質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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PROFILE
九州・大分の旅 その72 臼杵市・城下町めぐり 街中風景
八坂神社
臼杵市大字臼杵祇園南(祇園洲)にある 「八坂神社」。祇園様として親しまれています。 7月中旬に行われる祇園祭は日田祇園祭、中津祇園と並んで、大分の三大祇園祭の一つに数えられています。
石敢當-1
商店街の町角に立つ 「石敢當」。
石敢當-2
 臼杵の商店街の町角に珍しいお宝発見
 石敢當(せっかんとう)
四百余年の昔から畳屋町の人々は、町角の石敢當を魔除け、商いの神、福の神と尊び崇めて大事に守り継いでまいりました。 臼杵市の文化財にも指定されている大変貴重な塔で、歴史の上からも、観光の上からも大事に守り継ぎたいと思います。
 石敢當とは
石敢當は中国伝来の悪魔除けの法で九州南部から沖縄・台湾にかけての路傍にあり、九州では鹿児島市内に数個あります。 沖縄では石敢當(いしかんとう)と呼ばれ、家庭でも門柱、玄関などに三文字書いて張る魔除けの風習が今も残っています。 大辞典に、向かうところ敵なしの義、石敢當は古の勇者の名、その名を石に刻して守護神とす。 とあります、畳屋町の塔はその姿の美と形の大きいこと、特に筆跡が唐人の名筆家の作であることから書道界においては典雅な書体であると有名です。
 なぜ臼杵に
大友宗麟が臼杵に居城を構えた頃、臼杵は早吸瀬戸の難所を往来する船の潮待ち、風待ちで港は賑わい、また、町には大阪堺にも店をもつ西日本随一の豪商で分限者の仲屋宗悦のお店や、唐人のお店が並び農水産物を始め色々な品物の一大集散地として栄えていました。 また南蛮船、大明国の商船も入港して市場を開き遠く豊・筑の人々等も集めて交易をし象をはじめ虎、孔雀や陶器、書画など珍しい品々が荷揚げされました。 取引の上で喧嘩・口論が度々あり皆が迷惑をしていたのを「中国にこれを治める法がある」とで石敢當の三文字を石に刻して建てたところ以後喧嘩が治まったと言われています。
八町大路
石畳が美しい八町大路。
山本鳳凰堂-1
山本鳳凰堂-2
お仏壇・創業明治5年の「山本鳳凰堂」。 格子状の美しい建物で、石畳と相まって中世の城下町を思わせます。
大橋寺-1
法雲山 大橋寺(たいきょうじ)の山門・高麗門。
普通の屋根の外に左右のひかえ柱の上にも屋根のある門。
大橋寺-2
大橋寺-3
大橋寺 江戸時代初期、幕府のキリシタン弾圧によりカキダキ村住人すべて隠れキリシタンであったことが判明し、村は全滅と思われたが大橋寺第六世歴道上人は「庄屋以下全員この寺の門徒である」との証明書を出し村人を救った。 この恩にたいして村人は現在も報恩供養を行っている。 また、大友宗麟公夫人の墓がある。 明治10年の西南戦争の時には警視隊の本営が置かれた。(HP大橋寺より)
貝の塔
街中で見かけた 「貝の塔」。
タイル絵
歴史の町 「臼杵」 のタイル絵。 龍原寺の三重塔が描かれています。
臼杵駅-1
撮影を終えて、JR日豊本線臼杵駅ホームへ。
臼杵駅-2
臼杵駅-3
臼杵城と臼杵石仏を模して造られたホームのベンチ。
JUGEMテーマ:写真
 
 臼杵石仏で始まって、臼杵石仏で終った臼杵の撮影。 大分県の東海岸に位置する人口約4万の臼杵市。 国宝の臼杵石仏や臼杵公園を中心とする城下町、撮影の被写体には事欠かない見所満載の歴史の町です。 時間をかけてじっくり散策されることをお勧めします。
| 九州・大分の旅(臼杵) | 19:34 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その71 臼杵市・城下町めぐり 街中の風景
久家の大蔵-1
久家の大蔵-2
久家(くげ)の大蔵。
久家の大蔵-3
築140年、久家の大蔵の内部。
タイル絵-1
タイル絵-2
タイル絵-3
大蔵の内部に展示されている 「タイル絵」。 築140年の酒蔵の白壁にも、ポルトガルと臼杵の親交を表現したタイル絵が描かれています。
