質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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佐賀県の旅(19) 佐賀市その18 大隈重信候
大隈重信候の銅像
大隈重信候の銅像です。
大隈記念館
大隈記念館です。大隈重信候の生誕125年を記念して、昭和41年11月落成しました。設計は早稲田大学名誉教授・今井謙次博士。館内には大隈重信候にまつわる歴史資料が展示され、大隈重信候の生涯をイラストやビデオで解説しています。
大隈重信候 碑文
記念館の入口に掲示されている大隈重信候 碑文です。内容を下記に記します。
大隈重信候 旧宅
史跡 大隈重信旧宅 
 この建物は今から二百年ほど前の天明・寛政の頃建てられた禄高三百石取りの建物と云われています。 最初は佐賀特有の凹型の屋根をもつたクド造りの建物で、藁葺(わらぶき)、木造の平屋でした。
 大隈家は代々兵法家で、特に父信保(のぶやす)は、荻野流砲術家として名声があり、禄高四百石の石火矢頭人(いしびやとうじん;砲術長)でした。幕末、長崎警備につき、砲台勤務で活躍しました。
 天保3年(1832)信保はこの家を買い取り同9年2月16日、この家で重信が誕生しました。重信が6歳のとき藩校弘道館に入学しましたが、母三井子の考えによって、勉強部屋が二階に増築され、これが今の家の中央部に位置しています。
 大正10年(1921)大隈重信生家保存会が設立されたとき、生家の管理人を居住させるため、東側のカマヤの部分を増改築して現在の姿になったものです。
 昭和40年、明治の元勲大隈重信候の旧宅として、国の史跡として指定を受けました。(旧宅の掲示板より引用)
旧宅内部
旧宅の内部です。掲げてあります“向上無限”は海部俊樹元首相の書です。
旧宅の内部
旧宅の内部です。
龍泰寺
大隈重信候のお墓があります「龍泰寺」本堂です。
大隈重信候のお墓
大隈重信候のお墓です。記念碑に「早稲田大学創立百周年記念墓前祭」とあります。

 佐賀市最後の写真展示は、佐賀県が生んだ偉大な政治家 「大隈重信候」 です。 重信候の業績が、記念館前の碑文に掲示されていましたのでご紹介します。

 大隈重信、幼名は八太郎という。 いかににも気宇壮大、その生涯も名前のように闊達である。 幕末、1838年に、佐賀藩士信保のちょう長男として、城下町・会所小路に生まれた。柔弱な幼時だったが、母三井子は時に優しく時に厳しかった。この母は重信の人となりに大きく響いている。
 藩校弘道館に学ぶのは6歳。 学ぶことの偉大さを知る。 15歳の1853年は、ペリー来航の年。 17歳の時、蘭学寮に入る。 さらに、長崎に英学校致遠館が設立されると、副島種臣とともに学生たちの監督として、フルベッキ(アメリカのオランダ改革派教会宣教師・教育家)に学ぶ。
 明治維新の1868年、新政府が生れると直ちに外国事務判事となり、外交の衝(しょう)に当たる。 1870年、四参議の一人となり、内外国債の整理、金本位制を導入し、十進法の「円」に改めるなど通貨制度を一新、東京神戸間の鉄道建設にも着手する。
 1873年、征韓論(明治のはじめ、武力を用いて朝鮮を開国させようとした主張)が決裂した時、重信は同じ佐賀藩の副島、江藤とは行動を共にせず、閣内に留まった。 学んで内包(ないほう)したものが、彼らと質(しつ)を異にしていたといえる。
 1881年、国会開設の意見書を提出して薩長勢力と対立、ついに参議を解任された。 「明治14年の政変」 である。 翌年、立憲改進党結成して党首となり、英国を手本に言論の政治を目指す。
 その秋、早稲田大学の前身・東京専門学校を設立、新しい国、時代に備える人材の育成に乗り出した。 時に44歳。
 1888年、黒田内閣の外務大臣として入閣、不平等条約改正に全力を傾けるが、不満を持つ暴徒に爆弾を投じられ、右脚を失う。
 しかもなお不屈である。1895年進歩党を作り、一大野党勢力を結集した。 翌年、松方内閣の外務大臣として入閣、27・8年戦役の終戦処理に当たる。
 第一次大隈内閣の組閣は1898年である。 「隈板内閣」 と呼ばれ寿命は短かったが、日本憲政史上初の政党内閣として歴史を刻んだ。 佐賀が生んだ総理大臣である。 1902年、東京専門学校を早稲田大学に改め、1907年総長に就任する。
 時代は再び重信を求める。 1914年、76歳で再び内閣を組閣。 二年の首相在任中は第一次世界大戦開戦という難局にも遭遇する。
 1922年1月、84歳をもって世を去る。 17日東京で行われた国民葬には、150万人が参列、英明な魂を悼んだ。
 時代は人が作る。 人は学んで作られる。 重信は絶えず人に呼びかけ、学ぶことを諭した。 「あるんであるんである」 という有名な演説の口調がそれを象徴する。 「民衆政治家 」重信は、今も 「民衆」 に朗々と呼びかける、「たえず学び、たえず行え」と
                      1988年(昭和63年)4月
                            大隈重信候銅像建設期成会

