質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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鹿児島の旅 その32 JR鹿児島駅
ボードウォーク
 ボードウォーク(しおかぜ通り) 
 北埠頭の一角に設けられた板張りの遊歩道。 ベンチに腰掛け潮風に吹かれながら、桜島フェリーの行き交う様子をのんびり眺められます。
明治天皇行幸碑
 「明治天皇行幸所船形台場」 の碑(鹿児島市小川町)
 明治5(1872)年、明治天皇が初めて行幸されたのが 「鹿児島」。 上陸に利用された新波止(しんはと)に建つ記念碑。 明治天皇は鹿児島城(鶴丸城)に入られ、島津久光らに会い、磯地区の工場群の見学も行われました。
 ちなみに、小川町埋立の行われた弘化・嘉永年間(1844〜53年)に波除としてあったものを、斉興・斉彬の時代に台場として改造したと考えられ、薩英戦争当時は大小17門の大砲が備えられました。
南風の泉
ウォーターフロントパークにある 「南風(かぜ)の泉」。 バックに見えるは山は 「桜島」。
案内板
付近の案内板。 左上に 「かごしま水族館」。
ドルフィンポート-1
ドルフィンポート-2
 ドルフィンポート 鹿児島の食材にこだわったレストランやカフェ、郷土の特産品・工芸品を扱う店などが軒を列ねるショッピングゾーン。 雄大な桜島と錦江湾を間近に望みながら足湯も楽しめます。 目の前にはウォーターフロントパークが広がり、市民の憩いの場となっています。
JR鹿児島駅
 「鹿児島駅」 駅前には鹿児島市電の 「鹿児島駅前電停」 があります。
 鹿児島駅は明治34年(1901)開業 九州の2大幹線である鹿児島本線と日豊本線双方の終点駅であり全列車が停車する駅。 当駅は 珍しく 「 上り列車しか発車しない」  駅です。 乗降人員は約3,400人/日。 ちなみに、鹿児島中央駅は約41,000人/日。
駅前市電のりば
市電のりば 「鹿児島駅前」
駅前の風景-1
駅前の風景-2
駅前の風景-3
駅前の風景-4
鹿児島駅前の風景。
JUGEMテーマ:写真

 今回で 「まち巡りバス」 ルートマップに記載されている観光地はほぼ写真展示しました。 鹿児島中央駅をスタートして、西郷隆盛像、城山、南洲公園、異人館、仙巌園、石橋記念公園、天文館など鹿児島市内を撮影。 次回より、鹿児島の旅 後半、桜島、知覧、霧島神社、指宿、枕崎を写真展示しますので見て下さい。 
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:00 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その32 いおワールドかごしま水族館
かごしま水族館-1
平成8年5月竣工した 「新波止歩道橋」 を渡り水族館へ。
かごしま水族館-2
かごしま水族館-3
エイをイメージした外観、「いおワールドかごしま水族館」。
かごしま水族館-4
2F 黒潮の海 最初に出会う水量1、500トンの黒潮大水槽では、世界最大の魚ジンベエザメやマグロ、カツオ、大型のエイ等が悠々と泳ぎ回る姿が見れます。
かごしま水族館-5
かごしま水族館-6
水槽で泳ぐ可愛い魚たち。
かごしま水族館-7
美しい映像をカメラに収めます。
かごしま水族館-8
5F 展望ホールに展示されている、世界初の謎のクジラ 「タイヘイヨウアカボウモドキ」 の全身骨格標本。
かごしま水族館-9
雄大な桜島や錦江湾を一望できる 5F展望ホール 骨格撮影中に桜島が爆発!