古い家並
街の随所で見られる古い町並、歴史を感じる建造物です。
サーラ・ザ・うすき-1
「サーラ・デ・うすき」 中心市街地のにぎわいと地域情報化の拠点。
サーラ・ザ・うすき-2
「サーラ・デ・うすき」 の内部。 南蛮資料や市民ギャラリーのコーナーをはじめ、体験工房や行政・観光情報コーナー、パソコンやインターネットを学ぶ設備などが備えられています。
大分銀行
和風建築の 「大分銀行臼杵支店」。
フンドーキン醬油
 臼杵川 中須賀にある 「フンドーキン醬油」。
 創業1861年(文久元年)、臼杵市に本社を置く調味料の製造メーカー。 金のマークが良く目立ちます。 社名は、醬油や味噌の重さを量る際に使用した分銅と会社を設立した小手川金次郎の 「金」 に由来します。 本社内にある醬油工場の巨大な木樽は、高さ9m、容量540キロリットル(1リットルで54万本分)に及ぶ世界最大級のもので、2008年(平成20年)にギネスブックの認定を受けました。(フリー百科事典・ウィキペディアより)
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 臼杵 大分県東部の市。 豊後水道の臼杵湾に臨み、永禄(1558〜1570)年間、大友氏の城下町として繁栄し、ポルトガル船が来航交易した。 慶長以後、稲葉氏5万石の城下町。 臼杵磨崖仏がある。 人口4万。 (広辞苑より)
| 九州・大分の旅(臼杵) | 19:00 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その70 臼杵市・城下町めぐり 二王座歴史の道
二王座歴史の道-1
二王座歴史の道-2
 二王座歴史の道 甚吉坂(じんきちざか)
 豊後のキリシタン大名である大友宗麟の武将に吉岡甚吉がいた。 天正14年(1586)島津軍が臼杵に侵攻した。 この時の戦いで二王座を守って武功をたてた甚吉を讃えて甚吉坂と呼ばれるようになった。(HP坂のプロフィールより)
二王座歴史の道-3
「金比羅社」 のすぐ下にある 「金比羅水」。 「甚吉坂井戸」 とも呼ばれています。
二王座歴史の道-4
「二王座歴史の道・切通し」 。 切通しとは、山や丘などを切り開いて通した路。
二王座歴史の道-5
二王座歴史の道-6
二王座歴史の道、すぐ左側に無料休憩所 「旧真光寺」 があります。
二王座歴史の道-7
 旧真光寺 旧真光寺は浄土真宗本願寺派仁王山善正寺の塔頭(支院)として、享保元年(1716)旧臼杵藩士稲川小右衛門の長男宗通により開基された。 旧真光寺を核としたこの界隈は切通しと呼ばれ臼杵の町並みを代表する景観として人々に親しまれている。 真光寺の移転に伴い町並み散策の休憩拠点とするため、寺跡を市有化し平成4年修復整備した。   臼杵市
二王座歴史の道-8
 二王座歴史の道(大分県臼杵市二王座)
 江戸時代、稲葉氏五万石の城下町として栄えた場所。 格式の高い武家屋敷が多く残り、凝灰石の石畳や長屋門などが立ち並ぶ。 祇園社の仁王門があったことから名付けられたという説もある。 「二王座歴史の道」 周辺には善法寺や法音寺など30近い寺院が集る。(HP BIGLOBE旅行より)
二王座歴史の道-9
珍しいマンホールの蓋に刻まれた案内表示。
二王座歴史の道-10
稲葉家土蔵
二王座歴史の道-11
 土蔵の二階に掲示されている写真。
 二王座地区 坂と石垣の景観(映画 「なごり雪」 雪子の家)。 映画 『なごり雪』 は、2002年9月に公開された大林宣彦監督の作品。 旧友の妻が交通事故で危篤にあるとの呼び寄せで、50歳を迎えた男が28年ぶりに故郷・臼杵市に帰郷する。 津久見市出身の伊勢正三の 『なごり雪』 をモチーフに、淡い青春の想い出が描かれています。 臼杵の古い町並みが残る二王座でのうすき竹宵や、臼杵磨崖仏での石仏火祭りなど、臼杵各地で撮影が行われました。 キャストは梶村祐作役に三浦友和さん、雪子役に須藤温子さんが出演されています。(フリー百科事典・ウィキペディアより)
二王座歴史の道-12