【ミニ知識】 隈板内閣 
 第八代 第一次大隈重信内閣 
 明治31(1898)年6月31日〜明治31(1898)年11月8日 132日間
  総理大臣兼外務大臣 大隈重信(進歩派)
  内務大臣         板垣退助(自由派)
  大蔵大臣         松田正久(自由派)
  文部大臣         尾崎行雄(自由派)(120日)
                 犬養 毅(進歩派)(  12日)
 憲政党は自由党と進歩党の合同によって成立した政党であるため、内部において自由派と進歩派の反目嫉視が絶えなかったのです。

 撮影後記 佐賀県の旅 佐賀市編を18回に渡って写真展示しました。 今回の写真撮影に当たって事前に佐賀市役所 観光・文化課より資料を送付して戴きました。 その資料の中で 「佐賀城下町見て歩き」 を見ながらの撮影でした。 その一枚のリーフレットにはコースが3コース設定されています。 々蠱璽魁璽后複僑襭蹇 長崎街道コース(6km) F餐銚機高伝寺コース(3km)の計15kmです。 3コースを一日で徒歩と一部タクシーを使って撮影してきました。 撮影した日は生憎一日小雨模様でカメラを庇いながらの撮影で今から思うと大変でした。 その時は夢中で見るのも聞くものが新しい発見で勉強になり充実した一日を過ごすことができました。 ご協力して戴いた皆さんありがとう御座いました。
| 佐賀・佐賀の旅 | 19:32 | comments(4) | - |
佐賀県の旅(18) 佐賀市その17 高伝寺
高伝寺本堂
天文21(1552)年に創建された高伝寺(こうでんじ)本堂です。
八太郎槙
本堂の前庭にある八太郎槙、大隈重信の幼名を冠したもの。 少年の頃、父母に伴われて来れば必ずこの槙に登って遊んだそうです。佐賀の名木 「イヌマキ」 樹齢600年
鍋島藩祖 加賀守直茂公の墓
鍋島藩祖 加賀守直茂公の墓 右側の自然石は直茂公継室(けいしつ;後妻)陽泰院の墓石 この自然石はいつの頃からか太閤(秀吉)に従って朝鮮へ出陣した際、戦場で一夜の枕石としたものといわれています。(掲示板より)
鍋島初代藩主 信濃守勝茂公の墓
鍋島初代藩主 信濃守勝茂公の墓(中央)
政家公の墓
17代龍造寺肥前守政家公の墓です。 
 ここの墓所は、明治4年(1871)に鍋島家当主直大が各地に散在していた龍造寺家並びに鍋島家の墓を改葬し、整備したものです。 龍造寺家の墓塔が10基が東側に、鍋島家の墓塔16基が西に整然と並んでいます。 墓域は明るくて広く、独特の雰囲気と調和の美を表わしていて、一種の墓地公園のようです。 近世の墓塔の変遷や佐賀の近世史を研究する上からも資料的価値が高いものです。(佐賀市史跡)
高伝寺の梅
さが名木100選 高伝寺の梅老紅梅 「霊徳寿梅」 樹齢凡そ400年 樹高4.5m、幹廻り1.8m 今は枯れ木にしか見えませんが、2月にはきれいな花が咲きます。
公園墓地
公園墓地
墓地内は公園のごとく整備されています。高伝寺は梅の名所でもあります。

