質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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伊豆下田の旅(55) 吉田松陰拘禁之跡
吉田松陰拘禁之跡
掲示板です。

  幕末の志士・吉田松蔭は弟子の金子重輔とペリー艦隊で密航を企てるも失敗し自首、下田奉行所によってこの場所 長命寺(廃寺 現在は下田市立中央公民館・下田市教育委員会館)に拘禁(捕らえられて留めおくこと)されました。 更に平滑(ひらなめ)の獄に移され、その後江戸伝馬町の獄に送られました。 松蔭ら二人が下田に滞在した期間は24日の短いものでした。
  下田で松蔭ら二人が11日間拘禁された平滑の獄が 「下田開国博物館」 に再現されています。ちなみに博物館の駐車場は平滑の獄の跡です。
  下田には吉田松陰に関する史跡が数多く残されています。 前回の吉田松陰寓寄処、弁天島には「踏海の朝」像など、松蔭を研究するには一度は足を運ばれることをお勧めします。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:12 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(54) 吉田松陰寓寄処
吉田松陰寓寄処
下田市蓮台寺にあります 「吉田松陰寓寄処(よしだしょういん ぐうきしょ)」 です。
隠れの間
隠れの間説明文
二階にあります 「隠れの間」 です。
お風呂
皮膚病の治療をしたお風呂です。
吉田松陰肖像画
吉田松陰25歳の肖像画と上の額は士規七則(松蔭書)の複製です。

  ここは吉田松陰寓寄処です。(昭和16年10月27日指定 静岡県史跡) 掲示板に以下の如く書いてあります。
  嘉永7年(1854)3月18日、米国ペリー艦隊を追って下田に到着した吉田松陰、金子重輔(かねこ じゅうすけ)は役人の目を逃れるため、それぞれ瓜中万二、市木公太と名を変え岡方村(現在の下田市4丁目付近)の岡村屋に宿泊し、米艦に便乗しての海外密航の機会をうかがっていた。
  当時皮膚病を患っていた松蔭は、温泉による治療のため、この蓮台寺を訪れ、向い側にある共同湯(上の湯)で夜を明かそうとしていた。 そこで偶然この家の主、村山行馬朗(むらやま ぎょうまろう)医師と知り合い、その好意によりしばらく村山邸に身を寄せることになった。  松蔭等は3月27日深夜、柿崎の弁天島付近から小船を出し米艦に漕ぎつけて便乗を懇請したが断られた。
  企ての発覚を覚悟した松蔭はいさぎよく自首し捕らわれの身となり、4月11日唐丸籠(罪人の護送に用いた竹籠)で天城山を越え、江戸伝馬町の獄へ送られた。
  この村山邸は、松蔭の居間として使われた二階の天井の低い部屋(隠れ間と言われる)や、掘り下げられた内湯の浴槽がそのまま保存され、松蔭が使ったと伝えられる机や硯箱とともに、幕末開港時の秘話の舞台となった松蔭隠れ家の面影を残している。      平成8年3月 下田市教育委員会

【ミニ知識】
  吉田松陰(1830─1859)・・・長門国(現在の山口県西・北部)萩松本村で長州藩下級武士の子として生まれた。 幼少より秀で、日本の伝統的学問を修め、後に洋学を学ぶ。 佐久間象山に傾倒、幕末の日本のおかれた状況に憂慮し、国内にあっては諸外国の圧力に対する準備をし、同時に外国の事情を知ることが急務と考えた。
  嘉永6年(1853)、長崎に来航中の露艦で密航を企図するも果たさず、翌年下田に来航したアメリカペリー艦隊に金子重輔とともに渡航を企てたが、渡米は日本の法律で禁じられていたためペリーに拒まれ、姉崎海岸に送りかえされる。 志敗れ自首、一時長命寺に拘禁され、更に下田の平滑の牢に入れられたが、江戸送り後、郷里の萩の獄舎に監禁される。 一時軟禁になり、松下村塾で教えたが、安政6年(1859)江戸伝馬町の獄で処刑、30才であった。 しかし、門下からは高杉晋作、伊藤博文、山県有朋(やまがた ありとも)ら明治維新に活躍した人物を輩出、その思想的影響は後世に伝わった。(吉田松陰寓寄処より戴いた資料より引用)