土蔵の近くにある、「雪子の家」 を撮影してきました。
JUGEMテーマ:写真

 二王座付近は、狭い路地のいたるところに城下町特有の面影が残っています。 古くからの町並みが素晴らしくゆっくり散策したいところです。 中でも無料で休憩できる旧真光寺の二階からは 「二王座歴史の道」 が一望できます。 
| 九州・大分の旅(臼杵) | 19:00 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その69 臼杵市・城下町めぐり 早春賦の館
臼杵川・万里橋
臼杵川・万里橋から川下を望む。
早春賦の館-1
万里橋を渡ると直ぐ、「早春賦の館 吉丸一昌記念館」 はあります。 記念館の屋敷(板井家屋敷)は江戸時代後期に建造されたと推定されます。 安政4年(1857)に臼杵城の古材を使用して改造がされています。早春賦の館-2
吉丸一昌記念館 「早春賦の館」 は臼杵市が生んだ有名な国文学者、吉丸一昌の生誕120周年を記念して、ユキ夫人の実家(旧板井家)に平成6年4月1日開館されたものです。 館内には当時の楽譜・遺品等、吉丸一昌のゆかりの品が多数展示されております。
早春賦の館-3
早春賦の館-4
「吉丸一昌略歴」
 明治6年9月15日 臼杵市海添で生まれる。
 明治12年      臼杵学校(小学校)入学
 明治22年      大分中等学校(現 大分上野丘高校)入学
 明治30年7月    東京帝国大学(現 東京大学)国文科入学
 明治33年9月    板井ユキと結婚
 明治35年4月    東京府立第三中学(現 両国高校)教論
 明治42年4月    東京音楽学校(現 東京芸大)教授
 大正2年       「故郷を離るヽ歌」「早春賦」 を発表
 大正5年3月7日  逝去(43歳)       
早春賦の館-5
吉丸一昌 大正2年に発表された 「故郷を離るヽ歌」。
早春賦の館-6
早春賦の館-7
早春賦の館-8
吉丸一昌の代表作 「早春賦」。
JUGEMテーマ:写真

 吉丸一昌(よしまるかずまさ)のプロフィール
 吉丸一昌は明治6年9月15日、父角内、母ノブの長男として大分県北海部郡海添村(現 臼杵市海添)に生まれました。 明治12年、臼杵学校へ入学した一昌は向学心に燃え、優秀な成績で大分県よりたびたび表彰されています。
 臼杵学校卒業後、大分県尋常中学校(現 上野丘高校)、熊本の第五高等学校(現 熊本大学)へと進学しました。 ここでの夏目漱石との出会いは、後の吉丸一昌の進路を決定づけています。
 第五高等学校卒業後、東京帝国大学(現 東京大学)国文科へ進みました。 この頃より吉丸は修養塾と称し、少年10名程と生活を共にして、勉学はもとより衣食住から就職に至るまで世話をしています。 それに東京でデッチ奉公している田舎出の少年や中学に行けない者の為に、下谷中等夜学校を開設しています。
 明治34年、東京帝国大学国文科を卒業して、東京府立第三中学(現 両国高校)の教論になりました。 ここでは芥川龍之助を教えています。 明治41年、東京音楽学校(現 東京芸大)の教授に招かれて生徒監に任命されています。 文部省からは  『尋常小学唱歌』 の編さん委員で作詞の主任に任命されています。
 明治45年より、童謡の先駆となる 『新作唱歌』 全10集を発表しました。 この中に、あの早春賦、故郷を離るヽ歌、木の葉等があります。 吉丸一昌は200とも300とも言われる程の歌を作っています。 また若い人材をも育てています。 中山晋平、大和田愛羅、本居長世、弘田龍太郎、船橋栄吉、山田耕作など数多くの人がいます。
 大正5年3月、43才の若さで他界しました。(吉丸一昌記念館 早春賦の館 リーフレットより) 
| 九州・大分の旅(臼杵) | 19:00 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その68 臼杵市・城下町めぐり 旧丸毛家屋敷
旧丸毛家屋敷-1
旧丸毛家屋敷(きゅう まるもけ やしき)の門。 臼杵市指定有形文化財
旧丸毛家屋敷-2