 高伝寺は、樹齢凡そ400年の老紅梅 「霊徳寿梅」 を代表とする梅の名所として名高い曹洞宗の禅寺です。 天文21(1522)年に鍋島清房によって創建されました。
 明治4(1871)年には佐賀藩最後の藩主鍋島直大が、散在している鍋島家先祖の墓と、戦国時代に佐賀を治めていた龍造寺家の墓をここに集めて整備しました。
 毎年4月19日と20日に行われる釈迦堂祭では、15m×6mの大涅槃像が開帳されます。 2月には紅梅と白梅が美しく咲き誇り、多くの見物客が訪れます。
| 佐賀・佐賀の旅 | 19:22 | comments(0) | - |
佐賀県の旅(17) 佐賀市その16 本行寺
本行寺本堂
本行寺本堂です。
江藤新平の墓
江藤新平の墓
右側が江藤新平のお墓、左の江藤家の墓石には、元首相の福田赳夫書とあります。
成富家の墓
成富家の墓
成富兵庫茂安の墓です。

 本行寺(ほんぎょうじ)は、永正年間、龍造寺胤家創建の日蓮宗寺院、江藤新平や成富兵庫茂安の墓があります。 江藤新平は江戸遷都論を首唱し、文部省の創設を実施し、司法権の独立を立案しました。 成富兵庫茂安は治水事業の功労者。 また、築城にも業績があります。 寺には毘沙門天像があり市指定文化財になっています。

【ミニ知識】 成富 兵庫茂安(なりどみ ひょうごしげやす)
 1560年(永禄3年)〜1634年(寛永11年)
 成富兵庫茂安は、現在の佐賀市鍋島町に生まれ、堤防、井樋、用水路、ため池など100数ヵ所の事業に携わり、佐賀の農業用水や飲料水を導くための利水開発や洪水防止の事業を進め、治水の神様と呼ばれました。
 茂安が築造した施設の中で、日本最古の取水施設とされているのが「石井樋」です。 約400年前、佐賀城ができた頃、佐賀藩では、生活用水や農業用水として多くの水が使われるようになっていました。
 佐賀平野には嘉瀬川という大きな川が流れており、そこから分かれる多布施川を通して佐賀城下に水を運んでいました。 多布施川への水は、嘉瀬川に井ぜきを造って流れ込むようにしていましたが、大雨が降ったり台風が来たりすると、嘉瀬川はたびたび大水となり、井ぜきが壊されることもありました。 このため、田や畑には、井ぜきからの水の取り入れができなくなり、農民たちは水不足に苦しみました。
 そこで茂安は 「嘉瀬川の水を大井手(堰)で止め、『象の鼻』、『天狗の鼻』と呼ばれる突堤で水の流れをゆるやかにし、土砂を沈ませ、きれいな水だけを多布施川に取り入れる」、という仕組みをもった 「石井樋」 という施設を考え、農民と共に建築しました。 これによって洪水被害も治まり、田畑に必要な水量も確保でき、農作物の収穫も安定していきました。(佐賀県のHPより引用)

  成富兵庫茂安公が造った主な事業
   ・千栗(ちくり)の堤防・・・筑後川  ・蛤(はまぐり)水道・・・田手川
   ・石井樋(いしいび)・・・多布施川  ・波佐間(はざま)水道・・・多久川
   ・永池(ながいけ)の堤・・・北方町  ・桃の川水路・・・松浦川
| 佐賀・佐賀の旅 | 19:03 | comments(0) | - |
佐賀県の旅(16) 佐賀市その15 佐賀県立博物館・美術館
博物館・美術館
この建物は佐賀県立博物館です。 隣接して美術館があります。

