八幡原史跡公園に掲示されている「川中島大合戦図」
史跡公園の松林の中にたたずむ「八幡社」
八幡社御由緒
川中島古戦場八幡原
公園内に建つ「武田信玄(左)・上杉謙信(右)一騎討像」
像の傍らに立つ「風林火山」の旗
「毘」「龍」の旗
「執念の石」 武田・上杉両軍三万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄になった武田信玄をめがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隅(はらおおすみ)が、傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信をめがけて、ひと槍突きだした。苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭(さんず)をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上ってその場を狂奔し去ったため、信玄は危う虎口を免れることができた。一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隅は、傍らにあったこの石を槍で突き通したといわれる。(掲示板より)
三太刀七太刀之跡(みたちななたちのあと)
永禄4年(1561)9月10日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。上杉謙信は紺糸縅(こんいとおどし)の鎧に萌黄緞子(もえぎどんす)の胴肩衣、金の星兜に立烏帽子白妙の練絹で行人包、長光の太刀を抜き放ち、名馬放生に跨がり戦況の伸展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ信玄の本陣を強襲した。この時の武田信玄は諏訪法性の兜、黒糸縅の鎧の上に緋(ひ)の法衣、軍配を右手にもち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。この信玄をめがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。(掲示板より)
首塚(くびづか) この塚は以前は屍塚(かばねつか)と呼ばれ、1561(永禄4)年9月10日の戦いの後、武田方の海津城主 高坂弾正(こうさかだんじょう)が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(六千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。
これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。このことが乱世に咲いた美学と褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。
ここから東南へ約180mのところにも同じく大きな首塚がある。昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、現存する大きな塚は二つだけであり、小さな塚は各所に点在している。(掲示板より)
逆槐(さかさえんじゅ) 山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄4年(1561)9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍挟撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣をおいた。このとき土塁の土どめに自生の槐(えんじゅ)の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その約四百年を経てこの巨木に成長したものと伝えられる。周囲に低い土塁のあとが見えるのは、信玄本陣を示す桝形(ますがた)陣形跡である。(掲示板より)
緑豊かな公園内の風景
八幡原史跡公園(川中島古戦場)は長野市小島田町にあり、武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いの中で、永禄4年(1561)第四次合戦(八幡原の戦い)に於いて、武田軍が本陣をこの付近に置いたと伝えられます。ここでの戦いが最も激しく、副将・武田信繁、山本勘助らの勇将が戦死しました。
八幡原史跡公園には、古くからの八幡社が静かにたたずみ、境内には信玄・謙信一騎討像や三太刀七太刀之跡の碑、首塚などがあります。また、公園内には桜が植えられ、花の時期は花見客で賑わうそうです。今回、松代町から長野駅へバスで帰る途中、バス停「川中島古戦場」で下車、徒歩ですぐのところにあります。