2014.07.25 Friday
佐野原神社 その3(完) 本殿・将軍塚と社碑
拝殿奥に建つ 「本殿」、御祭神は 「藤原朝臣二条為冬」。
本殿の傍らにそびえる、ご神木のクスノキ。 樹齢は不詳。
さらに、本殿の奥に建つ 「将軍塚」、祭神為冬公の墳墓。
歴史を感じる 「佐野原神社」 石碑。
境内に建つ石造物 「宮方塔」。
「徴兵大石鐵蔵招魂社」 の文字が刻まれています。
境内に建つ松尾芭蕉の句碑。
眼にかかる 時や殊更(ことさら) さつき富士 はせを
松尾芭蕉が、箱根路で詠んだ句です。
元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉が江戸を立って上方へ最後の旅をしたときの句で、路通の編んだ 「芭蕉翁行状記」 には 「箱根の関越て」 と言う前書きがあります。
天保12年(1841年)芭蕉の百五十回忌を記念して、地元俳人たちの手で、三島宿から富士山須山口登山道に至る街道沿いのここ平松の地に建てられたものと言われています。
この句を彫った碑は、裾野市内には一基だけですが、東京都渋谷区宮益御嶽神社を初めとする都内各所、さらに足柄峠や山梨県都留市の宝鏡寺にもあります。
ちなみに、芭蕉は、この句を詠んで旅の後十月十二日大阪で客死しています。五十一才でした。
佐野原神社社碑
社碑の篆額
佐野原神社碑について
明治9年に創建された佐野原神社は、藤原定家の玄孫にあたる藤原朝臣二条為冬(ふじわらあそんにじょうためふゆ)を祭神としています。
この神社碑は、明治15年、明治維新に大きな功績を残した陸軍中将谷千城(たにたてき)が、南北朝の争いに斃(たお)れた二条為冬に寄せる服部大八ら地元民の思いに共感して書き上げました。「建武の中興」 と呼ばれた後醍醐(ごだいご)天皇の親政(しんせい;天子が自ら政治を行うこと)が、南北朝の争乱を経て破綻して以来、数百年の後に迎えた王政復古であっただけに、かって南朝に仕え、一命を捧げた忠臣為冬への思いが地元民の中に一気に高まったのでしょう。 服部大八らは、三好惟堅(みよしこれかた)を介して谷千城に次のように願い出ました。
「ここ佐野原は、建武の役に戦死した佐近衛中将贈従三位藤原為冬公の戦死した所です。 十三の古墳があり、その内将軍塚と言われるものが為冬公の墳墓です。 土地の人々は、代々言い伝えて大切に守ってきました。 王政維新以来、南朝のために命を捧げた諸公は、みなそれぞれの地で祀られているにもかかわらず、為冬公の亡骸を埋めるところは未だに誰にも知られずこのまま忘れ去られようとしています。 このままでいいのでしょうか。 我々は、皆で相談し、多くの人々に働きかけ、終に、為冬公の魂を鎮める為に祠(ほこら)を建て佐野原神社と名付けました。 明治9年のことです。 しかし、未だに碑文(ひぶん)がありません。 どうか碑文を書いてください。」 と。
この願いを即座に聞き入れた谷千城は、為冬公のひとなりや功績とともに、為冬公をここまで大切に思う地元民の忠孝の心にも感激し碑文を書いたのです。
なお、碑の上部にある篆書(てんしょ)の題字(篆額;てんがく)は、明治維新に功績のあった皇族の一人 有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王によるものです。 平成22年3月吉日 佐野原保存会
付記・人物伝
1. 谷 千城(碑文撰者) 幕末から明治にかけて活躍した土佐藩士・軍人・政治家・第二代学習院院長 官位は、陸軍中将正二位勲一等子爵 若い頃江戸に出て、儒学者安井息軒に学ぶ。 坂本龍馬・武市半平太・後藤象二郎・西郷隆盛と交流 西南戦争では、熊本鎮台指令長官として52日間に渡って西郷軍の攻撃から熊本城を守り、政府軍の勝利に貢献した。
2.有栖川宮熾仁親王(碑の篆書)
江戸幕末から明治時代にかけて活躍した皇族 陸軍大将大勲位功二級
明治政府が成立するまで、朝廷における有力な親長州派だった。 戊辰戦争では、東征大総督・明治になって西南戦争でも征討総督など歴任・陸軍大将・参謀総長など活躍の場が廣い。書家としても一流。和宮内親王と婚約していたことでも知られている。
3.長屋重名(碑文の書写) 土佐(高知)藩士 明治期の陸軍軍人
4.(刻字した人) 廣群鶴(こうぐんかく)は号で、本名廣瀬群鶴 東京谷中の石屋で、御碑銘の彫刻師
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わが町、静岡県裾野市にある旧懸社 佐野原神社は、白蓮が入江相政と連名で奉納した 「本坪鈴」が今年の5月5日に発見されて以来、一躍脚光を浴びている神社です。 8月3日(日)、8月17日(日)、9月7日(日)、9月21日(日)に本坪鈴・奉納書(直筆)が追加公開されます。 見に来て下さい。(完)