質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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PROFILE
会津若松の旅 その44(完) 日新館(5) 水練場など
水練場-1
会津若松 日新館 水練場(すいれんば)
水練場-2
 会津若松 日新館 水練場(水練水馬池)
 日本で初めて造られたプールといわれています。 池の周囲は85間(約153m)もあり、向井流(むかいりょう)という泳法を学び、甲冑(かっちゅう)をつけての水練も行われました。 水練場を備えていた藩校は日新館の他に長州藩の明倫館(めいりんかん)だけでした。
弓道場-1
弓道場-2
弓道場(射弓亭)。
天文台-1天文台-2
像の向こうにある高台が 「天文台」。
砲術場-1
砲術場-2
天文台から見た砲術場。
砲術場-3
砲術場
井深梶之助-1
井深梶之助-2
 井深梶之助(いぶかかじのすけ) 安政元年〜昭和15年(1854〜1940)
 明治から昭和初期にかけて活躍した、キリスト教界の指導者。会津藩校日新館学頭・井深宅右衛門の長男として会津若松城下に生まれた。 母は、会津藩家老西郷多頼母近思の四女八代子。 戊辰戦争後、横浜の修文館で宣教師でもあるが英語教師ブラウンと出会い、明治6年(1873)に洗礼を受ける。 同19年(1886)新設の明治学院神学部教授、副総理となり、同23年(1890)にはニューヨークのユニオン神学校に留学。 翌年帰国し、ヘボンの後を受け第二代明治学院総理となる。 日本基督教会大会議長や日本全国基督教会同盟委員長などを歴任、キリスト教界の国際会議には日本代表として出席した。 教育では、知育偏重の弊を改め、意志と情操を尊重し宗教的かつ円満な人格者の育成に務めた。また、世界人類同胞主義の立場から、第二次世界大戦には強く反対した。 明治学院発行、内海健寿著 「井深梶之助とその時代」 全三巻には、活躍した時代背景とその業績が詳しく紹介されている。
康熙文殊菩薩-1
康熙文殊菩薩-2
康熙文殊菩薩
駐車場
日新館の見学と撮影を終えバス停へ。
空の風景
日新館から見た美しい空の風景。
JUGEMテーマ:写真
 
 2013年10月19日〜21日の2泊3日で見学と撮影してきました 「会津若松の旅」 は今回で終了です。 福島県西部、会津盆地南東隅にある会津若松市。 もと松平氏23万石の城下町。 見どころ満載の会津若松、お勧めの大人の観光地です。(完)

 次回より、2014年7月7日〜9日 2泊3日で撮影してきました、黒田官兵衛ゆかりの地 「滋賀・長浜と彦根の旅」 と題して写真展示しますので見て下さい。
| 会津若松の旅 | 20:00 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その43 会津藩校 日新館(4) 大学
大学
日新館 大学
大志樹
大志樹
忠臣義士
忠臣義士
ノーベル賞-1
日本人の歴代ノーベル賞受賞者。
ノーベル賞-2
ノーベル賞-3
ノーベル賞受賞式の晩餐会で使用される食器類。
言志四録
   少にして学べば、即(すなわ)ち壮にして為すあり
   壮にして学べば、即ち老いて衰えず
   老いて学べば、即ち死して朽ちず
  (人間は髪や爪が伸びるように 学んでいれば必ず成長する。)
                                            言志四録 佐藤一斎の言葉
家紋
会津藩主松平家 「会津三つ葵 正紋」
保科正之-1
保科正之-2保科正之-3
江戸前期の大名 会津の藩祖 保科正之。
家訓十五ヶ条-1家訓十五ヶ条-2
会津藩 家訓(かきん)十五ヶ条。
庭園
日新館庭園。
JUGEMテーマ:写真
 
 10歳になると会津藩士の子弟は日新館に入学します。 生徒数は1000〜1300人ほど。 授業は朝の8時から始まりました。 素読の教科書は論語、大学などの四書五経に、孝経、小学を加えた計11冊の中国の古典を用います。(各家では、入学する前の6歳頃から近所の寺子屋などで素読をさせていました。)(HP日新館についてより)
| 会津若松の旅 | 19:09 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その42 会津藩校 日新館(3) 東塾