丸毛家住宅 見取り図。 江戸時代後期の建築様式をとどめる武家屋敷です。
旧丸毛家屋敷-3
 表玄関の左側にある 「内玄関」。
 屋敷の中が 「表」 と 「裏」 に分かれているように、玄関も客用の 「表玄関」、家人が使う 「内玄関」 に分かれています。 内玄関の前にある 「かまど」 は大きい方が正月や結婚式など、祝儀用。 小さい方はお茶を炒るためのものです。
旧丸毛家屋敷-4
 台所、調理場兼家人の食事の場。 土間にかまどが造られています。 このかまどの焚口は板の間の方に開けられており、炊事の時に土間に降りずに仕事ができるように工夫されています。
旧丸毛家屋敷-5
奥の座敷が 「上の間」、手前が 「中の間」。
旧丸毛家屋敷-6
「上の間」
旧丸毛家屋敷-7
 「上の間」 の天井。
 座敷の天井のさおぶちは、床の間に対して平行に張られることが多いのですが、丸毛家屋敷では床の間に対して直行する “床ざし” という張り方をしています。 この “床ざし” は “切腹の間” という意味があり、西日本の武家屋敷ではあまり多く造られていません。
 丸毛家屋敷にどうしてこの “床ざし” が用いられたのかは分かりませんが、常に死を覚悟しているという武士の気概を示すために意識的に造ったのかも知れません。
旧丸毛家屋敷-8
庭園
旧丸毛家屋敷-9
土間の外には 「井戸」 もあります。
旧丸毛家屋敷-10
門の左側の外壁。
JUGEMテーマ:写真

 丸毛氏 旧丸毛家屋敷の敷地は、江戸時代、臼杵藩より代々屋敷地として丸毛家に与えられたのです。 丸毛氏は、もと美濃国(岐阜県)の武士で、明智光秀の家臣であった斎藤氏の一族でした。 そのため光秀が羽柴(豊臣)秀吉によって滅ぼされた天正10年(1582)の山崎合戦では明智方に味方し敗れたため、長く流浪していたと丸毛家の家系図に書かれています。
 寛永5年(1628)、丸毛弥市右衛門忠勝の代に、忠勝の外祖母が稲葉一鉄公(初代臼杵藩主稲葉貞通の父)の娘であったため、その縁で三代藩主稲葉一通公に200石で召し抱えられました。 その後多少の禄高の変動はあったものの、明治維新を迎えるまで臼杵藩の中級武士としての家禄と格式を保っていました。 (本文及び写真の説明文は、臼杵市教育委員会発行の旧丸毛家屋敷より)
| 九州・大分の旅(臼杵) | 19:00 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その67 臼杵市・城下町めぐり 稲葉家下屋敷
稲葉家下屋敷-1
目を引く重厚な外塀の 「旧臼杵藩主 稲葉家下屋敷」。
稲葉家下屋敷-2
塀の外を流れる小川には、美し錦鯉が優雅に泳いでいます。
稲葉家下屋敷-3
稲葉家下屋敷の 「御門」。
稲葉家下屋敷-4
 旧臼杵藩主 稲葉家下屋敷 〔国登録有形文化財 旧稲葉家別邸〕
 稲葉家下屋敷は明治35年(1902)、廃藩置県後に東京に居を移した旧藩主の里帰りのために建設したお屋敷です。
 約千坪の敷地には、北面に広い庭を配し、大書院の棟・御居間の棟・台所の棟3棟の建物が畳廊下で結ばれています。
 建物は平屋(台所棟は2階建て)の桟瓦葺き。 主屋である大書院の棟は桁行6間半、梁間4間の入母屋造りで南側(西)に間口2間の式台付き千鳥破風の玄関を備えています。 お屋敷には、書院造りの奥座敷や謁見の間であった表座敷などがあり、稲葉家をお迎えするにふさわしい格式あふれる造りです。
稲葉家下屋敷-5
稲葉家下屋敷-6
旧臼杵藩主稲葉家下屋敷 「玄関ノ間」。
稲葉家下屋敷-7
 里帰りのために建設されたお屋敷
 旧稲葉家別邸は、廃藩置県に伴って東京に移住した旧藩主・稲葉家の臼杵滞在所として、明治35年(1902年)に建築されたものです。
 江戸時代、周辺一帯は臼杵城の三の丸にあたり、評定所や米蔵などの重要施設や、重鎮の屋敷が連なっていました。
 稲葉家は、藩祖・貞通が関ヶ原の合戦後、臼杵に移封されて以来、明治維新まで一貫して臼杵藩を支配してきました。 東京移住後も、旧国立第百十九銀行や旧臼杵藩士族の会社 「留恵社」 への出資を行うなど、臼杵の経済にも影響を与えました。 そのため、臼杵に来る機会が少なくなかったといわれ、その滞在所として機能したのがこの旧別邸だったと言われています。 建物は近代に入ってからのものですが、武家屋敷の様式を色濃くとどめた建築です。
