唐人お吉のお墓と記念館のある 「宝福寺」 です。
記念館内にある 「唐人お吉展示場」 です。
説明文にはこのように書いてあります。 唐人お吉 下田港を背景としたハリス領事の愛人唐人お吉の姿、彼女十八歳の似顔で、生前着用の長襦袢の実物を着ている。その横の乗物は下田宝福寺出品のお吉生前使用のものである。江戸末期の風俗ではあるが米国文化の輸(うつ)されるれいめい期である。
了仙寺本堂に展示されています 「唐人お吉 領事館通い駕籠」 です。
了仙寺の境内にある 「お吉塚」 です。
唐人お吉記念館のリーフレットに掲載されています、お吉19才の時の写真です。
《唐人 お吉 本名:斉藤きち》
天保12年(1841)11月10日 愛知県知多郡内海の船大工、市兵衛(いちべえ)の二女として生まれた。お吉が7才の時、村山せんという遊芸に優れた裕福なお婆さんに、可愛い顔立ちと綺麗な声を見込まれ、養女として貰われました。
読み書きお裁縫はもとより、踊りや歌は、この人にみっちり仕込まれたので、子供の時からお吉の芸は、下田の人の世間話にのる程でした。昔から、芸のある町娘が好んで芸者になる下田の風習で、お吉も14才の春この道に入りました。下田の芸妓の気風に合った勝気と仕込まれた芸、艶やかな姿は、たちまち下田の花とうたわれ、新内の明烏が特に上手でしたので「新内のお吉」「明烏のお吉」と呼ばれ、もてはやされておりました。ところが、安政2年の大地震によって両親や養母のせんを亡くし天涯孤独の身となってしまいます。こうした時に力づけてくれたのが幼馴染みの船大工 鶴松で、二人は将来を誓い合う仲となったのです。
安政3年、お吉17才の春、提督兼領事として下田・柿崎の玉泉寺(ぎょくせんじ)に駐在したアメリカ人タウンゼント・ハリスがお吉を見初めて、是非、妾にと望んだのございます。お吉は鶴松との約束もありキッパリと断りましたが、情けに厚い役人、伊佐新次郎の武士の身分を省みない必死の説得に負け、とうとう承知をしてしまいました。
こうして開国の歴史の裏に、涙とともに咲いた花 「唐人お吉」 の名が生まれたのでございます。ハリス領事の、アメリカ紳士としての思いやりと、外交の苦労を見て、これにほだされたお吉のこまやかな心遣いは、領事と幕府の話し合いに、和やかな雰囲気をもたらし、それからの外交がすらすらと進みましたことは申すまでもありません。
仕えること一年、領事達の帰国後、「唐人お吉」の肩書きに世の風は冷たく、やけ酒をあおる日々が続き、その後、三島・江戸と流れて下田に戻り、鶴松と暮らし髪結業をはじめますが、ほどなく離婚。さらに小料理屋 「安直楼;あんちょくろう」 を開業しますが、2年後に廃業しています。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑≪これは人種的偏見ばかりではなく、支度金25両(現在の貨幣価値で約150万)、年棒120両(約720万)をお吉が受け取ったことに対する嫉妬もふくまれる≫をあびながら貧困の中に身をもちくずし、とうとう明治24年3月27日の豪雨の夜、下田在稲生沢川・門栗の淵に身を投げ、自らの命を絶ってしまいました。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕でした。
お吉は身よりもなく、宝福寺15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名 「釈貞観尼;しゃくじょうかんに」 を贈り、当寺境内に厚く葬り、その後芸能人水谷八重子さんらにより新しい墓石も寄進され現在に至っています。
(HPのバスガイドが語る唐人お吉の世界を訪ねて・お吉〜知多の女〜・宝福寺おきちの墓の由来などを引用させてもらい作成しました)
私はこの宝福寺・お吉記念館を訪ねるまであまり 「お吉」 のことを知りませんでした。今回、時間をかけて資料や展示物を拝観させてもらいました。
「お吉」が美貌に生まれ、安政の大地震で両親や養母を失い、黒船来航とハリスとの出会い、その後ラシャメン(洋妾)として町民の指弾を受けた波瀾万丈の一生であったことを知りました。
色々な偶然がなければ、鶴松と貧乏ながら平凡で幸せな日々を過ごすことが出来たのではないかと思うと可哀想です。今こうして記念館に大勢の方がお見えになり、日本国の発展のために犠牲になったお吉さんの墓に合掌されているのがせめての救いです。私も心を込めて合掌してきました。
愛読者の皆様も下田にお越しの際は、当記念館を拝観され「お吉」を偲び、日本史の一裏面を見られることをお勧めします。