  現在、吉田松陰に関する本を読んでいます。 松蔭は頭脳明晰で、11歳の時、藩主毛利敬親(もうり たかちか)に 「武教全書」 を講じています。 幕末の当時、日本で一番旅をし見聞をメモした人とも言われています。情熱と好奇心が旺盛でしかも行動力があります。ここ寓寄処では松蔭先生と呼ばれ尊敬されています。私も松蔭先生の一生懸命に生きる姿を学びたいと思っています。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:13 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(53) お吉、最期の地 「お吉ヶ淵」
お吉ヶ淵にあります祠です。
お吉ヶ淵にあります祠です。
唐人お吉投身之跡です。
唐人お吉投身之跡です。 明治24年3月25日、門栗ヶ淵(現在のお吉ヶ淵)に身を投げました。 51年の短い生涯でした。
身を投げた稲生沢川の淵です。
現在淵は残っていませんが、池のある小公園になっています。 鯉が泳いでいます。
毎年3月27日に 「お吉まつり」 があり、芸妓衆による供養が行われ、池に花をささげ、鯉がはなされます。
現在の稲生沢川です。
現在の稲生沢川です。釣り人の姿も見られます。
お吉地蔵です。
  このお吉地蔵は、故新渡戸稲造博士(1862─1933 旧五千円札の肖像画の人)の篤志によって昭和8年8月に建立されたものです。 博士は幕末開港の陰に一輪の花と咲いた薄命の佳人、唐人お吉の大の同情者の一人でありました。 たまたま昭和8年7月16日に、このお吉ヶ淵に詣でお吉の霊を懇ろに慰めるとともに 「お吉地蔵」 の建立を思いたったのでした。 地蔵尊の背面には、博士の母堂の命日にあたる昭和8年7月17日とだけ刻まれてありましたが、今では摩滅して定かではありません。 博士はこの地蔵尊の姿を見ないまま、第五回太平洋問題会議に日本側の理事長として出席中、昭和8年10月15日にカナダで病に倒れ、71歳の生涯を閉じました。
       から艸(くさ)の浮名の下に枯れはてし
                       君が心は大和撫子
    お吉思いのこの歌は、博士の奥ゆかしい心情が偲ばれます。
                             下田市・下田市観光協会

  このお吉ヶ淵は伊豆急下田駅の一つ手前「蓮台寺駅」から徒歩約10分のところにあります。 ここは春の桜の隠れ名所になっています。 花見がてらお出かけ下さい。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:10 | comments(2) | - |
伊豆下田の旅(52) 安直楼その2
安直楼の全景
安直楼の全景です。ノレンがでています。
一階部分です。
一階部分です。7年前に寿司屋を廃業、二階にお吉の遺品が展示されています。
二階床の間です。
二階にあります床の間です。
ありし日の唐人お吉です。
二階展示室にかかっている、お吉若き日の肖像画です。
ありし日の唐人お吉です。
お吉晩年の肖像画です。
唐人お吉愛用の品々です。
お吉の愛用の品々です。
お吉人生-1
お吉の人生-2
お吉の人生-3
お吉の人生-4
お吉の人生-5
お吉の人生が10枚の絵画でつづられています。悲しい結末で終わります。

  前回撮影した時は休業日でしたが、今回はノレンがでていましたので拝観してきました。 寿司屋の方は7年前に廃業し、現在はお吉の遺品が展示されています。 
  絵画には鶴松との楽しい一時から黒船来航、唐人お吉となり最後は世を儚み入水する悲しいストリーが描かれています。 お吉はこの部屋でどんな思いで過ごしたのでしょうか、心さびしい日々を過ごしたことと思います。 お国のためとはいえあまりにも悲しい物語です。
 尚、安直楼は 8/9伊豆下田の旅(38)、宝福寺と唐人お吉記念館は 8/8伊豆下田の旅(37)をご参照下さい。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:21 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(41) カノン砲と錨
カノン砲
1837年製のカノン砲です。
米国海軍より贈呈の錨
贈呈の表示板です。
第50回黒船祭を記念して米国海軍から贈呈された錨です。 カノン砲と錨は下田市民文化会館にあります。
八幡神社の迎神の松です。
下田八幡神社の鳥居の前に植えられている 「迎神の松」 です。