稲葉家下屋敷-8
大書院 「上ノ間」。
稲葉家下屋敷-9
天井
稲葉家下屋敷-10
重厚な天井
JUGEMテーマ:写真

 臼杵市祇園洲6-6 に位置する旧臼杵藩主・稲葉家下屋敷、廃藩置県で東京に居を移した稲葉家の里帰りのため明治35年(1902)に建造。 書院造、千鳥破風の玄関などに上流武家屋敷の様式を見ることができます。 

 稲葉家の歴史
 江戸時代全時期を通じて、臼杵藩主として海部・大野・大分三郡の内に領地(5万石)をもった稲葉氏は、慶長5年(1600)12月、臼杵に入部しました。 初代貞通は、関ヶ原合戦において家康方(東軍)に味方し、軍功によって美濃国(今の岐阜県)郡上八幡城から臼杵へと転封されたのです。 稲葉氏は元々伊予(今の愛媛県)河野氏の流れをくみ、本姓を越智氏といいます。 臼杵市立臼杵図書館に残る 「稲葉家譜」 には、慶長5年11月、譜代の重臣達20人が先発隊として臼杵に入り、竹田岡城の中川氏が守衛していた臼杵城の受け取りを済ませ、翌12月25日、貞通が嫡子典通(2代藩主)などを伴って臼杵に入ったと記されています。 その後、明治4年(1871)、15代藩主久通の代で廃藩置県を迎えるまでの約270年間、質素倹約、勤勉といった言葉で表すことのできる、臼杵人気質の礎を作り上げていったのです。(臼杵市発行・うすきがいど より)
| 九州・大分の旅(臼杵) | 19:00 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その66 臼杵市・城下町めぐり 龍原寺・三重塔
龍原寺-1
臼杵市福良平清水134 龍原寺(りゅうげんじ)
龍原寺-2
龍原寺の門前に立つ掲示板。 初代藩主・稲葉貞通が慶長5年(1600)に創建。
龍原寺-3
龍原寺 本堂
龍原寺-4
大分県指定有形文化財 龍原寺三重塔。 均整のとれた優雅な塔です。
龍原寺-5
 県指定有形文化財 龍原寺三重塔
 この塔、臼杵が生んだ名匠高橋団内が、奈良や京都の古寺をめぐり、古い塔の長所をとり入れた理想的な三重塔の図面を引き、それを基に弟子の坂本荘右衛門が監督し、建物を完成させました。工事は、嘉永元年(1848)から10年の歳月をかけて行われ、安政5年(1858)に竣工しました。総高21.8mをはかる九州でも数少ない江戸時代の塔です。内部には、聖徳太子が安置されています。  臼杵市教育委員会
JUGEMテーマ:写真

  臼杵駅前にある海添橋の欄干にも刻まれた 「龍原寺三重塔」 は、太子塔とも呼ばれ聖徳太子を祀る塔です。 安政5年(1858)に竣工したこの塔は九州に2つしかない江戸期の木造三重塔の一つとして知られています。
| 九州・大分の旅(臼杵) | 19:00 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その65 臼杵市・城下町めぐり 臼杵城跡(4)
案内板
臼杵城跡(臼杵公園)案内板、現在位地は 「本丸跡」。
掲示板-1
掲示板-2
 本丸跡に立つ掲示板。
 本丸(ほんまる) 江戸時代、空堀から東側の一帯を 「本丸」 と呼んでいました。 この一帯が大友氏時代にどのような姿だったのかはっきりしていません。ただ、江戸時代の二之丸よりも標高が低いところにあるため、大友氏の時代には、こちらが二之丸だった可能性があります。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が城主になりましたが、初代藩主・稲葉貞通(いなばさだみち)と典通(のりみち)(のちの2代目藩主)は本丸防衛のため、空堀を整備し、二之丸方面から本丸の入口に渡る土橋を設けました。 土橋を渡るとすぐのところに鉄門(くろがねもん)という櫓門をもうけ、本丸の出入口を固めました。 空堀は、天守櫓から見おろす位置とし、二之丸からの進入に備えたのです。 明治維新後、公園として整備され、今のような姿となりました。