東塾-1
東塾-2
これより、日新館・東塾に入ります。
素読所-1
素読所-2
素読所教科書
素読所-3
素読所での学習。
書学所-1
書学所-2
書学所-3
書学所での学習。
大硯-1
大硯-2
日新館使用大硯(端渓の硯)。
天球儀
天球儀 日新館では、大きさの違いはありましたが、このような教材を用いて天文学を勉強しておりました。 学んでいる生徒は、白虎隊士中二番隊 伊東悌次郎(16歳) 勤勉な学習ぶりを認められ、藩公から何度か褒賞を賜わった。
礼式方-1
 白虎隊の食事学 
 日新館の生徒だった白虎隊士の食事は麦めし、みそ汁、芋や大根の煮物など粗食でしたが、これらの食品は脳の機能を向上させる成分を多く含んでいます。 食事をしている生徒は、白虎隊士中二番隊 篠田儀三郎(17歳) 誠実、実直で約束は必ず守った。 二番隊37名のリーダーであった。
礼式方-2
礼式方-3
礼式方。
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 白虎隊の学舎、会津藩校 日新館とは
 江戸時代、全国三百藩校の中でも規模内容ともに随一と謳われたのが、会津藩の学校 「日新館」 です。 五代藩主松平容頌(たかのぶ)時代の、家老田中玄宰(はるなか)の 「教育は百年の計にして会津藩の興隆は人材の養成にあり」 との進言によって計画され、5年の歳月をかけ享和3年(1803)に鶴ヶ城の西側に一大学門の殿堂として完成しました。
 広さは東西226m、南北116m、面積8千坪、建物は1500坪ありました。 幕末に飯盛山で自刃した白虎隊の少年達も勉学はもちろんの事 「ならぬことはならぬ」 の精神を学び、未来に夢をはせていました。
 残念ながら戊辰戦争において、焼失してしまった日新館ですが、昭和62年に会津の精神文化を後世に伝えようと完全復元されました。
| 会津若松の旅 | 19:01 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その41 会津藩校 日新館(2) 大成殿
大成殿-1
大成殿-2
正面の大きな建物は、儒教(じゅきょう)の祖である孔子像を祀る大成殿。
大成殿-3
大成殿-4
大成殿に祀られている 「孔子像」。
大成殿-5
大成殿内部。
山崎闇斎-1
館内に立つ 「山崎闇斎(やまざきあんさい)」 の像。
山崎闇斎-2
山崎闇斎(1618〜1682) 京都の医者の子として生まれ、後に全国でも知られた儒学者になりました。 闇斎は時の会津藩主・保科正之(ほしな まさゆき)に招かれ、会津藩士に儒学を教えることになりました。 彼の功績により、会津藩の教育水準は飛躍的に向上しました。
孔子の教え-1
孔子の教え 「学而時習之(学びて時に之を習う)」
習った事をいつもおさらいし、しっかりと身につけて熟達するようにする。
孔子の教え-2
孔子の教え。
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 孔子(こうし)・・・大辞林より
 (前551〜前479頃)<呉音で 「くじ」 とも> 中国、春秋時代の魯(ろ)の思想家。 儒教の祖。 名は丘、字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)、諡(おくりな)は文宣王。 昌平郷陬邑(すうゆう)(山東省曲阜(きょくふ)県)の生まれ。 魯に仕えたがいれられず、諸国を遊説したのち、門人の教育に専念。 周公旦(しゅうこうたん)の政治と事績を理想とし、仁と礼とを倫理的行為の根本におき、徳治政治を達成せんとした。 その思想は、言行を記録した 「論語」 にみられる。 また、「書経」 「詩経」 「春秋」 などを整理・編纂したといわれる。
| 会津若松の旅 | 19:07 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その40 会津藩校 日新館(1) 南門
コミュニティバス
会津若松駅よりコミュニティバス 「みなづる号」 に乗って会津藩校日新館へ
永楽大康獅子-1
永楽大康獅子-2
永楽大康獅子
什の掟