かごしま水族館-10
かごしま水族館-11
1F イルカ・アザラシ館で、イルカショー見学。
かごしま水族館-12
3F 特別展示・ミズクラゲの華麗な舞。
かごしま水族館-13
小魚の大群の下を悠然と泳ぐエイの姿。
かごしま水族館-14
鹿児島市本港新町にある鹿児島市立の水族館。
JUGEMテーマ:写真
 
 いおワールドかごしま水族館は、1997年5月に開館した鹿児島市立の水族館です。 「いおワールド」 は愛称、「いお」 とは鹿児島弁で魚のことです。 総事業費は約127億円。 外観はエイをイメージしたものです。
 雄大な桜島と錦江湾を目の前に望むウォーターフロントエリアにある 「いおワールドかごしま水族館」 は、黒潮のたどる南西諸島の海や鹿児島の海に暮らす魚たちを紹介。 なかでも魚の群れともに巨大なジンベエザメが悠々と泳ぐ黒潮大水槽は圧巻です。 家族づれで楽しめるお勧めの娯楽スポットです。
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:00 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その31 南九州一の繁華街・天文館
天文館-1
鹿児島市にある中心繁華街・歓楽街の総称 「天文館」。
天文館-2
天文館本通りアーケード
天文館-3
天文館 にぎわい通り
天文館-4
 天文館跡の碑 島津25代重豪が、天文観測や研究のため、1779年にここに明時館を建て、藩内の暦はすべてこの明時館から配布し、薩摩暦とか鹿児島暦といわれました。 明時館は別名天文館とも呼ばれ、現在の繁華街天文館の名は、ここから由来しています。 この付近は当時、石垣をめぐらした武家屋敷や迎賓館にあたる御着屋、花岡屋敷などがありました。
天文館-5
 時標(ときしるべ)5 「重豪、薩摩の科学技術の礎を築く」
 安永8(1779)年、島津家第25代当主島津重豪(しげひで)は天文台の明時館(天文館)を設置し、薩摩暦を作成しました。 重豪はそのほかにも藩校造士館や医学院などを創設しました。 その先進性は第28代斉彬に継承され、明治維新への基礎を築きました。 重豪は自らも家臣(水間良実)と共に天文について語り合いました。
天文館-6
天文館-7
天文館-8
アーケードの通り
天文館-9
天文館-10
アーケードに光輝く星座のイルミネーション。
山形屋
 山形屋(やまかたや)・鹿児島天文館本店
 建物は1998年11月2日に百貨店創業当時のルネッサンス調の外装へ一新。 2000年には第6回鹿児島市建築文化賞にも選出されました。 鹿児島を象徴する建物として県内外に幅広く知られています。
JUGEMテーマ:写真

  天文館は、南九州一の繁華街として人気のスポット、鹿児島のグルメやショッピングを楽しむには外せないエリアです。 天文館中心部では、天文館本通りアーケード、天文館G3アーケード(千日通り)及び電車通り(いづろ通り)が縦横に貫き、その周辺をアーケードやカラー舗装された通りが網の目状に連なる。 天文館ではアーケードが約2kmにも及び。 これは、桜島の降灰対策や、夏の強い日差しを避けるためです。
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:00 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その30 石燈籠(いづろ)通り
石燈籠-1
石燈籠(いづろ)通り
石燈籠-2
石燈籠(いづろ)の案内板
いづろ通り電停
いづろ通り電停
いづろ交差点
いづろ通り 交差点
時標4-1
いづろ通り 交差点にある、時標(ときしるべ)4  「龍馬、お龍と薩摩でひと休み」
時標4-2
 時標4 慶応2(1866)年、薩長同盟締結直後に坂本龍馬は京都の寺田屋で負傷。 小松帯刀や西郷隆盛の勧めにより温泉で傷を癒すため、妻のお龍とともに薩摩を訪れた。 小松別邸に滞在し、霧島にも訪れた。 これが日本初の新婚旅行といわれている。(説明文より)
花壇-1
花壇-2
花壇-3
街中にある美しい花壇に心が和みます。
マイアミ通り
