子重輔(かねこ じゅうすけ)は役人の目を逃れるため、それぞれ瓜中万二、市木公太と名を変え岡方村(現在の下田市4丁目付近)の岡村屋に宿泊し、米艦に便乗しての海外密航の機会をうかがっていた。
  当時皮膚病を患っていた松蔭は、温泉による治療のため、この蓮台寺を訪れ、向い側にある共同湯(上の湯)で夜を明かそうとしていた。 そこで偶然この家の主、村山行馬朗(むらやま ぎょうまろう)医師と知り合い、その好意によりしばらく村山邸に身を寄せることになった。  松蔭等は3月27日深夜、柿崎の弁天島付近から小船を出し米艦に漕ぎつけて便乗を懇請したが断られた。
  企ての発覚を覚悟した松蔭はいさぎよく自首し捕らわれの身となり、4月11日唐丸籠(罪人の護送に用いた竹籠)で天城山を越え、江戸伝馬町の獄へ送られた。
  この村山邸は、松蔭の居間として使われた二階の天井の低い部屋(隠れ間と言われる)や、掘り下げられた内湯の浴槽がそのまま保存され、松蔭が使ったと伝えられる机や硯箱とともに、幕末開港時の秘話の舞台となった松蔭隠れ家の面影を残している。      平成8年3月 下田市教育委員会

【ミニ知識】
  吉田松陰(1830─1859)・・・長門国(現在の山口県西・北部)萩松本村で長州藩下級武士の子として生まれた。 幼少より秀で、日本の伝統的学問を修め、後に洋学を学ぶ。 佐久間象山に傾倒、幕末の日本のおかれた状況に憂慮し、国内にあっては諸外国の圧力に対する準備をし、同時に外国の事情を知ることが急務と考えた。
  嘉永6年(1853)、長崎に来航中の露艦で密航を企図するも果たさず、翌年下田に来航したアメリカペリー艦隊に金子重輔とともに渡航を企てたが、渡米は日本の法律で禁じられていたためペリーに拒まれ、姉崎海岸に送りかえされる。 志敗れ自首、一時長命寺に拘禁され、更に下田の平滑の牢に入れられたが、江戸送り後、郷里の萩の獄舎に監禁される。 一時軟禁になり、松下村塾で教えたが、安政6年(1859)江戸伝馬町の獄で処刑、30才であった。 しかし、門下からは高杉晋作、伊藤博文、山県有朋(やまがた ありとも)ら明治維新に活躍した人物を輩出、その思想的影響は後世に伝わった。(吉田松陰寓寄処より戴いた資料より引用)

  現在、吉田松陰に関する本を読んでいます。 松蔭は頭脳明晰で、11歳の時、藩主毛利敬親(もうり たかちか)に 「武教全書」 を講じています。 幕末の当時、日本で一番旅をし見聞をメモした人とも言われています。情熱と好奇心が旺盛でしかも行動力があります。ここ寓寄処では松蔭先生と呼ばれ尊敬されています。私も松蔭先生の一生懸命に生きる姿を学びたいと思っています。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:13 | comments(0) | - |









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