 永楽大康獅子前に立つ 「 什の掟」。 じゅうのおきて(ならぬことはならぬものです)
 同じ町に住む6歳から9歳までの藩士の子供たちは、十人前後で集まりをつくっていました。 この集まりのことを会津藩では 「什(じゅう)」 と呼び、そのうちの年長者が一人什長(座長)となりました。
 毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長が上記のような 「お話」 を一つひとつみんなに申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から今日にかけて 「お話」 に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行いました。
山川健次郎
 山川健次郎先生を讃えるの辞
 略伝 山川健次郎先生は嘉永7年(1854)閏7月17日、会津藩家老山川尚江重固の三男として城下の本二ノ丁(現・東栄町)に生れる。 幼少より聡明にしてわずか9歳で藩校日新館に入学。 就学3年目の12歳で一等(最優秀組)に昇級するほどの英才ぶりを発揮し、慶応4年(1868)戊辰戦争で白虎隊士として戦火の城下や籠城戦で奮戦する。
 戦に敗れ落城後、猪苗代に謹慎中に藩士秋月胤永(悌次郎)の計らいと城下の真龍寺住職河井善順の機略により寺小姓に扮し、秋月の昌平黌時代の親友長州藩士奥平謙輔を頼って危うく夜陰に乗じて越後に向け会津を脱し、越後府権判事奥平の書生となる。 その後奥平の朋友同じ長州藩士前原一誠の庇護を得る。 やがて、北海道開拓使次官黒田清隆の推挙によって渡米し、名門のエール大学に留学。 物理学を専攻して学友ロバート・モーリスの叔母で富豪のハンドマン夫人の学資援助を得て卒業し、学士号を取得する。
 明治8年(1875)に帰国、明治9年東京開成学校(東京大学の前身)の教授補となる。 翌年東大の理学部教授補として物理学科を担当、翌々年弱冠26歳で教授となり、わが国で初めてエックス線の照射に成功するなど、物理学の基礎を築き近代科学の先駆者として高名を馳せ、わが国における初の理学博士となる。
 明治34年(1901)48歳で東京帝国大学第6代総長に就任、続いて九州帝国大学初代総長に就任、大正2年(1913)再び東京帝国大学総長に選ばれ、翌年には京都帝国大学の総長をも兼任する。 この時期の東京帝国大学において初の公選による総長ととして活躍し、更に旧制武蔵高等学校(現武蔵大学)の校長を務めるほか東北帝国大学の設立にも深く関与するなど、わが国の高等教育制度の確立と大学の自治に力を尽くす。
 明治40年(1907) 九州の安川財閥の強い要請によって戸畑(現・北九州市)に私立明治専門学校(現・国立九州工業大学)を設立。 同校の総裁として、常に日新館教育の精神を生かして学園経営に挺身、「技術に堪能なる士君子たれ」 との高い建学理念のもとに真の科学者の育成を目指し、時代を担う若き学徒の薫育と指導に当たる。
 優れた学究の傍ら国民の教化運動に尽力し徳目教育の推進に力を注ぐ。 更に枢密院顧問となり国政に関与して天皇の諮問にあずかるなど、わが国の各道、各界における多大なる貢献により男爵の爵位を授与され、勲一等旭日大綬章を受章する。
 昭和6年(1931)6月26日 東京にて逝去。 享年78 (ご遺志により医学の研究に献体され、最後まで科学者として学術振興に貢献された)
日新館-1
日新館-2
 会津武家屋敷は、会津の歴史と文化を後世に遺すため、昭和50年に開門したが、慶応4年(1868)戊辰の戦火に焼失した会津藩校日新館の復元を既に企画していた。 会津藩校日新館は、五代藩主松平容頌の時代に、家老田中玄宰の建議によって企画され、享和3年(1803)に完成した。
 「日新」 の名は、大学の 「苟二日モ新タナラバ日ニ日二新タニ又日ニ新タニセン」 の文に由来し、その教育は藩祖の遺訓を旨とし、文武両道にわたる巾広い内容であった。 文は漢学を主とし、天文学、蘭学、舎密学(化学)等にわたる多数教科制で、今日の小学校から大学まであり、武は兵学をはじめ、弓術、刀術等武芸全体に及び学力の水準は群を抜いていた。
 ここに郷愁の旧藩校を復元し、江戸時代建築の粋を集めた観光博物館として、更に本学の教育綱領にもとづく研修の場として広く社会に提供し、国際的にも開かれた社会教育の拠点とする。
