質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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小江戸・川越の旅 その26 小江戸散策と巡回バス
本川越駅
西武新宿線「本川越駅」です。
ロック クライミング
市内散策で発見しました、ロック クライミングの練習場です。
歩道橋
川越駅近くのアーチ式歩道橋です。
川越駅前繁華街
川越駅から見た市内繁華街です。
川越駅
川越駅です。ここから電車に乗って帰ります。
小江戸巡回バス-1
小江戸巡回バス-2
小江戸巡回バス-3
川越駅西口から出ています 「小江戸巡回バス」、一日フリー乗車券500円です。
JUGEMテーマ:写真

 小江戸・川越に行くには、川越駅、西武新宿線の本川越駅、東武東上線の川越市駅の三駅があります。 今回筆者は川越駅を利用しました。 小江戸巡回バスを利用したい人は川越駅が便利です。
 26回にわたり写真展示しました 「小江戸・川越の旅」 は今回で終了です。 小江戸の名がぴったりと当てはまる川越は見応えのある観光地です。 自然の中で文化財や史跡を訪ねる旅は、思い出に残る旅となりました。 できれば10月中旬に開催される「川越まつり」 を撮影・展示しこの旅の完結としたいと思っています。

 念願の 「川越まつり」 撮影してきました。 こちらに展示しましたのでご覧下さい。
| 小江戸 川越の旅 | 19:26 | comments(4) | - |
小江戸・川越の旅 その25 川越城本丸御殿
川越城本丸御殿-1
重厚な建造物、川越城唯一の遺構 「本丸御殿」 です。
川越城本丸御殿-2
嘉永元年(1848)、時の藩主松平斉典が造営したもの。大唐破風に格式を感じます。
川越城本丸御殿-3
玄関先から見た本丸御殿です。
川越城本丸御殿-4
本丸御殿に展示されている、縮尺1/60の川越城本丸御殿です。
川越城本丸御殿-5
市内行伝寺の僧侶が、登城するおりに当時使用した駕籠です。 重さ約50kg
川越城本丸御殿-6
案内に従って本丸御殿を見学しています。
川越城本丸御殿-7
家老 用部屋 川越藩は、江戸幕府にとって有力な大名のため、藩主は年間を通じて江戸に詰めており、藩の政務は家老を中心にこの部屋で行なわれたと考えられます。
川越城本丸御殿-8
川越城本丸御殿-9
庭園です。
川越城本丸御殿-10
本丸御殿に展示されている 「川越城富士見櫓」 の模型です。
川越城本丸御殿-11
実際に櫓のあった場所には現在石碑が建っています。
JUGEMテーマ:写真

 室町時代に太田道真・道灌父子が築城以来、戦国・江戸時代にかけ、10家30代の城主が入城。 今は市役所、学校、グランドなどになってしまい、現存するのは冨士見櫓跡と空堀、それに江戸中期建築の、当時16棟もあった 「本丸御殿」 のうち1棟の入母屋造りの玄関と大広間のみですが、大唐破風に17万石の格式が偲ばれます。
 1990年に118年ぶりに再建された書院造り9室の家老詰所も見学できます。
| 小江戸 川越の旅 | 19:07 | comments(0) | - |
小江戸・川越の旅 その24 喜多院(3) 五百羅漢
五百羅漢-1
五百羅漢-2
五百羅漢-3
五百羅漢-4
五百羅漢-5
JUGEMテーマ:写真

 川越の観光名所の中でも指折りな観光地、喜多院の境内にあります 「五百羅漢」 です。 この羅漢は川越在の北田島村の百姓でのち出家した志誠(しじょう)が天明2年(1782)に発願(ほつがん;神仏に願を立てること)して奉納しはじめ、のち喜多院塔頭の慶願・澄音・祐賢らが志誠の意志を継いで、文政8年(1825)までの約50年の歳月をかけて完成されたもの。
 十大弟子、十六羅漢をふくむ533尊者のほか中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊普賢の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ全部で538体が鎮座しています。 1体として同じ像は無く、読書したり、内緒話をしたり、七輪で湯を沸かすなど、ユーモラスなその姿態に笑いをさそわれます。
 群像のかたわらに枝をひろげる沙羅双樹は、明和4年(1769)、山形へ国替えになった川越城主秋元涼朝が植えていったと言われています。