 博物館・・・昭和45年に明治百年事業として開館以来、自然史・考古・歴史・美術・工芸・民俗の各分野にわたり、収集してきた資料を調査・研究し、これら各部門の数多くの資料を常設展 「佐賀県の歴史と文化」 の中で展示・紹介し、広く県民の教育・文化の向上に資する(しする;役立てる)ことをめざしています。

 美術館・・・昭和58年に県政100年事業として博物館に隣接して開館しました。 主に佐賀県にゆかりのある近・現代の絵画・彫刻・工芸・書などの資料を収集し、それらの調査・研究と展示、紹介を行うことにより、佐賀県の文化活動の拠点として機能し、広く親しまれる美術館となることをめざしています。

 今回は時間がなく、外観だけの撮影で終わりましたが、次回、佐賀県を知る上で拝観したいと思っています。ちなみに博物館・美術館とも拝観料は無料です。
| 佐賀・佐賀の旅 | 19:02 | comments(0) | - |
佐賀県の旅(15) 佐賀市その14 水月寺 そして 『葉隠』 成立
水月寺
石田一鼎の墓
石田一鼎(いしだ いってい)の墓がある 「水月寺」 です。

 石田一鼎から教えを受けた一人として 『葉隠』 の口述者 「山本常朝:やまもと じょうちょう」 がいます。 佐賀藩士山本常朝は、第2代藩主鍋島光茂(みつしげ)に仕えた人で、光茂の死にあったとき直ちに殉死しょうとしたが、殉死はかたく光茂に禁じられていたので、出家してこの地(市内金立町黒土原)に草庵を結び隠棲した。
 「葉隠」 は、田代陣基(たしろ つらもと)が、宝永7年から享保元年(1710〜1716)の間に、常朝の談話を聞書したもので、その記録は11巻に及んでいる。
 「武士道というは死ぬ事と見付けたり」 という有名な言葉にみられるように、没我的・献身的な態度で事に当たるべきことを説き、主君への忠誠を第一義のものとし、身近かな事例を引用しながら、武士道精神をやさしく説いたもので、佐賀藩における武士の修養書として重んじられた。
 「葉隠論語」 ・ 「鍋島論語」 などとよばれて、佐賀藩士に大きな感化を及ぼし、明治維新に功のあった鍋島直正(なべしま なおまさ)・大隈重信(おおくま しげのぶ)・佐野常民(さの つねたみ)・副島種臣(そえじま たねおみ)・大木喬任(おおき たかとう)・江藤新平(えとう しんぺい)・島義勇(しま よしたけ)らは、皆この教えをうけている。
 黒土原には、常朝の遺徳をしのぶ人々によって葉隠垂訓碑が建てられており、墓所は佐賀市八戸の龍雲寺にある。(郷土資料事典より引用)
       ---------------------------------------------------------
              葉 隠 四 誓 願
         1. 武士道に於ておくれとり申すまじきこと
         1. 主君の御用に立つべきこと
         1. 親に孝行仕るべきこと
         1. 大慈悲を起し、人の為になるべきこと