いづろ交差点からドルフィンポートへ向かう道、「マイアミ通り」。
いづろ通り商店街
いづろ通り商店街
JUGEMテーマ:写真

 石燈籠(いづろ)通りは、天文館の松山通りからいづろ交差点を通り、海岸まで突き抜ける通りです。 藩政時代は、突きあたりの港の岸壁に石燈籠が一基立っており、錦江湾を航行する灯台の役目を果たしていた。 これが石燈籠通りの由来といわれています。
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:00 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その29 観光オブジェ・時標
時標6
  鹿児島市 中央公園南側に建つ、時標6 「伊地知、吉井、政変について語る」
 幕府と改革派の覇権争いの中、安政7(1860)年に起きた桜田門外の変で井伊大老が暗殺され、幕府は勢力を弱めていった。 ここ薩摩の伊地知正治、吉井友美、大久保利通ら精忠組(誠忠組)の間でも、この政変をめぐって様々な議論を重ねていた。
高麗橋
甲突川に架かる 「高麗橋」 の欄干。
緑の翼-1
西田橋のたもとにあるモニュメント 「緑の翼」。
緑の翼-2
作家は鹿児島出身の 竹 道久氏(1948年生まれ)
薩摩義士碑-1
薩摩義士碑-2
鶴丸城跡の一角にある 「薩摩義士碑」。
薩摩義士碑-3
 薩摩義士碑 神になった薩摩義士
 ―80余名の犠牲の上に、沈黙した暴れ川―
 岐阜県に木曽川治水工事の犠牲者をまつる神社があります。 治水神社といい、今も1755年(宝暦5)の薩摩藩による工事に感謝する人々の参拝がたえません。
 愛知、岐阜、三重の3県にまたがる濃尾平野は、今でこそ豊かな土地に生まれ変わりましたが、昔は川床の高さが異なる木曽、長良(ながら)、揖斐(いび)の3河川が合流し、度々大水害をひき起こしていました。
 1753年(宝暦3)幕府は薩摩藩にこの治水工事を命じ、藩はさっそく家老の平田靱負(ゆきえ)を総奉行に任じ、約1、000名を派遣しました。
 平田は大阪の商人から22万両を借り工事にとりかかりましたが、梅雨の増水でせっかく築いた堤が切れ、工事は困難を極めました。 さらに、監督する幕府役人の横暴や疫病の発生により、自刃、病死する者が続出。 完成までの1年3ヶ月の間に犠牲者は84名を数え、工費も40万両に達していたのです。 平田総奉行はその責めを一身に負い自刃。 藩政時代は幕府への遠慮から、彼らの偉業は公表されず、1920年(大正9)ようやく慰霊碑が建ち、義士として讃えられました。
薩摩義士墓-1
鹿児島市西千石町にある曹洞宗 大中寺、宝暦治水 薩摩義士墓所
薩摩義士墓-2
薩摩義士の墓由緒
薩摩義士墓-3
薩摩義士墓所
JUGEMテーマ:写真

 多くの偉人を輩出した鹿児島市。 「時標(ときしるべ)は近代日本に影響を与えた薩摩の人々を、より身近に感じてもらうため、人と場所、できごとを結びつけて紹介する新しいまち歩きのガイドです。 歴史を動かした人々の思い、活躍した様子を体感できます。(HP:鹿児島観光サイトより)
    観光オブジェ
     (1)「イギリス艦、鹿児島湾に現る」(加治屋町交差点)
     (2)「樺山、黒田、大いに語る」(高見馬場交差点)
     (3)「黒田清輝、桜島の噴火を描く」(商工会議所ビル前)
     (4)「龍馬、お龍と薩摩でひと休み」(いづろ交差点)
     (5)「重豪、薩摩の科学技術の礎を築く」(天文館・びらもーるアーケード)
     (6)「伊地知、吉井、政変について語る」(中央公園南側)
     (7)「ウィリス、高木に西洋医学を説く」(県民交流センター横)

    時標を探して歩くのも、鹿児島観光の楽しみの一つです。
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:00 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その28 甲突川の辺 大久保利通銅像
戦災復興記念碑
 甲突川(こうつきがわ)左岸緑地に建つ 「戦災復興記念碑」
