2011.05.24 Tuesday
長崎の旅 その6 グラバー園(4) 三浦環とブッチーニ像
旧スチイル記念学校
明治20年、東山手の丘に建てられたミッション系の学校。 1階にはグラバーファミリーの写真や日本四大魚譜のひとつである 「グラバー図譜」 2階には長崎の洋館等を題材にした田川憲の版画等が展示されています(グラバー園散策マップより)
旧スチイル記念学校内部の展示風景。
旧自由亭
江戸時代の終りごろ、日本で初めて西洋料理のレストランとして伊良林(いらばやし)の神社前にオープン。 創立者の草野丈吉は出島のオランダ人のもとで修業し、大いに料理の腕を上げたといわれています。 現在2階は喫茶室。(散策マップより)
入口には、大きな 「南蛮屏風」 狩野内膳筆(1593―1680)が飾られています。
旧自遊亭前に立つ掲示版です。
園内に建立されている 「三浦環の像」 とジャコモ・プッチーニ肖像。
世界三大オペラに数えられる長崎を舞台にした歌劇マダムバタフライ(蝶々夫人)。グラバー園内にはオペラを作曲したジャコモ・プチィーニの像とマダムバタフライを演じた世界的に名をあげた三浦環の像が立てられています。(散策マップより)
正面円形の 「ジャコモ・プッチーニ肖像」 の掲示版。
正面から見る 「三浦環の像」。
日本が生んだ世界的プリマドンナ三浦環は、イタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニが長崎を主題としたオペラ マダムバタフライ(蝶々夫人) を30年の長さにわたり世界各国で歌い続け美しい名曲を通じて 広く海外に日本婦人の愛の美徳を紹介した。
その功績をたたえるためプッチーニの肖像とともに ゆかり深きこの丘に三浦環の立像を建立して永く後世に伝えるものである。 1963年5月26日
ジャコモ・プッチーニと蝶々
明治の長崎を舞台にしたオペラ 「マダム・バタフライ」 はイタリア人作曲家ジャコモ・プッチーニ(1858―1924)の傑作。 彼の生地イタリア国ルッカ県およびマダム・バタフライ・コンクール協会から両都市の友好と世界平和の願いを込めて寄贈されたもの。 像の作者はフランス人彫刻家ジルベール・ルビーグル。 (掲示プレートより)
西洋料理の発祥の碑 わが国の西洋料理の歴史は16世紀中頃、ポルトガル船の来航に始まり、西洋料理の味と技(わざ)は鎖国時代、唯一の開港地長崎のオランダ屋敷からもたらされた。 1800年代にいたり、横浜、神戸、函館などが開港され、次第に普及し、更に東京を中心に国内に大きく輪を広げ、日本人の食生活に融和(ゆうわ)され現代の隆盛となった。 ここに西洋料理わが国発祥を記念してこの碑を建てる。 1977年 社団法人 全日本司厨士協会 (掲示プレートより)
日本最古のアスファルト道路 三浦環像のある場所から、右斜め下に向かって残っている道路の跡らしきもの。これはグラバーの息子の倉場富三郎がつくらせた日本最古のアスファルト道路だといわれています。 このあたりは、かってテニスコートがあったらしく、南山手の斜面を切り開いてテニスコートをつくり、リンガー家やグラバー家の人々はテニスを楽しんだのでしょう。(散策マップより)
日本最初のテニスコート 明治の初期、フレデリック・リンガーが自宅の庭内に日本最初のテニスコートをつくりました。 ここでは、グラバーの息子や外商たちの2世が大いにスポーツを楽しんだものです。 この石造りローラーは、そこで使用されていました。 (掲示板より)
当時のテニスを楽しむ想像図が描かれています。
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このグラバー園を散策していると明治時代、当時の様子を見ることができます。 特に世界的プリマドンナ・三浦環さんの活躍には敬意を表します。 名前は知っていましたが、これほで活躍されたとは再認識させられました。
【ミニ知識】 三浦環(みうら たまき)・・・百科事典マイベディアより
ソプラノ歌手。 東京生れ。 旧姓柴田。 東京音楽学校卒。 東京音楽学校卒。 在学中の1903年(明治36)日本人による初のオペラ公演(グルックの≪オルフェオとエウリディ−チェ≫)に出演。 1914年渡欧し、翌年ロンドンでデビュー、1918年カルーゾーとシカゴで共演するなど活躍。≪蝶々夫人≫の主役として有名で、出演は2000回にのぼる。著書に≪世界のオペラ≫(1912)、訳書に≪歌劇お蝶夫人≫(1937年)がある。 1884年(明治17)―1946(昭和21)