 本丸の建物 江戸時代に入り、平和が続くと、藩主が政務を執行する空間(「表」)と、藩主の生活空間(「奥」)としての機能を持つ 「本丸御殿」 が中心的な役割を担いました。 「表」も、「裏」も、「書院造り」 を基本としていました。
 現在残っている絵図(指図;さしず)によると、「表」(茶色い部分)には 「御広間;おひろま」 「大書院;だいしょいん」 等、政務遂行や儀礼に使われた部屋が見られます。 「御広間」 等からは 「御舞台;おぶたい」 が見える構造になっています。 舞台は主に能に使われていたと考えられます。
 一方、「奥」(青い部分)には、「御座間;ござま」 と呼ばれる藩主の部屋があります。 本丸北側の崖ぎわには 「御湯殿;おゆどの」 が設けられ、現在言う展望風呂のような状態になっています。
 本丸御殿は、城下町や三之丸(現在の祇園洲地区など)から離れ、不便だったこともあり、延宝4年(1676年)、主な機能を二之丸(西の丸)御殿に移転しました。
大友宗麟公-1
二の丸跡に建つ 「大友宗麟公碑」。
大友宗麟公-2
大友宗麟ブロンズのレリーフ像。
大友宗麟公-3
 大友宗麟公
 大友宗麟(義鎮)(1530〜1587年)は九州六ヶ国の守護職から九州探題職となり九州随一の覇者として内外にその名を高め1562年には丹生島に城を築き臼杵から天下に号令を下しました。 このときから臼杵は名実ともに政治経済の重要地として注目をあつめました。 また宗麟はキリスト教を信じポルトガル、イスパニアなどとの交易を開き、当時臼杵に往来する外国船や城下町につどう外国人などでにぎわい、異色の国際都市として発展しました。・・・・・・・・
廃墟の像-1
廃墟の像-2
宗麟公碑のすぐ側に立つ臼杵出身の彫刻家 日名子実三氏作、廃墟」の像。
桜の名所
春になると約千本の桜が見事に咲き誇る臼杵公園(臼杵乗跡)。
城跡からの眺望
臼杵城跡からの眺望。 見える海は臼杵湾。 沖合約7kmにぽっかり浮かぶ 「津久見島」、 「おにぎり島」 とも呼ぶ人もいるほど臼杵市民に親しまれている島です。
野上弥生子-1
野上弥生子-2
二の丸跡に立つ野上弥生子(のがみやえこ)文学碑、向かって右側の石碑に 「野上弥生子先生略歴」、左の石碑に小説 「迷路」 の一説が刻まれています。
野上弥生子-3
臼杵市浜町538にある 「野上弥生子文学記念館」。
野上弥生子-4
記念館の前に掲げてある案内板。
野上弥生子-5
記念館入口。 これより先は撮影できません。
野上弥生子-6
記念館(左側中央)のある浜町界隈。
JUGEMテーマ:写真

 臼杵公園(臼杵城跡)に文学碑が立つ 「野上弥生子」 の生家を訪ねました。 現在生家は、国指定登録有形文化財 「野上弥生子文学記念館」 となり一般に公開されています。 記念館には、少女の頃からの直筆原稿・遺品など約二百点が展示されています。 入館料大人300円、子人150円。

 野上弥生子(1885〜1985) 小説家。 本名、ヤヱ。 大分県生れ。 豊一郎の妻。 明治女学校卆。 夏目漱石の支持で小説を発表。 その倫理性・知性をひろく同時代の市民生活や社会問題におしひろげた大作を書きつづけた。 作 「海神丸」 「真知子」 「迷路」 「秀吉と利休」 「森」 など。 昭和46年文化勲章受章。 昭和60年(1985)逝去99歳。(広辞苑より)
| 九州・大分の旅(臼杵) | 19:25 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その64 臼杵市・城下町めぐり 臼杵城跡(3)
卯寅口
大分県指定史跡 臼杵城跡 卯寅口
井戸丸-1
井戸丸-2
 井戸丸(いどまる)
 この井戸は、寛永年間に掘られた井戸で、深さが10m以上あり、昭和25年頃までは大きな木製の滑車をつけて水を汲んでいたが、今は使われていません。 またこの井戸は、水量も豊富で海が近いにもかかわらず真水がでていました。
卯寅口参道
卯寅口明神への参道は、明治以降に新たに開削された道です。
卯寅稲荷神社