 鹿児島市は、太平洋戦争末期における昭和20年3月18日以来8回の空襲により、実に市街地の93パーセントを焼失し、焦土の中で終戦を迎えた。
 それから36年余、現在の市街地は、縦横にのびる明るい街路、緑あふれる広場、紺碧の空に林立するビル群、そして50余万の人口を擁する南日本最大の雄都として発展してきている。
 この繁栄の原動力となったものは、画期的な戦災復興事業であり、その難事業をよく完遂し得たのは、灰燼(かいじん)の中から復興の意欲に燃えて立ち上がった全市民の一致協力と、関係者のなみなみならぬ努力とにほかならない。
 ここに、永年にわたる歴史的本事業の収束を記念し、鹿児島市が将来ますます発展するよう祈って、この碑を建てる。   昭和57年3月
高見橋-1
高見橋-2
甲突川に架かる 「高見橋」。
甲突川
高見橋からみる甲突川の風景。
母と子供の群像-1
母と子供の群像-2
母と子供の群像-3
高見橋の欄干にある彫刻 「母と子供の群像」。
大久保利通銅像-1
高見橋の袂に建つ 「大久保利通像」。
大久保利通銅像-2
大久保利通銅像-3
大久保利通銅像-4
 大久保利通(おおくぼ としみち)銅像 為政清明(いせいせいめい)
 ―藩閥意識を超えて新生日本の近代化に尽くす―
 大久保利通は明治草創期の指導的政治家です。 1830年(天保元)に生まれ、幼名は正袈裟(しょうけさ)、通称は一蔵、号を甲東(こうとう)と称しました。 幕末期、薩摩藩下級武士のリーダーとして藩論を尊皇にまとめる一方、最後の当主島津忠義(ただよし)の父久光(ひさみつ)の信頼をえて、藩政の改革にも手腕をふるいました。
 薩英戦争後はイギリスとの調和をまとめ開国に目覚めるとともに、沖永良部(おきのえらぶ)から西郷隆盛を呼び戻し、歴史的な名コンビとして倒幕に奔走。 薩長同盟の締結をみて、ついに1867年(慶応3)明治維新が達成されたのです。
 新政府樹立後は政界の中心人物として、版籍奉還、廃藩置県の実現につとめ、大蔵卿時代は地租改正の建議を行いました。 また、欧米諸国を視察し、帰国後は内務省を設立し事実上の首相ともいうべき内務卿を兼務しました。
 ところがこの頃から西郷隆盛と対立、西南戦争によって竹馬の友を失ったのです。 その大久保もまた、1878年(明治11)出勤途中を襲われ急死。 ロンドンタイムスは、「氏の死は日本全国の不幸である」 と報じました。 
小松帯刀像-1
小松帯刀像-2
 明治維新の推進者 小松帯刀(こまつたてわき)像銘文
 この像は京都二条城会議で真っ先に筆をとって署名し、将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を勧告、王政復古を実現させた小松帯刀の功績をたゝえる像である。 時に小松35歳、慶応3年(1867)10月13日であった。

 小松帯刀は1835(天保6)年、喜入領主肝付家の3男として生まれ、20歳で吉利(日吉町)の領主小松家の養子となり、小松帯刀と名を改めました。 子供の頃から学問や武芸にすぐれ、27歳で家老となり、西郷隆盛や大久保利通などを重要な役目につけました。 寺田屋事件、生麦事件、薩英戦争を乗りきり、薩長同盟を結ぶなど明治維新に向けて活躍しました。 維新後も外交官などの要職につきましたが、34歳で亡くなりました。
 この小松帯刀像は、慶応3年(1867年)に、15代将軍慶喜が二条城に諸大名を集めて、政治の権力を朝廷に返還(大政奉還)すべきかどうかを問うたとき、薩摩藩の城代家老であった小松帯刀が 「大政奉還すべき」 として他藩にさきがけて記帳したときの様子をイメージして造られたもので、三公像(島津斉彬、島津久光、島津忠義)の建つ、照国神社を向いて建立されています。(銅像脇に立つ案内板より)
 ちなみに、小松帯刀27歳家老時、西郷隆盛は35歳、大久保利通は32歳。
JUGEMテーマ:写真

 鹿児島市内を散策すると、数多くの銅像に出会います。 今回撮影した銅像だけでも、駅前の 「若き薩摩の群像」、城山のふもとある 「西郷隆盛像」、照国神社の境内には 「島津斉彬公像」、その近くに 「 島津忠義公像」、「小松帯刀像」、黎明館には 「天璋院像」、そして甲突川左岸緑地には 「大久保利通像」 があります。 銅像からひもとく歴史は、日本の近代化に大きな影響を与えた人物です。 改めて薩摩藩のすごさを感じます。