 施設概要
    大成殿(講堂)  講釈所(大学)  武講(研究所)  素読所(小学)
    東西武学寮   射弓亭
    建造物計  4,850屐1,470坪)  総地積 126,000屐38,000坪)
        起工 昭和60年3月30日  落成 昭和62年4月1日
        会津藩校日新館
南門-1
南門-2
日新館の入口、「南門(みなみもん)」。
戟門
 南門をくぐるとその先にある、「戟門(げきもん)」。 左室に太鼓を置き、これを打ち鳴らして時を知らせていました。
JUGEMテーマ:写真

 会津若松の旅もいよいよ最後の訪問先、「日新館」 を写真展示します。 総地積126,000屐38,000坪)、建造物計4,850屐1,470坪)の壮大な観光博物館です。 当時の会津藩の文武両道の教育方針や施設に感動します。

 7月7日〜9日、NHK大河ドラマ 「軍師 官兵衛」 に因み、滋賀県長浜市と国宝・彦根城を撮影してきました。 台風8号の影響を気にしながらの撮影でした。
 「会津若松の旅」 が終わり次第、「滋賀・長浜と彦根の旅」 と題して写真展示しますので見て下さい。
| 会津若松の旅 | 19:48 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その39 史跡を訪ねて 歴史的建造物
大町ガス燈
大町ガス燈 大正3年(1914)建築、黒漆喰の蔵を改築した居酒屋さん。
福西本店-1
 大正3年建築、黒漆喰の袖蔵を有する店蔵 「福西本店」。店内の座敷では会津の民芸品などを販売。 重厚な存在感のある建物は、野口英世青春通りのシンボル。
福西本店-2
歴史的景観指定建造物、美しい会津若松景観賞受賞建造物などのプレート。
あいづっこ宣言
店の前に立つ 「あいづっこ宣言」。
末廣酒造-1
 末廣酒造 嘉永蔵(かえいくら) 江戸年間の嘉永3年(1850)の創業。 以来150年以上に及び長年にわたって鬼瓦に守られている嘉永蔵。
末廣酒造-2
蔵内に掲示されている書。
末廣酒造-3
 野口英世ともゆかりのある酒蔵で、明治時代に建てられた木造三階建ての蔵は風情たっぷり。 酒蔵の見学ができるほか、館内にある喫茶店 「杏」 でくつろげます。
白虎隊伝承史学館-1
白虎隊伝承史学館-2
 白虎隊伝承史学館 白虎隊をはじめ、会津藩士や新選組ゆかりの品を中心に武具や調度品などを展示。 また、八重の人形やゲーベル銃など 「八重の桜」 にちなんだ品が並び、手に触れることもできます。
白虎隊記念館-1
 白虎隊記念館 飯盛山の麓にあり、白虎隊が所持していた短刀や家族への直筆の手紙といった遺品をjはじめ、会津藩に関する豊富な史料を収蔵・展示。 新島八重の遺墨と写真などの史料も見られます。
白虎隊記念館-2
白虎隊記念館-3
 白虎隊士 酒井峰治 愛犬クマ 滝沢山中に出迎え
 戊辰8月23日朝、戸ノ口原から引きあげた白虎士中二番隊42名中の19名は、この飯盛山で自刃し、他の隊士は山間を退いて入城し、籠城戦に参加した。
 この時、友と離れた酒井峰治(16歳)は、不動滝上の滝沢茸山で、幸運にも愛犬クマの出迎えを受けて大いに元気づき、このクマの道案内により、三ノ丸の明かず口から無事入城し籠城戦に大いに活躍した。
 右の史実は、先ほど北海道旭川市の令孫酒井峯男邸から発見されて当館に寄贈された昔の峰治筆 「戊辰戦争実歴談」 四千九文字によるが、峰治少年は後年旭川市で酪農家として名を成した。
融通寺
 会津若松市大町にある 「融通寺(ゆづうじ)」。 総本山は京都の知恩院。地方の寺院でありながら、1604年に御陽成天皇から勅額や御宸筆を賜り、勅願寺となった経歴を持つ珍しいお寺です。屋根に刻まれた菊の御紋が天皇勅願寺の証。戊辰戦争当時は西軍本営が設置されたため戦火を免れ、当時の面影を留めた本堂には柱に刀の傷跡などが見られます。
JUGEMテーマ:写真

 2013年大河ドラマ 「八重の桜」の舞台、会津若松の旅も残り 「会津藩校 日新館」 のみとなりました。 この旅は2013年10月19日〜21日の2泊3日で見学と撮影をしたものです。 見どころ満載の会津若松、色々なことが学べます。
