質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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九州・福岡・水郷 柳川の旅 その2 御花・松濤園(1)
柳川-1
柳川、堀割に影を映す 「出逢い橋」 を渡って 「御花・松濤園(しょうとうえん)」 へ 
柳川-2
きれいな花畑
柳川-3
柳川-4
明治42年から43年に迎賓館として建てられた「西洋館」
柳川-5
お花の全景(航空写真)
柳川-6
これより館内見学。 展示されている柳川城天守閣 (縮尺;1/60)
柳川-7
明治初期に撮影された柳川城の写真です。 城の写真で現存するのはこの一枚だけです。 撮影後、柳川城は明治4年に焼失し、本丸跡に記念碑が立てられています。(現在の柳川高校とその隣の柳城中学校が本丸跡です。)(説明文より引用)
柳川-8
柳川-9
柳川-10
中庭にそびえる巨木 「楠;くすのき」、樹齢;800〜900年 回り;4.9m
柳川-11
西洋館の前庭には 「蘇鉄」 が植えられています。
JUGEMテーマ:写真

 「柳川」 と 「立花家」。
 豊臣秀吉の九州平定の際、豊後大友氏の先陣として活躍した立花宗茂(むねしげ)は、その功により、筑後13万石の城主として柳川を城地と定めました。 その後、関ヶ原の戦いで秀吉への恩義から西軍に味方した宗茂は、柳川を追われることになります。 かわって入部した田中吉政(よしまさ)によって、柳川城の建設や城下町、堀割の整備が進められました。 しかし、徳川家の信頼を得た宗茂は、20年後の1620年、世継の途絶えた田中氏にかわって再び柳川藩主として奇跡的に復活をとげたのです。 以後柳川は、明治維新時の十二代藩主鑑寛(あきとも)まで、柳川藩の城下町として栄えました。

 「御花」 の由来。
 元文三年(1738)、柳川藩五代藩主、立花貞淑(さだよし)は、政務の疲れを癒し、家族と和やかな時を過ごすための場所としてこの地に別邸を設けました。 当時この辺りは 「御花畑」 といわれていたことから柳川の人々は親しみを込めて 「御花」 と呼ぶようになりました。
 明治時代になると立花伯爵家の邸宅となり十四代当主寛治(ともはる)は明治42〜43年にかけて迎賓館としての西洋館と、それにつづく和館の大広間という当時流行の形式の邸宅を整えました。(柳川 御花 リーフレットより引用)
 
 「福岡県の歴史」 に 「田中吉政」 について次のような記述があります。
 筑後方面は毛利秀包(ひでかね)・立花宗茂・筑紫広門の諸大名がいずれも西軍に属したので、すべて改易となり、関ヶ原の戦いで三成をとらえた功績によって田中吉政が三河国岡崎より入部した。 かれは小早川秀秋の領した筑後二郡も加えた筑後国一円で32万5千石の大筑後藩主となった。 土木工事の経験が豊富なかれは立花宗茂の柳川城を修築・整備し、五層の天守閣をつくり、堀割をめぐらした大城郭にしてこれに入り、久留米篠山城および福島城には次・三男を配置して藩領全域の支配体制を固めた。・・・・・・・
| 水郷 柳川の旅 | 20:00 | comments(2) | - |
当方も震度3の揺れを感じましたが、特に被害等はありません。
今までに経験のない長い横揺れでした。
TVをつけて余りにも甚大な被害に言葉がありません。
被害にあわれた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早い復旧をお祈り申し上げます。
| miya | 2011/03/14 2:46 PM |
大きな地震でしたが大丈夫でしたか。
当地でもかなり大きく横揺れを感じました。

| k-matsui | 2011/03/13 2:54 PM |









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