 【ミニ知識】 羅漢(らかん)・・・広辞苑より
 仏教の修行の最高段階、また、その段階に達した人。
| 小江戸 川越の旅 | 19:25 | comments(0) | - |
小江戸・川越の旅 その23 喜多院(2) 遠州流庭園
喜多院・庭園-1
喜多院の遠州流庭園 枯山水 曲水の庭 心が和む美しい庭園です。
喜多院・庭園-2
喜多院・庭園-3
渡り廊下に掛けられた説明文です。 一見に値する見事な庭園です。
喜多院・庭園-4
庭園や宝物が見れる入口です。 丁度 「喜多院宝物展」 が開催中でした。
喜多院・庭園-5
書院造りの建物の縁側より庭園を撮影、カメラを右に振ると徳川家光誕生の間、春日局化粧の間などの文化財や宝物が見れますが、残念ながら撮影は禁止です。
喜多院・庭園-6
喜多院・庭園-7
素晴しい眺めの庭園です。
喜多院・庭園-8
看板に 家光公お手植桜 しだれ桜 2代目 の文字が読み取れます。
喜多院・庭園-9
喜多院・庭園-10
喜多院・庭園-11
いろいろな角度から庭園を楽しんできました。
喜多院・庭園-12
客殿、書院、庫裡の建物から本殿(慈恵堂)に渡る廊下です。 廊下を渡って左、絢爛豪華な本殿の内陣も拝観することができます。
JUGEMテーマ:写真

 慶長から寛永にわたって整えられた境内、特に江戸城紅葉山を模したと言われる奥庭、小堀遠州流枯山水曲水の庭など、四季を通して楽しめる見事な庭園です。
 喜多院の宝物展、江戸城ゆかりの建造物や文化財の数々、徳川家光誕生の間や天井に描かれた狩野探幽筆の草花絵、春日局化粧の間など 絢爛豪華な見応えのある宝物を見ることができます。 庭園と宝物、華麗な江戸の文化を堪能してきました。
| 小江戸 川越の旅 | 19:10 | comments(0) | - |
小江戸・川越の旅 その22 喜多院(1)
喜多院-1
喜多院-2
喜多院の山門、国指定の重要文化財 。総ケヤキ造りの四脚門で、切妻造り、本瓦葺き。 寛永9年(1632)の造立。 寛永15年の大火をまぬがれた唯一の建造物。
喜多院-3
喜多院-4
本堂・慈恵(じえ)堂 県指定の重要文化財。 喜多院一山の本堂で、桁行9間、梁間6間、一重、屋根入母屋造り、銅板葺き。寛永16年(1639)の再建。 厄除け大師として有名な慈恵大師(元三大師)が祀られている。
喜多院-5
多宝塔 県指定の文化財。 寛永16年(1639)の造立。 本瓦葺きの三間多宝塔で、高さ約13m。 昭和48年に復原修理が行われた。
喜多院-6
喜多院-7
鐘楼門 国指定の重要文化財。 桁行3間、梁間2間、袴腰付き、屋根入母屋造り、本瓦葺き。 元禄15年(1702)在銘の銅鐘が懸けられている。 前面に竜、背面に鷹の木彫が二個づつはめ込まれている。
喜多院-8
慈眼堂(じげんどう) 天海僧正は寛永20年(1643)10月2日寛永寺(東京の上野公園にある徳川将軍家の菩提所)において入寂(にゅうじゃく;僧の死)し、慈眼大師の諡号(しごう;死後の称号)をおくられた。 3年後の正保2年(1645)には徳川家光の命により御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのが慈眼堂。
喜多院-9
慈眼堂に行く石段で何かの撮影が行われていました。
喜多院-10
聖徳太子を祀っている六角太子堂と木遣(きやり)塚
喜多院-11
喜多院山門前に建立されている 「天海僧正像」 と 「白山権現」。
JUGEMテーマ:写真