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:01 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その27 歴史ロード 「維新ふるさとの道」
維新ふるさとの道
 歴史ロード 維新ふるさとの道 歴史が漂う、維新の英傑を語り伝える道です。
加治屋町
 幕末・維新の偉人を生んだ加治屋町
 郷中教育が日本を拓いた
 「議を言うな」―薩摩の青少年の間では、暗黙のうちに、このような取り決めがなされていました。「つべこべ小賢しい理屈を言わず、先輩の言うことには従え。」 ということです。 藩政時代、薩摩では、城下の居住地をいくつかの区域に分け、その区域ごとに子弟の教育にあたりました。 区域のひとつひとつを 「方限;ほうぎり」 とか 「郷;ごう」 と呼び、その教育機関として、郷の相中(あいなか)、略して 「御中;ごじゅう」、つまり現在の学区にあたる制度を設けたのです。
 御中では、幼少の頃から肉体的にも精神的にも徹底した鍛錬教育が行なわれ、特に上下関係は厳しくしつけられました。 「議を言うな」 「長老衆には従え」 という暗黙の了解は、そういう土壌で培われたものと思われます。 薩摩藩には幕末33の郷中があり、中でも下加治屋町郷中は、高麗、上荒田の三郷中(三方限)と並んで、幕末から明治にかけて多くの逸材を生み出したことで有名です。 偉人傑士(けっし)として、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、大山巌、村田新八、東郷平八郎、黒木為和召鯒攴个掘郷中教育が日本近代化への原動力となったことを如実に物語っています。
日新公いろは歌
「いろは歌」 の広場に立つ石柱。
基本理念
 薩摩藩士の礎を築いた基本理念
 ―理論より実践を重んじる教育―
 「日新公;じっしんこう」 と敬(うやま)われた島津家中興の祖、島津忠義(ただよし)は人の道、生き方、人の上に立つ者の心得などをわかりやすく歌の形で広めることを目的として、天文14年(1545年)に 「いろは歌」 を作りました。 「いろは歌」 は理論より実際の行動を重んじる薩摩藩士ならではの子弟教育の教典として重視され、その後も長く親しまれてきました。 郷中の二才(にせ)や稚児(ちご)だけでなく、無学の者や子女もこれを諳(そら)んじて家庭教育の基礎としていたといわれます。
 「古(いにしえ)への道を聞きても唱(とな)へてもわが行(おこない)にせずばかひなし」 など総数47首の歌に詠みこまれた精神は、実践主義を旨とし、義や誠を重んじた薩摩武士の魂の根源でもあり、現代においてもなお色あせない重みを持っています。 園内に点在するいろは歌の広場には、47首の歌と意訳とがそれぞれ石柱に刻まれており、薩摩の偉人たちにも受け継がれてきた武士としての基本理念に触れることができます。
二つ家
 二つ家(ふたつや)と呼ばれる住居形態
 ―下加治屋町での武士の暮らし―
 鹿児島城から離れた甲突川沿いの下加治屋町は、幕末から明治にかけて活躍した西郷隆盛ら下級武士の居住地でした。下加治屋町には70数戸の下級武士が居住しており、当時の屋敷は二つ家と呼ばれる居住形態でした。 二つ家とは座敷を中心とした格式を重んじる 「おもて」 と台所など日常生活のための 「なかえ」 とが樋の間(てのま)でつながり、屋根は二つでありながら部屋はひと続きになっているという特徴を持ちます。 当時の屋根は藁(わら)や萱(かや)で葺(ふ)いたものが主で、一部瓦を使用したものや板葺などもあったと思われます。
 当時の下級武士の生活は質素なもので、米を常食することもできず、内職として傘の骨作りや特産物の櫛(くし)作り、農作業の手伝いなどをして食いつないでいたといわれます。(案内板より)
維新ふるさと館-1
維新ふるさと館-2
鹿児島市 維新ふるさと館
薩摩維新ふるさと博-1
撮影時(2014・10・27)は 「薩摩維新ふるさと博」 が開催中。
