2014.12.26 Friday
滋賀・長浜と彦根の旅 その57(完) 佐和山城跡と石田三成
佐和山城跡
佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期に近江源氏佐々木定綱(ささきさだつな)の6男時綱(ときつな)が、佐和山の麓に館(やかた)を構えたのが始まりと伝える。 その後、佐々木氏は湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。 佐和山城は両勢力の境目の城として攻防が繰り返された。やがて湖北では京極氏に代って浅井氏が覇権を確立し、湖南の六角氏との間で佐和山城争奪戦が展開されることになる。
信長・秀吉の時代にも、佐和山城は近江の要衝を守る城として重視された。 信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀(にわながひで)を配し、安土城築城までの間、佐和山城が安土城の機能を維持した。 秀吉の代も、堀秀政(ほりひでまさ)、堀尾吉貼晴(ほりおよしはる)、そして五奉行筆頭の石田三成(いしだみつなり)の入城と、佐和山城に重きを置く姿勢は変わらなかった。 この間、佐和山城はしだいに整備され、山上に本丸以下、二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが重なり、山下には東山道に面して大手門が開き、2重に巡らされた堀の内外には侍屋敷・町屋そして足軽屋敷などの城下町が形成された。
佐和山城絵図(彦根城博物館蔵)
龍潭寺(りょうたんじ)の境内に建つ 「石田三成公蔵)
石田三成(1560〜1600)
安土桃山時代の武将。 豊臣政権五奉行の一人。 幼名佐吉(さきち)。 幼少より豊臣秀吉に仕え、1583年の賤ケ岳の戦の功により重用され、九州征伐や文禄・慶長の役などに出陣。 一方民政面に才能を認められ、軍需品輸送、太閤検地の施行などに才腕をふるう。 1590年(1595年とも)近江佐和山城主として18万石(19万余石とも)を領する。 秀吉の死後徳川家康と対立、関ヶ原の戦で敗れ斬首。
同じく、龍潭寺の境内に建つ石田三成群霊供養・佐和山観音。
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佐和山城の戦い(フリー百科事典・ウィキペディアより)
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃した。 城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮闘空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。
徳川方の兵士は 「栄華を極めた三成はさぞ華美を尽くしたのだろう」 と思い、我先に城内に乱入したが、城の壁は粗壁であり、また、何の装飾もない質素な作りであったという。 しかも、石田屋敷にあったものは豊臣秀吉から送られた感謝状のみであったと伝わっている。
三成は領地にて善政を敷き、領民から大変慕われていたという。
57回にわたって写真展示しました 「滋賀・長浜と彦根の旅」 は今回をもって終了です。 豊臣秀吉が初めて主となった長浜城を中心として栄えた町・長浜、江戸時代は旧藩主井伊家35万石の城下町・彦根、国宝・彦根城も見応えがあり、心に残る撮影の旅でした。(完)