| 会津若松の旅 | 20:09 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その38 史跡を訪ねて 大町四ツ角
大町四ツ角-1
七日町通りと野口英世青春通りがクロスする、この 「食い違い十字路」 が、会津五街道の起点となる 「大町四ツ角」 です。
大町四ツ角-2
四ツ角の一角に建つレトロな建物、大正10年の建築物。 旧郡山商業銀行若松支店。 現在は 「四ツ角大正館」 となり、一階で喫茶店、二階は貸しホール、地下はバーとなっています。
大町四ツ角-3
 大正館の前に立つ掲示板 蒲生氏郷ゆかりの地 〜会津の先人たち〜
 蒲生氏郷(がもう うじさと) 弘治2年〜文禄4年(1556〜1595)
 豊臣秀吉の命により会津の領主となった氏郷は、会津の大改革を行いました。 鶴ヶ城を築き、城下の町割りをおこないます。 ここ大町四ツ角は町方の中心で高札(告知板)が建てられ 「大町札之辻」 と呼ばれました。 会津五街道の起点であり、街道に出るにはそれぞれの木戸を通っていったのです。 この南東の角には商人司・簗田(やなだ)氏が、北東の角には近江から氏郷とともに会津に入った倉田氏が町検断として大きな屋敷を構え、町々には市が立ち大いに賑わいをみせていました。
 織田信長の娘を妻に持ち、キリシタン大名であり利休七哲(利休の七人の優れた弟子)の筆頭でもあった戦国のエリート氏郷は、城下を造るとともに漆器、酒などの産業を盛んにし、92万石の太守として会津に君臨します。 わずか5年の治世でしたが氏郷が政治、経済、文化に及ぼした功績は計り知れないものがあったのです。
 興徳寺に蒲生氏郷の墓があります。(徒歩5分)
大町四ツ角-4
 道路元標 藩政時代からここ大町四ツ角は各街道の起点でした。 明治15年福島県令・三島通庸(みしま みちつね)はこの道路元標を起点として山形県、栃木県、新潟県へ伸びる三方道路の大工事を行います。 この工事は住民に厳しい労役を課したため自由民権運動に火をつけ喜多方事件を引き起こします。 しかし、わずか3年で総延長213kmの道路を完成させたこの大工事が戊辰戦争後、疲弊しきっていた会津の発展の礎となったということも事実です。
大町四ツ角-5大町四ツ角-6
「若松市道路元標」 と刻まれています。
会津町方伝承館-1
 会津町方伝承館 会津地方に長年培われた伝統産業や伝統工芸とふれあうとともに、それらの振興をはかり理解を深めることを目的とした施設。
会津町方伝承館-2
会津町方伝承館-3
会津町方伝承館-4
会津町方伝承館-5
会津漆器や会津木綿、絵ろうそく、赤べこなどの民芸品が販売されています。
会津町方伝承館-6
会津町方伝承館一階の様子。
JUGEMテーマ:写真

 野口英世青春通りを散策していると、大町四ツ角の 「食い違い十字路」 に出会います。 江戸時代、一之町と七日町に分かれる 「食い違い十字路」 には、大町札之辻や若松市道路元標が設けられていたそうです。 当時の様子を描いた 「会津若松城下絵図」 によりますと車がない時代、交差点の真ん中に石垣を積み、その上に柵が回され、木の札に墨書きで、立札を掲げていたようです。
| 会津若松の旅 | 19:21 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その37 史跡を訪ねて 野口英世青春通り
野口英世青春通り-1
野口英世青春通り-2
大町四ツ角中央商店街にかかるアーチ 「野口英世青春通り」。
まちなか周遊バス
通りを走る 「まちなか周遊バス」。
野口英世青春通り-3
野口英世青春通り-4
「野口英世青春通り」 命名の由来。
野口英世青春通り-5
 野口英世ゆかりの地マップ。
 会津若松と野口英世
 野口英世は、高等小学校を卒業後、医学開業試験の受験のため上京するまでの3年半を会津若松市で過ごしました。 後に、世界的な細菌学者となる英世の礎(いしずえ)がこのとき築かれました。英世の青春時代の足跡は、今もまちのあちらこちらに見ることができます。
栄町教会-1
栄町教会-2
 日本キリスト教団若松栄町教会 英世が19歳の時、洗礼を受けた教会。 当時の名が記された信徒名簿が残されています。
野口英世青春広場-1
野口英世青春広場 ここに昭和33年、英世の偉業をしのぼうと銅像が建立された。
野口英世青春広場-2