 川越大師として親しまれている天台宗の寺。 同宗の関東総本山とされ、正式には 「星野山無量寿寺喜多院」 という。 平安時代初期の天長7年(830)、淳和(じゅんな)天皇の勅願により、慈覚(じかく)大師円仁が阿弥陀如来を安置して一宇を造立した。 これが開基とされ、元久2年(1205)兵火で焼失したが、永仁4年(1296)、伏見天皇の命により、尊海僧正が入住して再興。 このとき厄除大師として知られる慈恵大師(元三大師)を併せ祀ったと伝えられている。
 以来、関東天台宗門教学の道場として寺運は隆盛、正安3年(1300)、後伏見天皇から 「星野山」 の勅額を賜った。 天文6年(1537)、北条氏綱と上杉朝定の戦火に焼けたが、慶長4年(1599)、徳川家康の信任厚い 「天海僧正」 が来山して重興。 家康は寺領500石を寄せて寺に保護の手を加えた。 当時、堂塔が 南院・中院・北院に分かれており、天海が北院に住したので、一山の寺名を 「喜多院」 と称するようになったのだという。(郷土資料事典より)

 江戸時代初期、名僧天海僧正が住職をつとめた寺として、また江戸城から移築された三大将軍徳川家光・春日局ゆかりの建物をはじめとする、多くの文化財を所蔵している喜多院の名は川越というより、埼玉県を代表する寺院として全国的に有名。
 徳川家康の信任を得ていた天海僧正が第27世住職になると、幕府から厚い庇護を受け、江戸城から豪華な壁画や墨絵で装飾された 「客殿」 と呼ばれる家光誕生の間や3代将軍家光の乳母として知られる春日局が使用した 「書院」 と呼ばれる春日局化粧の間などが移築された。 江戸城ゆかりの建造物に加え、山門・鐘楼門・慈眼堂などが重要文化財に指定されている。(小江戸川越観光協会HPより)

 【ミニ知識】 天海(てんかい) 1536〜1616(家康より6才年上で、27年長生き)
 江戸初期の天台宗の僧。 南光坊と称。 会津の人。 南都北嶺を遊学した後、川越喜多院などに住す。 徳川家康の知遇を受け、内外の政務に参画、延暦寺の復興と日光山の整備にも尽力。 家康の死後、東照大権現の贈号と日光山改葬を主導。 また寛永寺を創建し、大蔵経を刊行、天海版と称せられる。 諡号は慈眼大師。(広辞苑より)
| 小江戸 川越の旅 | 19:40 | comments(0) | - |
小江戸・ 川越の旅 その21 仙波東照宮 (日本三大東照宮の一つ)
仙波東照宮-1
国指定 重要文化財 「仙波(せんば)東照宮」 の入口です。
仙波東照宮-2
入口の庭園に咲く牡丹の花がきれいです。
仙波東照宮-3
境内入口にある朱塗八脚門・切妻造の 「随身門;ずいしんもん」 です。 重要文化財
仙波東照宮-4
仙波東照宮-5
重要文化財・建造物の石鳥居、寛永十五年九月十七日と刻まれています。 寛永15年(1638)、今から370年前に造営奉行の堀田正盛が奉納した明神鳥居です。
仙波東照宮-6
立派な三つ葉葵の御紋がかけられた正門です。 これより先は入れませんでした。
仙波東照宮-7
仙波東照宮-8
正面扉の隙間に望遠レンズを入れ撮影した「東照宮拝殿」です。 重要文化財
仙波東照宮-9
拝殿のまわりには、川越藩主たちが献燈した26基の石燈籠があります。
仙波東照宮-10
同じ境内にある 「弁財天 厳島神社」 です。 周りは葵庭園として整備されています。
JUGEMテーマ:写真

 重要文化財・建造物 仙波東照宮 (埼玉県川越市小仙波町1-21-1)
徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した元和3年(1617)3月、喜多院に4日間逗留して供養したので、天海僧正が寛永10年(1633)1月この地に創建した。 その後寛永15年(1638)正月の川越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年6月起工、寛永17年完成した。
 当初から独立した社格をもたず、喜多院の一隅に造営されたもので、日光・久能山の東照宮とともに三大東照宮といわれている。
 社の規模は表門(随身門)・鳥居・拝殿・幣殿・中門(平唐門)・瑞垣(みずがき)・本殿からなっている。 本殿・拝殿の前には歴代城主奉献の石燈籠がある。 なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主安部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。(掲示板より)
| 小江戸 川越の旅 | 19:01 | comments(0) | - |
小江戸・川越の旅 その20 中院(2)
中院-1
中院境内にあります島崎藤村の記念碑と、後方にゆかりの茶室・不染亭があります。
中院-2
「不染亭」 は島崎藤村が、静子夫人の母堂加藤みきに昭和4年に贈った茶室で川越市新富町より移築されたものです。
中院-3
中院御詠歌の石碑です。
中院-4
庭に牡丹の花がきれいに咲いています。
中院-5
中院の鐘撞堂(かねつきどう)、奥にツツジの花がきれいです。
中院-6
中院-7
満開で色鮮やかなツツジの花がきれいでした。 
JUGEMテーマ:写真