  了仙寺や下田開国博物館を拝観と撮影をした後、 伊豆急下田駅に向かって 「まいまい通り」 を散策。 下田市民文化会館の前に 「1837年製のカノン砲」 と 「第50回黒船祭を記念して米国海軍より贈呈された錨」 が展示されていました。
  また隣接の下田八幡神社鳥居の前には立派な老松があり 石碑に 「迎神の松」 と書いてあります。 神を迎える厳かな松です。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:11 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(39) 稲田寺
稲田寺
稲田寺山門です。
稲田寺本堂
稲田寺本堂です。
あじさいがきれいでした。
満開のあじさいです。
ガクアジサイがきれいです。
満開のガクアジサイです。
本堂の前にきれいなアジサイが満開でした。(6月21日撮影)

  このお寺は 「稲田寺;とうでんじ」 です。 最初お寺の読み方がわからず “いなだじ” と読んでいましたが、 “とうでんじ” が正解でした。
  下田市では数少ない浄土宗のお寺です。 お吉の恋人(元夫)の 「鶴松」 のお墓があるお寺です。 生前の鶴松は性格温順で酒も飲まず煙草の吸わない器用な船大工職人であったといいます。
  領事ハリスの侍妾として仕えたお吉と後年、 旧情を温め仲むつまじく同棲(結婚)したのも束の間の4年ほどでありました。 明治8年 故あって離婚すると鶴松は翌年に急死しました(お吉35才)。 お吉は鶴松が大好きだった山桃を泣きながら墓前に供え冥福を祈っていたといいます。
(HPバスガイドがかたる「唐人お吉」の世界を訪ねてより引用)

お寺の掲示版には次のように記されています。
  山門を入って右側の阿弥陀堂に平安時代後期の阿弥陀如来坐像 (下田市指定文化財) が安置されている。 大浦にあった稲田寺末庵の西向院から移された客仏である。 檜材の寄木造りで、 像高は208cmの南伊豆には例をみない大像である。 近世の補修もみられるが、 丸顔の穏やかな面相やゆるやか肉どりは定朝様式の典型的な作風を示している。 後世の作と思われる観音・勢至菩薩を両脇に従え、 三尊形式をつくっている。
  幕末開港時には、 ロシア使節プチャーチンとの交渉に当たった応接掛 川路聖謨の宿舎となり、 その後下田奉行伊沢美作守が宿舎とし、 安政の東海地震・津浪(1854)後ここ稲田寺は仮奉行所ともなった。
  なお、 山門を入って左側には、 安政の東海地震(1854) 後の大津浪で犠牲となった人達を供養する 津なみ塚 が建立されている。 また、 お吉の夫となった川井又五郎(幼名鶴松) の墓もみられる。   下田市

  この寺は伊豆急下田駅から歩いて5分のところにあります。 お吉の恋人(元夫)鶴松のお墓があるとの情報で参拝してきました。 今頃、あの世でお吉と鶴松は誰にも蔑まれることなく穏やかに過ごしていることと思います。 本堂の前にアジサイの一群が満開でした。

| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:25 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(38) 安直楼
安直楼

「お吉」が小料理屋を営んだ建物 「安直楼;あんちょくろう」 です。
この建物には2枚の掲示板が掲げてあります。

安直楼
  米国総領事ハリスに仕えた「お吉」が1882年に、小料理屋を営んだ建物である。
1857年、恋人鶴松との仲を裂かれて領事館に出仕したお吉は、以後、町の人達から「唐人お吉」と蔑まれ、酒に浸って、やがて姿を消す。
  年月を経て、当家 「安直楼」 を開業したが、自ら酒に溺れて数年で店をたたむ。幕末開港の陰に咲いた一輪の花、お吉は1890年、稲生沢川に身をなげてそのはかない生涯を閉じた、48歳であった。
  なお、当家には、お吉の愛用の遺品も保存されている。   下田市

史跡「安直楼」
  この建物は唐人お吉が明治15年より料亭 「安直楼」 を経営した店でお吉の没後当店が寿司店を開業。 以来三代108年に渡り営業を続けて参りましたが、 現在下田市の歴史建造物(史跡)として皆様方の見学に供しております。
  二階には安直楼当時の客間と遺品なども保存してありますのでどうぞお気軽にお入り下さい。 安直楼当時の雰囲気に浸るのも一興かと存じます   (主人敬白)