ライトアップされた 「野口英世青春広場」。
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 野口英世博士のあれこれ(日本銀行福島支店HPより引用)
 会津若松時代
けた外れの集中力
  博士は左手の手術がきっかけで、医師になる決意を固め、高等小学校を卒業した後、左手の手術を受けた会津若松の会陽医院に薬局生として入門しました。 博士は会陽医院で医学のほか、英語・ドイツ語・フランス語の勉強をしましたが、並外れた集中力を発揮し、1つの言語の原書を3ヶ月で読めるようになったそうです。 博士は、一度引いた語彙(ごい)は全て覚え、二度と同じ語彙を引くことはなかったそうです。 また、医師開業試験に合格した後、中国(当時は「清」)でペストが発生したことから、博士も医師団の一員として派遣されましたが、中国への8日間の船旅の中で、博士は、中国人の船員と手真似を交えて世間話をしているうちに、簡単な日常会話をマスターしてしまったという逸話も残っています。
 こうした 「けた外れの集中力」 が、難関と言われていた医術開業試験を1回の受験で合格したことに役立ったのでしょう。
会陽医院の渡部院長からの厚い信任
  会陽医院の渡部院長は、1894年、日清戦争に軍医として従軍しましたが、博士は渡部院長に日頃の生真面目さを買われ、会陽医院の留守を守ることを命じられ、また渡部家の家計まで任されました。 留守中、患者の診療を行なうことはありませんでしたが、お金のやり繰り等色々と悩まされることが多かったそうです。 しかし、博士はお金の出入りを細大漏らさずしっかりと記録し、渡部院長が帰国した際に大いに驚かれたという逸話が残っています。

 野口英世は、子供向けの偉人伝が多数刊行されて 「偉人の代表」 ともよべる存在となったため、医学研究者としては非常に知名度が高い人です。 現在、2004年より発行されている日本銀行券の千円札の肖像になっています。
 また、平成28年は野口英世生誕140年の節目の年にあたります。 野口英世が生れた明治9年は、当時の 「磐前県」 「福島県」 「若松県」 の三県が合併され、現在の福島県の形にほぼ確定した福島県のスタートの年にあたります。 平成28年に地方自治法施行60周年記念貨幣として野口英世をテーマに記念貨幣が発行されます。 楽しみです。
| 会津若松の旅 | 19:01 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その36 史跡を訪ねて 野口英世青春館
旧会陽医院-1
旧会陽医院。 野口英世が左手の手術を受けた会陽医院。
旧会陽医院-2
野口英世博士と旧会陽医院。
野口英世青春館-1
英世青春館入口。 拝観料は一律100円。
野口英世青春館-2
野口英世青春館-3
野口英世青春館-4
野口英世青春館-5
二階、野口英世青春館 館内の様子。
野口英世青春館-6
 野口秀世が愛用した椅子 ニューヨークの郊外、シャンデーケンにあった野口英世博士の別荘で使用されていた椅子。
野口英世像-1
野口英世青春広場に、昭和33年に建立された 「野口秀世像」。
台座には、座右の銘 「忍耐」 が刻まれています
野口英世像-2
背面に刻まれた英文の碑文。
野口英世像-3
碑文の英文訳文。
野口英世像-4
恩師 小林栄氏宛の手紙より。
JUGEMテーマ:写真

 会津若松市中町に、今になお残る 「旧会陽医院」。 明治17年(1884)に建てられた蔵造りの洋館。 野口英世が手の手術を受けた病院 「旧会陽医院」 をそのままに、一階は喫茶店、二階は資料館になっています。
 野口秀世は、ここでやけどを負った手の手術を受け、医学の素晴らしさに感動し、そして書生となり医学の基礎を学びました。 ここには 「世界の野口英世博士」 への第一歩がしるされています。 彼の功績を後世に残すべく資料館といたしました。 また、この建物の前の通りは 「野口英世青春通り」 と命名され、野口英世が 「洗礼を受けた教会」、「初恋の人、山内ヨネの家」 等が現存しています。(HP;会津一番館〜館内紹介〜より)
| 会津若松の旅 | 21:04 | comments(0) | - |
会津若松の旅 その35 史跡を訪ねて レトロな町並・七間町(2)
アイバッセ