薩摩維新ふるさと博-2
幕末・明治をモチーフにしたイベントが開催。
薩摩維新ふるさと博-3
薩摩維新ふるさと博-4
薩摩維新ふるさと博-5
薩摩維新ふるさと博-6
〜維新と出逢う時間旅行〜 を満喫! 撮影協力ありがとうございました。
JUGEMテーマ:写真

 歴史ロード 「維新ふるさとの道」 は、西郷隆盛、大久保利通や東郷平八郎など、多くの偉人を輩出した加治屋町の甲突川(こうつきがわ)左岸緑地に、いろは歌の広場や下級武士の屋敷などを配置し、歴史探訪の散策を楽しめるよう整備されたものです。
 偶然、撮影当日は 「薩摩維新ふるさと博」 が開催中で、明治維新のタイムトラベラーに参加することができ、素敵な写真を撮影することができました。
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:01 | comments(2) | - |
鹿児島の旅 その26 仙巌園(6) 尚古集成館
尚古集成館
仙巌園に隣接する 「尚古集成館;しょうこしゅうせいかん」。
明治天皇行幸碑
 明治天皇行幸所 集成館碑
 天皇の地方巡幸のはじまりは、明治5(1872)年の鹿児島行幸でした。 この時、明治天皇は鹿児島城(鶴丸城)や集成館に足を運んでいます。 この石碑はこれを記念したものです。(案内板より)
紡績百年の碑
 紡績百年の碑
 磯地区に建てられた、わが国の最初の鹿児島紡績所が、日本の近代紡績業の発展に果たした役割は、大変大きいです。 尚古集成館の庭に、日本紡績協会によって、昭和42(1967)年にこの 「紡績百年の碑」 がたてられました。
尚古集成館本館
 尚古集成館本館
 旧集成館機械工場は、慶応元(1865)年に建てられた日本における現存最古の洋式石造工場建築物です。 当時、ストンホームと呼ばれていました。 外観などは洋式ですが、洋式建築への理解不足もうかがえ、日本建築の手法も色濃く見られます。
 大正12(1923)年に尚古集成館として開館し、昭和37(1962)年には国の重要文化財に指定されました。(案内板より)
尚古集成館別館
尚古集成館別館
磯工芸館-1
 薩摩切子ギャラリーショップ 「磯工芸館」。 薩摩切子をはじめ、薩摩焼、薩摩錫器など、鹿児島の工芸品を厳選して紹介するセレクトショップです。
磯工芸館-2
磯工芸館内部 薩摩切子
ガラス工房-1
ガラス工房(薩摩切子工場)
ガラス工房-2
工房内部 加熱炉
ガラス工房-3
 薩摩切子のカット工程 
‥り→荒ずり→石掛け→ぬ敞徊瓩→ゥ屮薀桂瓩→Ε丱媚転紊
ガラス工房-4
ガラス工房-5
 ガラス工房(薩摩切子工場) 
 集成館事業で作られていた独自のカットグラス 「薩摩切子」 を1985年に復元。 生地成形からカットまで薩摩切子の製造工程を見ることができます。(無料)
JUGEMテーマ:写真

 尚古集成館 慶応元(1865)年に建てられた鉄工機械工場を利用して、大正12(1923)年に開館した永い歴史を持つ博物館です。
 日本人が撮影した現存する最古の銀板写真(複製)や、薩摩切子などの伝統工芸品、工場として稼働していた当時の機械など、島津家伝来の資料を中心に、文書や書画をはじめ約1万点を収蔵・展示しています。(HP:旅かごしまより)
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:00 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その25 仙巌園(5) 薩摩切子と名物・両棒餅
薩摩切子館-1
薩摩切子館-2
薩摩切子館-3
園内の撮影を終え、土産店 「薩摩切子館」 へ
薩摩切子(1)
薩摩切子(2)
復元 島津薩摩切子 大皿
薩摩切子(3)
新島津薩摩切子 銘 青礁湖 ¥4,320,000.−
薩摩切子(4)
薩摩切子(5)
薩摩切子(6)
薩摩切子(7)
見事な薩摩切子が展示されています。
売店
園内に軒を並べる売店。
両棒餅-1
食べたかった名物、「仙巌園ぢゃんぼ屋」 の暖簾をくぐります。
両棒餅-2
両棒餅-3
磯名物 両棒餅(ぢゃんぼもち) 二本の串にささった一口大のお餅、醤油風味と味噌風味の二種類。 何本でも食べれる素朴な味です。