 中院は島崎藤村ゆかりの寺院として知られています。 境内には川越市の文化財に指定された島崎藤村ゆかりの茶室 「不染亭」 があり、現在は茶道を楽しむ人々に利用され、保存伝承されています。
 また境内には藤村の義母加藤みきの墓があり、藤村も度々足を運び墓石 「蓮月不染之墓」 という戒名は、藤村が自ら筆をとり記したものだといわれています。

 撮影した時期(4/26)は牡丹とツツジの花がきれいでした。 今年は終わってしまいましたが、本堂前のしだれ桜が咲く時期に一度訪問してみたいものです。 閑静な佇まいの本堂としだれ桜、絵になる撮影ポイントです。

 筆者、明日より茨城県潮来市の 「水郷潮来あやめ祭り」 撮影のため6/7〜9までブログ更新はお休みです。 後日あやめ祭りの写真を展示をしますので見て下さい。
| 小江戸 川越の旅 | 19:10 | comments(0) | - |
小江戸・川越の旅 その19 中院(1)
中院-1
天台宗別格本山 星野山 中院 の山門です。
中院-2
市指定・史跡 中院の掲示板
中院-3
閑静な佇まいが趣のある中院・本堂です。本堂前のしだれ桜は桜の名所として有名。
中院-4
中院の境内に建立されている石碑 「狭山茶発祥之地」 です。
中院-5
河越茶 狭山茶の起源が記されています。 夫(そ)れ茶は遠く平安の昔 伝教大師最澄和尚 中国天台山国清寺より伝来し京都に栽培せしより始まる
 慈覚大師圓仁和尚 天長7年(830年) 当地仙波に星野山無量寿寺仏地院建立に際し 比叡山より茶の実を携え境内に薬用として栽培す これが河越茶 狭山茶の起源である 当山茶園の茶株を此処に移植し長く伝承す
中院-6
中院-7
中院-8
庭園がきれいな中院です。
JUGEMテーマ:写真

 中院は喜多院の直ぐ南方にあり、正式には天台宗別格本山中院といい、静寂な佇まいが趣のある寺院です。 古くは星野山無量寿寺仏地院と呼ばれ、鎌倉時代の終わりの頃、無量寿院から分かれたとされる天台宗の寺で、喜多院に天海僧正が来往するまではこの地の中心的な寺院であったといわれている。(観光協会のHPより)
| 小江戸 川越の旅 | 19:05 | comments(0) | - |
小江戸・川越の旅 その18 氷川神社
氷川神社-1
川越の総鎮守 「氷川(ひかわ)神社」、参道にそびえる高さ15mの明神型の大鳥居は、木製の鳥居としては日本一の大きさとのこと。
氷川神社-2
社号額の文字は、幕末・維新期の政治家 「勝海舟」 の手によるもの。
氷川神社-3
大鳥居をくぐり参道を進みます。
氷川神社-4
参道右手に太田道灌手植えの矢竹と献詠和歌の立札です。 道灌の和歌 「老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪」 が献納されています。
氷川神社-5
戌(いぬ)岩と湧き出る御神水。 境内地下の水脈から汲み上げている御神水です。
氷川神社-6
結婚式などが行われる氷川会館へ渡る通路です。
氷川神社-7
氷川神社の拝殿です。
氷川神社-A
拝殿の奥にある本殿です。
氷川神社-B
氷川神社-C
本殿、江戸彫りの装飾建築が見事です。 昭和31年、埼玉県の有形文化財に指定。
氷川神社-D
氷川神社-E
本殿北側の大羽目の彫刻は 「源頼朝」 が油比ヶ浜にて千羽鶴を解き放つ姿が描かれています。 拝殿の裏手に回り柵の格子越しに撮影したもの。 天保13年(1842)、当時の城主 松平斉典が寄進したもので、江戸彫りといわれている精巧な彫刻です。
氷川神社-8
本堂正面には石造りの鳥居があります。
氷川神社-9
大鳥居から正面にみえる華麗な造りの 「舞殿」 です。
氷川神社-10
同じ境内にある八坂神社社殿です。 江戸城二の丸の東照宮として建立、規模縮小で川越三芳野神社に移転、さらに明治5年(1872)今の場所に移築されたもの。 江戸初期建築の特徴をよく残す建造物です。
氷川神社-11
祈願や報謝が書かれた沢山の絵馬が奉納されています。
氷川神社-12
同じ境内に学問・歌道に優れた 「柿本人麻呂神社」 と山上憶良の歌碑があります。
JUGEMテーマ:写真