卯寅稲荷神社
卯寅口門脇櫓
 卯寅口門脇櫓(うとのくちもんわきやぐら)
 嘉永年間に再築された櫓で、鉄砲薬櫓(てっぽうぐすりやぐら)とも呼ばれ、半地下構造の火薬庫としても使われていたようです。 1階と2階の床面積が同じ 「重箱造り」 という古式の構造で半地下式となっています。
掲示板-1
掲示板-2
 卯寅口(うとのぐち)
 いわゆる 「搦手口;からめてぐち」 とよばれる城の裏門にあたるところで、井戸が設けられていたことから 「井戸丸」 とも呼ばれていました。 本丸・二之丸があった場所は、かって「丹生島;にうじま」 と呼ばれ、周囲を海に囲まれていました。 卯寅口には海へ通ずる 「卯寅口門」 や階段が設けられていました。 緊急時はここから船を出して、海へ脱出することを考えていたようです。
 「卯寅口」 の名前の由来は、大友宗麟が築城時に 「卯寅;うとら」 の方角(ほぼ東北東)に向けて門を造ったからであると記録には書かれていますが、なぜ 「うとのぐち」 という読み方なのかは定かではありません。 なお、港町側から現在の卯寅口明神への参道は、明治以降に新たに開削された道です。

 卯寅口門脇櫓
 卯寅口門脇櫓の外観は二層、内部は三重、外壁は漆喰下見板張り、屋根は切妻屋根の櫓です。現在の櫓は、棟札から嘉永7年(1854年)に建てられたことがわかりましたが、17世前半の城絵図には既にその姿が描かれていることから、江戸時代の間に何度か建て替えられたと考えられます。延宝4年(1676年)ごろ本丸御殿指図(当時の平面図)を見ると、「御鉄砲薬櫓」と記されており、その機能も時期によって変わっていったようです。
天守櫓跡
天守櫓跡
掲示板-3
 天守櫓(てんしゅやぐら)
 この場所にはかって、3層4重(外観3層、内部4階)の天守櫓がありました。 最近の発掘調査によって、はじめて天守櫓が造られたのが豊臣秀吉配下の福原直高(ふくはらなおたか)が臼杵城主であった文禄3年〜慶長2年(1594〜1597)ごろである可能性が高くなっています。
 その後、稲葉氏により天守櫓が何度か修理された記録があります。 このうち明暦元年(1655)の修理は大規模なものであったようで、天守櫓本体だけでなく、本丸の西北隅部の付櫓(天守櫓に附属するやや小規模な櫓)がそれぞれ独立的に建てられていたものを、すべて櫓でつなぐように改築されたことが江戸時代の臼杵城絵図と発掘調査の成果から判明しました。
 天守櫓がどのような形状であったかは、正確な図面が残っていないためわかりませんが1階の平面が6間四方(約11.7m)、土台部分から最上階(4階)までの高さが6間1尺(約12.0m)であったことが記録されています。
 ここでは発掘調査で判明した天守櫓と付櫓の位置を、一段高くして表示しています。

 天守台(てんしゅだい)石垣
 天守台石垣の角石(石垣の角部の石)、築石(角石以外の石)は、その表面を特に加工せず、ほぼ石山で割った状態のまま積み上げる、野面積(のづらつ)みと呼ばれる工法をとっています。
 一見、乱雑な積み方にも見えますが、この築石の奥行き(胴長)は表面の長さの1.5倍以上もあり、表面から見えないこの奥の部分で石どうしがしっかりとかみ合っているため、非常に頑丈な造りとなっています。
 これに対して、臼杵城内に現在に残る石垣の大半は、天守台が造られたあとの江戸時代に積まれたものですが、これらのほとんどが天守台石垣の積み方と違い、築石の表面だけでかみ合せる積み方になっています。 見た目は整っていますが、天守台石垣ほど強度がないと考えられています。
鉄門枡形石垣
 鉄門枡形石垣(くろがねもんますがたいしがき)
 鉄門枡形は本丸の入り口となる重要な場所です。 長径1.5mにおよぶ大きな 「築石」 を用いる重厚な石積みです。 「角石」 は規格的な 「算木(さんぎ)積み」 で、17世紀前半の特徴をみせています。
石垣-1
石垣-2
石垣-3
臼杵城跡に残る 「野面積み」 の石垣。
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 ミニ情報! 