JUGEMテーマ:写真

 薩摩切子(さつまきりこ)は、薩摩藩が幕末から明治初頭にかけて生産したガラス細工・カットグラス(切子)です。 薩摩ガラス・薩摩ビードロとも呼ばれました。 現在は復刻生産されています。 長崎等から伝来した外国のガラス製造書物を元に江戸のガラス職人を招くなどして第10代薩摩藩主島津斉興によって始められ、11代藩主斉彬が集成館事業の一環としました。
 安政5(1858)年、オランダの医師ポンペ・フォン・メールデルフォ−ルトが鹿児島を訪れてガラス工場を見学したが、100人以上がそこで働いていたと記しています。
 大変に先進的な品で斉彬もこれを愛好し、大名への贈り物に用いたり篤姫の嫁入りの品ともなりました。 当時の薩摩切子は現存するものは大変に少なく貴重で、骨董として高価で取引されています。 現在のものでも、高いもので3百万円を超えることがあります。(フリー百科事典 「ウィキペディア」より) 
| 鹿児島の旅(前篇) | 19:00 | comments(0) | - |
鹿児島の旅 その24 仙巌園(4) 近代薩摩焼発祥の地
仙巌園の風景-1
風景-2
園内の風景
示現流・自顕流展示室
 示現流・自顕流展示室 薩摩藩で御流儀とされた 「示現流・薬丸自顕流」 の迫力ある剣術を映像で展示。 実際に木刀で打ち込む体験もできます。
近代薩摩焼発祥の地-1
石碑 「近代薩摩焼発祥の地」
近代薩摩焼発祥の地-2
 近代薩摩焼発祥の地
 極東の宝石といわれ、西欧諸国で 「SATUMA] と呼ばれて珍重された近代薩摩焼はこの地で誕生した。 幕末の薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)は、西欧の近代産業を導入した工場群 「集成館;しゅうせいかん」 をこの地に設置し、軍艦製造を中心としたさまざまな産業をおこした。 そして、その一環として、海外との積極的な貿易振興を目的に、従来の薩摩焼の製法に改良を加え、貿易品としての近代薩摩焼を創製した。
 斉彬はこの地に御庭窯を築き、多くの陶工たちとともに研究を重ね、藩窯としての風格を備えた華麗な焼物を完成させている。
 また、「SATUMA」 の名は、明治時代以後日本各地で製造され海外に輸出された美しい陶器の総称にもなった。
菊の花-1
菊の花-2
園内に置かれた菊の花がきれいです。
高枡
高枡(たかます) 高枡は水の分岐と水量を調節するための水道施設です。 園内のわき水を石造の水管で集め、この高枡を用いて御殿前の池などに配水しています。
克灰袋-1
克灰袋-2
 園内 「克灰袋;こくはいぶくろ」 置場
 「克灰袋」 は、桜島の火山活動による降灰を各家庭で集め回収してもらうための専用袋で、降灰の予想される地域の家庭へ4月から5月に事前配布され、その他地域については、降灰の状況に応じて臨時配布が行われております。
鹿児島市内には、「克灰袋」 の指定置場は約6,200箇所あり、回収された克灰袋は鹿児島市内3箇所の土捨場に持っていかれます。
 以前は、「降灰袋」 という名称だった 「克灰袋」。 1991年から名称を 「克灰袋」 に変更致しました。 これには理由があります。 受身的な印象を感じさせる 「降灰袋」 から、降灰に強い快適な都市を目指して、積極的に降灰を克服しょうという意欲が示されているのです。
風景-3
石のある風景。
風景-4
石橋
風景-5
風景-6
仙巌園の美しい風景や庭園を堪能。
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 薩摩焼は、鹿児島県産の陶磁器の総称。 文禄・慶長の役後、朝鮮の渡来人によって始められ、串木野、帖佐、加治木、稲代川、竪野、竜門司、元立院、磯、平佐などの諸窯が生まれた。 白釉、黒釉、鼈甲(べっこう)釉、蛇蝎(だかつ)釉および錦手(にしきで)などが名高い。 現在もその流れをくむ苗代川、竜門司で焼かれている。 (百科事典マイペディアより)
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