 氷川神社の歴史は大変古く欽明天皇の時代(539〜571)、武蔵国一の宮氷川神社(大宮市)の神霊を勧請、奉祀したのが始まりと伝えられています。
 以後、太田道灌が川越城を築城して以来、当地の総社として崇敬され 「お氷川様」 と呼ばれ親しまれてきました。
 本殿は間口約4m、奥行2.5m、総ケヤキ、白木造り、屋根入母屋造り、銅瓦葺き。前面に千鳥破風と軒破風をつけている。 小建築ながら、軒下周りの各所に、中国道子や川越の山車などを題材にした、見事な彫刻が施されている。 木々に囲まれてたつ本殿と境内末社の八坂神社社殿が、県の文化財に指定されています。
 尚、毎年10月中旬に開催される 「川越まつり」 は氷川神社の例大祭の付祭りです。

 【ミニ知識】 勝海舟(かつかいしゅう) 1823〜1899
 幕末・維新期の政治家 名は安芳(やすよし)、海舟は号。 江戸の人で、蘭学を修め、佐久間象山に砲術を学ぶ。 長崎の海軍伝習所に入り、1860年幕府の遣米使節を乗せた咸臨丸(かんりんまる)の艦長として太平洋横断に成功。 軍艦奉行・陸軍総裁を歴任し、戊辰(ぼしん)戦争では旧幕府側を恭順に導き、西郷隆盛と交渉して江戸城無血開城を実現した。 明治新政府では、参議・海軍卿・枢密院顧問官などを歴任。 著書に財政経済資料を集めた 『吹塵(すいじん)録』 など多数。(日本史事典より)
| 小江戸 川越の旅 | 19:39 | comments(2) | - |
小江戸・川越の旅 その17 三芳野神社
三芳野神社-1
平安時代初期の大同2年(807)の創建と伝わる 「三芳野(みよしの)神社」
三芳野神社-2
社前に続く細い参道は、童謡 「とおりゃんせ」 のモデルと言われています。
 ♪とおりゃんせとうりゃんせ ここはどこのほそみちじゃ
  てんじんさまのほそみちじゃ ちょっととおしてくだしゃんせ
  ごようのないものとおしゃせぬ このこのななつのおいわいに
  おふだをおさめにまいります いきはよいよいかえりはこわい
  こわいながらも とおりゃんせとおりゃんせ♪
三芳野神社-3
三芳野神社-4
三芳野神社-5
三芳野神社境内に建立されています石碑 「わらべ唄発祥の所」 です。
三芳野神社-6
同じ境内に 「川越城七不思議」 の石碑も建立されています。
JUGEMテーマ:写真

 三芳野神社は川越城跡の東端、本丸御殿のすぐ前にある。 平安時代初期の大同2年(807)の創建と伝えている。 のち、京都北野天神から菅原道真の神霊を勧請して合祀したという。 長禄元年(1457)、川越城を築いた太田道灌は、本神社を城の鎮守とし、天正19年(1591)には、徳川家康が朱印20石を寄進。 江戸時代を通じて、川越城主歴代の尊信が厚かった。
 社前に続く細い参道は、童謡 「とおりゃんせ」 天神様の細道のモデルだと伝えられている。 神社が城内にあったため、一般人の参拝がなかなか難しく、その様子が歌われたといわれている。
 境内の背後に雁が飛来する 「初雁の杉」 があったが、今はない。 三芳野の社名は、「伊勢物語」 に出てくる 「みよし野のたのむの雁のひたぶるに 君が方にぞよると鳴くなる」 の中の、みよし野(川越の古名)によると伝えている。
 本殿と拝殿を相の間でつないだ、いわゆる権現造りの社殿は、寛永元年(1624)川越城主酒井忠勝が、徳川三代将軍家光の命によって造立したもの。 本殿・拝殿とも屋根入母屋造り、銅板葺きで、蟇股や太い木割り、各所に施された朱塗り・飾り金具、拝殿の小組格天井の黒漆塗りなどに、桃山時代(16世紀後半)の壮麗な建築様式を残している。 県指定の文化財。(郷土資料事典 埼玉県より引用)