 大正浪漫調薫る七日町通りの路地  “七日町ローマン小路”  にある洋館風テナントビル  「アイバッセ」。 アイバッセとは、会津弁の 「あいばせ」 「あいばっせ」 からとったもので、「さあ(一緒に)行こう!」という意味です。
渋川問屋
大正浪漫 旅人館 渋川問屋、郷土料理と宿泊が楽しめます。
川俣シルク
川俣シルク 小手姫の衣 川俣町特産の絹織物 「川俣シルク」 を販売。
長門屋
創業160年の老舗 長門屋が平成19年にオープンした蔵造りのモダンな店舗。
深久商店
深久商店 もめん・絲(いと) 会津木綿を使った手作り品のお店。
太郎庵
現存する蔵をそのまま利した 「太郎庵七日町菓房」。
野球工房-1
野球工房-2
大正15年(1926)建築。 木造モルタル3階建ての堂々した建造物です。
現;バンダイスポーツ(旧塚原呉服店)、野球用品中心のスポーツ用品店。 正面のレンガ造りを使った装飾と、窓のバランスが素晴らしいです。
常光寺-1
常光寺-2
 めぐり会い観音のある古刹 常光寺(じょうこうじ)
 常光寺は慶雲3年(706)律宗の寺として建立された大変古いお寺です。江戸時代初期に会津高田に生まれた名僧、徳川幕府の「黒衣の宰相」と言われた天海(てんかい)から、免許状が与えられ、天台宗に改宗しました。
 常光寺の境内は古くから城下の人々に開放されていました。 寛政3年(1791)には境内に城下初の劇場人形座が建設され、藩校日新館の生徒も見物を許されました。 その後も見世物小屋や相撲、サーカスなどが開かれ、夏には盆踊りも行われて大勢の人でにぎわいました。境内には町回り三十三観音の32番所「めぐり会い観音」のお堂があります。
 「参るより 常の光をたのむかな 二世をかけて 祈る身なれば」
常光寺-3
常光寺-4
 めぐりあい観音
 昔、京都・宇治に茶問屋を営む傳右衛門と傳七という父子がいました。 ある日、長男の傳七が出奔し、行方が分からなくなりました。 父傳右衛門は悲嘆に暮れましたが、何んとしても探そうと六十六部に姿を変え、観世音菩薩の像を背負って諸国修行に旅立ちました。
 何時しか会津にたどり着き、ここ常光寺に立ち寄りました。 住職からお茶を勧められて、一口飲んだところ、「おや、この味は?」 と一瞬、びっくりしました。 ≪この香り、風合いはまさしく我が家の家伝のお茶ではないか≫。 傳右衛門は住職に問いました。
「このお茶はどなたが淹れてくれたのでしょうか」 「ああ、それは当寺の若い修業僧が入れたお茶です」 若い修業僧こそ、傳七だったのです。 偶然というか、奇跡というか、この寺で巡り会った茶問屋父子。 傳右衛門はここに堂宇を建て、背負っていた観世音菩薩像を安置したのは言うまでもありません。 これがめぐりあい観音堂です。
 以来、人と人との巡り会いの観音様として信仰を集めてまいりました。
尚伸
尚伸(株) 活性炭製造輸入販売。
レオ氏郷
レオ氏郷南蛮館 蒲生氏郷を紹介する資料館。
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 七日町通りは会津五街道のうち米沢、越後、下野(途中桂林寺通りを経由)の主要な街道となる城下町の重要な通りで、江戸時代から昭和にかけて会津一の繁華街として賑わいを見せていました。その名残りは古い蔵や洋館、木造町家の建物から見ることができます。(HP渋川問屋より) 

 【ミニ知識】
 蒲生氏郷(がもう うじさと) 引治2年〜文禄4年(1556〜1595)
 会津領主。 近江国日野城主蒲生賢秀の子。 13歳の時織田信長の人質になるもその才を買われ次女冬姫をめとった。 本能寺の変で信長が亡くなると秀吉と信長の弔い合戦で戦功をあげる。
 天正18年(1590)小田原討伐の功で豊臣秀吉より会津拝領となり、秀吉の奥羽仕置を助けた。 文禄元年(1592)黒川城を七層の大天守閣として鶴ヶ城と命名。 郭内の町屋敷を郭外に移し新しい町つくりを行った。 地名を若松に改め、酒・漆器などの殖産政策を行った。 またキリシタン大名としても知られ、茶の道でも利休七哲の一人。(HP;ゆかりの人物より)
| 会津若松の旅 | 20:05 | comments(0) | - |
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