       ------------------------------------------------------------

 佐賀市教育委員会による 『葉隠』 の成立、と題した掲示板が龍雲寺にあります。 その内容を記載します。 葉隠の理解に役立てば幸いです。
     
                  『葉 隠』 の成立
 元禄十三年(1700)五月十六日、佐賀藩の二代藩主だった鍋島光茂が、六十九歳で亡くなります。
 すると、その時、九歳の時から光茂の小僧として仕えはじめ、御書物役手伝・御小姓役・御書物役・京都役などを勤め、主として光茂のお側近くに長い間仕えてきた山本神右衛門常朝(四十二歳)は、許しを受け剃髪して出家し 「旭山常朝:ぎょくざん じょうちょう」 または 「常朝」 と称しました。
 やがて光茂の四十九日の法要が済むや、佐賀の北部、金立山麓の黒土原の草庵に隠棲します。
 常朝は、光茂の菩提を弔いながら、当時の佐賀藩の士風が著しく衰退しつつあるのを深く憂いていました。 いろいろの書物(かきもの)をして、身近な限られた若い人々に伝えつつあった時に、常朝の草庵を田代陣基(たしろ つらもと)が訪ねて来ました。
 田代陣基は、黒土原の庵で足掛け四年、常朝が大小隈(だいしょうぐま)の庵に移ってからも三年間、合わせて七年にわたり常朝の話を聞き書きし、それらのほかに、常朝以外の多くの人々から聞いた話や、自分自身で調べたいろいろのことがらも書き加えて十一巻にまとめ上げたのが 「葉隠」 です。 その成立は享保元年(1716)であったろうと言われています。
                             平成十三年三月 佐賀市教育委員会

  葉隠聞書(ききがき)の形成に最も重要な人物
   ・葉隠の成り立ちや内容に深い関係の四人の人物
    〇核 常朝・・・・・葉隠の口述者
    田代 陣基・・・・・筆録者
    石田 一鼎・・・・・常朝が教えを受けた人
    っ港 和尚・・・・・常朝に影響を与えた人
   この四人は、「葉隠四哲」 と称されています。
| 佐賀・佐賀の旅 | 19:15 | comments(0) | - |
佐賀県の旅(14) 佐賀市その13 藩祖・鍋島直茂 生誕地
藩祖 鍋島直茂 生誕地
藩祖・鍋島直茂 生誕地
藩祖・鍋島直茂 生誕地
佐賀市史跡 鍋島直茂生誕地

 佐賀藩藩祖・鍋島直茂(天文7年・1538〜元和4年・1618)は、清房の二男としてこの地本庄館で生まれた。 母は、龍造寺家純(隆信の祖父)の娘。 現在、胞衣(えな;胎児を包んだ膜と胎盤)塚だけが残っている。 幼名は彦法師丸、信安、信昌または信生(のぶなり)、天正17年(1589)従五位下に叙され、加賀守となり、直茂と改めた。 戦国武将・龍造寺隆信のもとで武功を重ねた。
 元亀元年(1570)、豊後の大友義鎮(宗麟)の佐賀城攻略に際し、今山(大和町)に布陣した大友勢を直茂の果敢な働きで、敗退させた。
 天正12年(1584)、龍造寺隆信が島原の戦いで戦死すると龍造寺氏の領国の取締まりに当った。 慶長12年(1607)、龍造寺政家・高房の死後、多布施に隠居し家督を嫡子勝茂(佐賀藩初代藩主)に譲った。 81歳で死す。 法名高伝寺殿日峰宗智大居士。(掲示板より)
| 佐賀・佐賀の旅 | 19:30 | comments(0) | - |
佐賀県の旅(13) 佐賀市その12 大木喬任生誕地
大木喬任生誕地記念碑
佐賀市水ヶ江三丁目の大木公園内ある大木喬任(おおき たかとう)記念碑です。
大木喬任生誕地
大木喬任生誕地にある掲示板です。

 佐賀七賢人の一人、大木喬任の生誕地です。 明治政府以後、東京府知事、民部、文部、司法卿を歴任し、初代文部卿として、学制・学校令・教育勅語など、現在の教育体制の整備に力を注いだ偉大な方です。
| 佐賀・佐賀の旅 | 19:20 | comments(0) | - |
佐賀県の旅(12) 佐賀市その11 龍造寺隆信生誕地
龍造寺隆信生誕地
佐賀市中の館町に建つ 「龍造寺隆公信碑」 です。
戦国時代、肥前肥後、筑前筑後、豊前の五国と壱岐対馬の二島の大守となり、島津、大友氏をしのいだ武将の生誕地です。 写真の左中央に胞衣(えな;胎児を包んだ膜と胎盤)塚があります。
龍造寺隆信生誕地
巨大な記念碑の前に設置されている掲示板です。