 不落の城 石田三成派とされていた太田一吉は、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の時、東軍方の中川秀成によって攻められました。 中川軍は、臼杵城を囲む海を泳いで城へ乗り込もうとしましたが、太田軍の城内からの攻撃により全く近づくことができませんでした。 中川軍がこの堅城に入ることができたのは、太田氏らが船で四国に落ち延びてしばらくしてからのことでした。(臼杵城散策マップより)
| 九州・大分の旅(臼杵) | 19:23 | comments(0) | - |
九州・大分の旅 その63 臼杵市・城下町めぐり 臼杵城跡(2)
あぶみ坂-1
臼杵城古橋口を入ると直ぐ 「鐙坂;あぶみざか」 です。
あぶみ坂-2
あぶみ坂-3
大友時代から登城路として使われていた道で、外敵を防ぐため岩を掘り切って造った狭い道です。馬の鐙(あぶみ)に似ていることから、「鐙坂」 と呼ばれました。 太田氏時代には内堀をまたぐ橋が掛けられ、稲葉氏時代には 「古橋 」 と呼ばれていました。
 ※鐙とは、鞍の両脇にさげ騎者の足をふみかける馬具。(広辞苑より)
畳櫓
畳櫓(たたみやぐら) 天保年間に再築された櫓で、1階と2階の床面積が同じ 「重箱造り」 という古式の構造をしています。 解体修理の際に、下見坂で隠された銃眼 「隠し狭間;かくしさま」 のあることがわかりました。
案内板-1
案内板-2
 掲示されている案内板。 
 稲葉氏の城郭改修 
 帯曲輪(おびぐるわ)
 大友氏時代から太田時代(1556―1600)にかけて、臼杵城二之丸、本丸に入るには、城下町に面した入口から鐙坂(あぶみざか)を通り現在の弓道場の横を抜けて城の東部にあたる空堀にたどりつき、そこから上るという大変遠回りをするコースをたどっていました。
 稲葉氏の入城直後、町場に近い位置に登城口があるのは防衛上不安があったためか、新たに三之丸のやや奥まった部分に登城口を設け二之丸へと上がる間に中之門、上之門と呼ばれる門と枡形(ますがた)を造るという守りの堅い城内通路が整備されました。 これによって旧来の道は上之門を境に2つに分断され、畳櫓から上之門に至る空間が帯のように細長いものであることから帯曲輪と呼ばれるようになりました。
 また、この新しい登城口を今橋口(いまはしぐち)、それ以前の鐙坂の登城口は古橋口(ふるはしぐち)と呼ばれるようになったのもこの頃からです。
 ※枡形とは、城の一の門と二の門との間の広く平らな正方形または長方形の地。 ここで敵の進む勢を鈍らせる。(広辞苑より)

 畳櫓(たたみやぐら) 畳櫓は、桁行4間(7.92m)、梁行3間(4.44m)の2階建て、入母屋造りの屋根を持つ櫓です。 この櫓は、正保年間(1644〜1648年)頃に建てられたのが始まりのようです。 宝暦13年(1763年)の大火で焼失しましたが、その再建は明和年間(1764〜1772年)頃ではないかと推定されます。
 「畳櫓」 という名称については、祇園社(現在の八坂神社)から見た方角(たつみ)が由来する説や中に畳が敷かれていたからという説等がありますが、はっきりした由来は不明です。
時鐘櫓跡-1
時鐘櫓跡-2
時鐘櫓跡-3
 時鐘(ときのかね)
 この時報楼の鐘は 「原山時鐘;はらやまときかね」 といいます。 鐘に刻まれた銘によると、元禄13年(1700年)に鋳造されたとあります。 その後、寛政2年(1790年)に改鋳され、江戸末期までは原山時鐘堂(二王座)で時を告げていたものと記録に残っています。
 明治6年(1873年頃)の臼杵城廃城後、この 「原山時鐘」 が臼杵城跡畳櫓横へ移され、その後も昭和末期まで、鐘の音を聞くことができました。
 しかし、いつの頃からか鐘の撞(つ)き手がなくなり、「鐘の音」 は途絶えたままとなっていました。 平成20年(2008年)、臼杵城跡西ノ丸鐙坂の土塀復元に際し、この鐘は畳櫓横から約140年ぶりに、ここ時鐘櫓跡に置かれたが、鐘の音が復活することはありませんでした。
 そこで、平成22年(2010年)6月、臼杵ロータリークラブは、創立50周年記念事業として、鐘の音を復活するため、「時報楼」の整備を行いました。
 遠い元禄の昔から、うすき市民の思い出に刻まれつづけた鐘の音を感じていただければ幸いです。
大門櫓
 大門櫓(だいもんやぐら)
 17世紀初頭に城内通行の利便を高めるために造られたと思われる櫓門で、17世紀後半に二の丸居館ができると玄関口のような存在になりました。 平成12年に摸擬復原建物が整備されました。 両脇の石垣は18世紀後半とみられる 「亀甲積;きつこうづみ」 です。
二の丸跡
大門櫓をくぐると、二の丸跡に出ます。
臼杵護国神社
現在、二の丸跡には 「臼杵護国神社」 があります。
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 臼杵公園(臼杵城跡)
 大友宗麟によって築かれ、江戸時代は臼杵藩5万石の城として幾多の歴史を積み重ねてきた臼杵城。 春になると約千本の桜が見事に咲き誇り 「臼杵城址桜まつり」 が行われます。
 尚、写真の説明文は、うすきがいど、臼杵城散策マップや案内板より引用しました。
| 九州・大分の旅(臼杵) | 19:00 | comments(0) | - |
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