  下田歴史の散歩道のコースにも選ばれている安直楼は、 明治時代に建てられた 「なまこ壁」 の建物です。 もともとはお吉こと斉藤きちが、幼なじみの鶴松と結婚した後に始めた小料理屋で 「安直に飲めるように」 ということからその名が付いたといわれています。 建物は当時のままで、現在も一階では下田最古の寿司屋として営業しており、 二階は資料室としてお吉が愛用していた三味線などが一般公開されています。(ゆうゆうネット伊豆より)

  私が撮影した日は丁度お店が休業日にあたり、 中の様子や展示品を見ることができませんでした。 お吉が幼なじみの鶴松と結婚した後に始めた小料理屋 「安直楼」 でしたが、安寧な日は訪れなかったのでしょうか、身も心も疲れはて数年で廃業。人生の歯車が狂ってしまったのです。 その後お吉はぼろぼろになって哀しい終幕をむかえるのです。 知れば知るほど切ない思いになります。

 再度訪れました安直楼はこちらで写真展示しております。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 17:44 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(37) 宝福寺と唐人お吉記念館
宝福寺
唐人お吉のお墓と記念館のある 「宝福寺」 です。
唐人お吉展示場
記念館内にある 「唐人お吉展示場」 です。
  説明文にはこのように書いてあります。 唐人お吉 下田港を背景としたハリス領事の愛人唐人お吉の姿、彼女十八歳の似顔で、生前着用の長襦袢の実物を着ている。その横の乗物は下田宝福寺出品のお吉生前使用のものである。江戸末期の風俗ではあるが米国文化の輸(うつ)されるれいめい期である。
了仙寺の本堂に展示してある通い駕篭
了仙寺本堂に展示されています 「唐人お吉 領事館通い駕籠」 です。
お吉塚
了仙寺の境内にある 「お吉塚」 です。
お吉の写真です。
唐人お吉記念館のリーフレットに掲載されています、お吉19才の時の写真です。

《唐人 お吉 本名:斉藤きち》
  天保12年(1841)11月10日 愛知県知多郡内海の船大工、市兵衛(いちべえ)の二女として生まれた。お吉が7才の時、村山せんという遊芸に優れた裕福なお婆さんに、可愛い顔立ちと綺麗な声を見込まれ、養女として貰われました。
  読み書きお裁縫はもとより、踊りや歌は、この人にみっちり仕込まれたので、子供の時からお吉の芸は、下田の人の世間話にのる程でした。昔から、芸のある町娘が好んで芸者になる下田の風習で、お吉も14才の春この道に入りました。下田の芸妓の気風に合った勝気と仕込まれた芸、艶やかな姿は、たちまち下田の花とうたわれ、新内の明烏が特に上手でしたので「新内のお吉」「明烏のお吉」と呼ばれ、もてはやされておりました。ところが、安政2年の大地震によって両親や養母のせんを亡くし天涯孤独の身となってしまいます。こうした時に力づけてくれたのが幼馴染みの船大工 鶴松で、二人は将来を誓い合う仲となったのです。
  安政3年、お吉17才の春、提督兼領事として下田・柿崎の玉泉寺(ぎょくせんじ)に駐在したアメリカ人タウンゼント・ハリスがお吉を見初めて、是非、妾にと望んだのございます。お吉は鶴松との約束もありキッパリと断りましたが、情けに厚い役人、伊佐新次郎の武士の身分を省みない必死の説得に負け、とうとう承知をしてしまいました。
  こうして開国の歴史の裏に、涙とともに咲いた花 「唐人お吉」 の名が生まれたのでございます。ハリス領事の、アメリカ紳士としての思いやりと、外交の苦労を見て、これにほだされたお吉のこまやかな心遣いは、領事と幕府の話し合いに、和やかな雰囲気をもたらし、それからの外交がすらすらと進みましたことは申すまでもありません。
  仕えること一年、領事達の帰国後、「唐人お吉」の肩書きに世の風は冷たく、やけ酒をあおる日々が続き、その後、三島・江戸と流れて下田に戻り、鶴松と暮らし髪結業をはじめますが、ほどなく離婚。さらに小料理屋 「安直楼;あんちょくろう」 を開業しますが、2年後に廃業しています。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑≪これは人種的偏見ばかりではなく、支度金25両(現在の貨幣価値で約150万)、年棒120両(約720万)をお吉が受け取ったことに対する嫉妬もふくまれる≫をあびながら貧困の中に身をもちくずし、とうとう明治24年3月27日の豪雨の夜、下田在稲生沢川・門栗の淵に身を投げ、自らの命を絶ってしまいました。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕でした。
  お吉は身よりもなく、宝福寺15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名 「釈貞観尼;しゃくじょうかんに」 を贈り、当寺境内に厚く葬り、その後芸能人水谷八重子さんらにより新しい墓石も寄進され現在に至っています。
(HPのバスガイドが語る唐人お吉の世界を訪ねて・お吉〜知多の女〜・宝福寺おきちの墓の由来などを引用させてもらい作成しました)