 もう一枚の掲示板には次のように書かれています。
           龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)生誕地
 龍造寺隆信、1529(享禄2年)〜1584(天正12年)は、水ヶ江城のあったこの地に生まれ18才で宗家の村中城主をついだ。 1570(元亀元年)大友宗麟軍8万に攻められたが、5千の軍でこれに対し、今山(大和町)の敵陣を夜襲、攻め手の総大将大友親貞を討ち取り、窮地を脱した。
 これより10年、各地の合戦に連勝し肥前、筑前、筑後の全て、肥後、豊前の大半、それに壱岐、対馬を支配、五州二島の大守とうたわれ、傑出した武略をもって島津とともに九州に覇をとなえた。 天正12年有馬晴信(はるのぶ)の反乱にあい、みずから島原半島に出陣したが、有馬軍を援けた島津軍に討たれて没した。
| 佐賀・佐賀の旅 | 19:07 | comments(0) | - |
佐賀県の旅(11) 佐賀市その10 副島種臣生誕地
副島種臣生誕地
佐賀市鬼丸町にあります 「副島種臣」 生誕地の石碑です。
副島種臣生誕地
生誕地の掲示板です。

 佐賀県が誇る七賢人の一人、副島種臣(そえじま たねおみ)の生誕地石碑です。
副島種臣は日本史事典と広辞苑に次のように紹介されています。

 <日本史事典>
 1828〜1905
 明治時代の政治家
肥前藩出身。伯爵。1868年、明治新政府に出仕し参与・参議となり、政体書を起草。1871年外務卿となり、日清修好条規の締結、征台の役の解決に尽力した。1873年征韓論で下野し、民撰議院設立建白書に署名(民権運動には参加しなかった)。のち松方正義内閣の内相をつとめた。

 <広辞苑>
 幕末・明治期の政治家。蒼海と号。佐賀藩士。幕末、志士として活動。維新後参議となり、外務卿在任中マリア-ルーズ号事件の解決にあたる。征韓論を主張して下野。
のち枢密顧問官・内相など。漢詩・書を能くした。伯爵。(1828〜1905)


| 佐賀・佐賀の旅 | 19:30 | comments(0) | - |
佐賀県の旅(10) 佐賀市その9 徴古館と弘道館跡
徴古館
 この建物は徴古館(ちょうこかん)と言います。 昭和2年、佐賀県における初めての歴史博物館として12代当主鍋島直映(なおみつ)公によって創設されました。 佐賀藩主、肥前鍋島家伝来の資料を展示する博物館です。 建物は国の登録有形文化財に指定されています。 年に4、5回の企画展示のみ入館でき、貴重な展示品を見ることができます。 現在は 「鍋島家伝来 武具甲冑展」 が11月24日まで開催中です。
 また、毎年ひなまつりの時期には 「佐賀城下ひなまつり」 として各会場で 「ひなまつり」 の展示があります。 当徴古館でも鍋島家歴代夫人たちの所用品を中心に貴重な雛人形や雛道具など約550点が展示されます。

弘道館跡
 この記念碑は大正12年に「弘道館跡」に建設されたものです。 佐賀藩の藩校として栄えた弘道館は、天明2年(1782)、8代藩主鍋島治茂(はるしげ)によって創設されたもので、寛政三博士の一人に数えられた名儒古賀精里(こが せいり)が初代教授に任ぜられています。 以来この藩校は幾多の人材を輩出し、明治時代に活躍した副島種臣(そえじま たねおみ)・大木喬任(おおき たかとう)・佐野常民(さの つねたみ)・大隈重信(おおくま しげのぶ)・江藤新平(えとう しんぺい)らもここの出身者です。
 開館以来80余年間続きましたが、明治4年の学制変革によって廃止されました。
| 佐賀・佐賀の旅 | 19:02 | comments(0) | - |
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