 【ミニ知識】 川越城七不思議・・・境内掲示板より
 (その1) 初かりの杉
 川越城内にある三芳野神社の裏には大きな杉の老木があった。 いつの頃からか毎年雁(かり)の渡りの時期になると時を違わず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら、杉の周りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。 そのため、川越城は別名 「初雁城」 ともいわれている。

 (その2) きりふきの井戸
 城中に苔(こけ)むした大きな井戸があった。 ふだんは蓋(ふた)をしておくが、、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、この蓋を取ると、中からもうもうと霧が立ち込めて、城は敵から見えなくなったという。 そのため、川越城は別名 「霧隠城」 ともいわれる。

 (その3) 人身御供(ひとみごくう)
 川越城築城の際、太田道真・道灌父子は、三方(北、西、東)の水田が泥深く、築城に必要な土塁がなかなか完成せず苦心をしていたところ、ある夜龍神が道真の夢枕にたって 「明朝一番早く汝のもとに参った者を人身御供に差し出せばすみやかに成就する」 と言った。 道真は、龍神にそのことを約束をしたが、明朝一番早く現れたのは、最愛の娘の世禰(よね)姫であった。 さすがの道真も龍神との約束を守れずにいると、姫は、ある夜、城の完成を祈りながら、七ツ釜の淵に身を投げてしまった。 そののち川越城はまもなく完成したという。

 (その4) よな川の小石供養
 むかし、川越城主にたいそう狩の好きな殿様がいて、毎日のように鷹狩りに出かけていた。 ある日、供の若侍が小川のほとりを通りかかると、一人の美しい百姓の娘に出会ったので、名前をたずねると 「およね」 といい、やがてこの娘は縁があって若侍の嫁となったが、姑にいびられ実家に帰されてしまった。 およねは自分の運命を悲しみ、夫に出会った小川のほとりで夫の通りかかるのを待っていたが、会うことができず小川の淵へ身を投げてしまった。 やがてこの川を「よな川」と呼ぶようになったが、川の名は 「およね」 からきているとも、よなよな泣く声が聞こえるからともいわれている。

 (その5) 7つ釜と片葉の葦(あし)
 浮島稲荷社の裏側一帯は、萱(かや)や葦(あし)が密生した湿地帯で、別名 「七ツ釜」 といわれていた。 ここに生える葦は不思議なことに片葉であって、次のような話が伝わっている。 川越城が敵に攻められ落城寸前に、城中から姫が乳母と逃げのび、ようやくこの七ツ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまった。 姫は、川辺の葦にとりすがり岸にはい上がろうしたところ、葦に葉がちぎれてしまい、姫は葦の葉をつかんだまま水底へ沈んでしまった。 この辺りの葦は、この姫の恨みによってどれも片葉であるといわれている。

 (その6) 天神足洗いの井戸
 太田道真・道灌父子が川越城を築城するに当たって、堀の水源が見つからず困っていたところ、一人の老人が井水で足を洗っているのに出会った。 この老人の案内によって水源を見つけた道灌は、かねての懸案を解決し、難攻不落の川越城を完成させることができたといわれている。 かの老人の気品にあふれた姿に気がついた道灌は、これぞまぎれもない三芳野天神の化身であったかと思い、以来これを 「天神洗足の井水」 と名づけて大事にし神慮にこたえたという。

 (その7) 城内ひずめの音
 川越城主酒井重忠は、不思議なことに夜ごと矢叫(やたけび)や蹄(ひづめ)の音に眠りをさまされていた。 ある日、易者に見てもらったところ、城内のどこかにある戦争の図がわざわいしているとの卦(け)が出たので、さっそく土蔵を調べたところ堀川夜討の戦いの場面をえがいた一双の屏風絵がでてきた。 この屏風の半双を引き離して養寿院に寄進したところ、その夜から矢叫や蹄の音が聞こえなくなったという。
| 小江戸 川越の旅 | 19:08 | comments(0) | - |
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