  私はこの宝福寺・お吉記念館を訪ねるまであまり 「お吉」 のことを知りませんでした。今回、時間をかけて資料や展示物を拝観させてもらいました。
  「お吉」が美貌に生まれ、安政の大地震で両親や養母を失い、黒船来航とハリスとの出会い、その後ラシャメン(洋妾)として町民の指弾を受けた波瀾万丈の一生であったことを知りました。
  色々な偶然がなければ、鶴松と貧乏ながら平凡で幸せな日々を過ごすことが出来たのではないかと思うと可哀想です。今こうして記念館に大勢の方がお見えになり、日本国の発展のために犠牲になったお吉さんの墓に合掌されているのがせめての救いです。私も心を込めて合掌してきました。
  愛読者の皆様も下田にお越しの際は、当記念館を拝観され「お吉」を偲び、日本史の一裏面を見られることをお勧めします。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:16 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(36) 下田八幡神社
下田八幡神社
下田八幡神社
下田八幡神社

  この神社は下田八幡神社です。 ペリーの従軍画家ハイネは下田の町を多く描いていますが、 その中の一つに 「下田八幡神社前の図」 があります。 その絵には八幡神社の前で一人の外国人が写生をしている。 それを周りで珍しそうに眺めている日本人たち。 赤ん坊を背負い、子供の手を引いた婦人や、 ものをねだっている子供、 それらを追い払おうとしている日本人の役人が描かれています。
  神社の歴史は古く、 正応年中 (鎌倉後期) の創建と伝えられています。 第2代下田奉行今村正長公により神社例祭が制定されたといわれ、 毎年8月14日・15日には、 下田太鼓祭りとして、 豪快な太鼓の響きと共に、 今に伝えられています。
  御神輿・御道具・太鼓台が神社を基点に次々と町へ繰り出し、 笛や三味線、 太鼓を打ち鳴らしながら一日中各通りを練り歩きます。 太鼓橋や揃い打ちなど、 見所も満載。 下田っ子の弾けるような熱気に、 観衆も思わず引き込まれる、 夏の風物詩です。 是非この夏の思い出にお出かけしてはいかがですか。
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:10 | comments(0) | - |
伊豆下田の旅(35) 欠乏所跡
欠乏所跡

  ここは市指定史跡 「欠乏所跡」 です。 掲示板に以下の如く書いてあります。

  嘉永7年(安政元年・1854) 3月に締結された日米和親条約により、 開港場となった下田では蒔 ・ 水 ・ 食料 ・ 石炭など欠乏品を入港してくる外国船に供給することになった。
  その上、 「必要な品物その他相叶うべき事は、双方談判の上、取り決め候事」 (第6条) とのあいまいな条文があったため、 ペリー艦隊が入港すると貝細工 ・ 塗料 ・ 瀬戸物 ・ 小間物 ・ 反物などがここに設けられた欠乏所で売られた。
  貿易は認められていなかったが、 欠乏品供給の名目で、事実上の貿易が開始された。 なお、 石炭は北九州から運ばれてきて、 鵜島の麓に建てられた石炭蔵に納められていた。
  役人の監督の下に、 国内の売値よりずっと高値で品物が売られ、 日米通貨の交換比率が米貨を安く評価して交易が行われた。 商人達は、 欠乏品売込人世話役 ・ 欠乏品売込人と組織化されていった。
  幕府は欠乏所売上げの3割を税として徴収したので、 公には認めなかった貿易から思わぬ利益を得ることになった。(下田市)
| 伊豆・下田(歴史)の旅 | 19:07 | comments(0) | - |
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