ミキモト真珠島にある 「御木本幸吉記念館」。
入口を入ると、うどん屋が復元されています。
『阿波幸;あわこう』 復元 − 慶応3年(1867)頃の 『阿波幸』 ー
御木本幸吉(幼名 吉松) 9歳。 石臼を土間に据えうどん屋と製粉業を営んでいた。
暖簾をくぐって中に入ります。
うどん屋の長男 吉松(きちまつ)誕生
御木本幸吉は 安政5年(1858)1月25日 鳥羽で代々続くうどん屋 『阿波幸』 の長男として生まれる。 祖父吉蔵父音吉の名をもらい 幼名は吉松。やがて8男3女(男2人は幼少のとき死亡)の大家族となる。 この年の6月には日米修好通商条約が結ばれ 日本は開国という大きな変化を迎えようとしていた。
母 もと・・・・・・安政4年(1857)2月 18歳で音吉に嫁ぐ。9人の子供を育て面倒みがよくまわりの人々から慕われた。 大正6年82歳で没。
当時の生活様式を見ることができます。
「阿波幸うどん」
御木本幸吉の生家 「阿波幸」では、どんなうどんを出していたのでしょうか?
今に残る丼のかたち(大きさや深さ)から、麺につゆを少しかけた 「伊勢うどん」 だったと想像されます。 太くて軟らかい麺に、煮干などから取った 「だし」 と 「たまり」 を合わせたつゆをかけて食べる伊勢うどんは、もともと伊勢を中心とする地方の食べ物でした。 たまりは、赤味噌作りと同じ工程から出来る調味料で、伊勢湾一帯で用いられています。 対岸の知多半島でも同様のたまりを使ったうどんがあるそうです。
太い麺を時間をかけて軟らかく茹で、玉にして一旦取り置き、注文が入ると熱湯で温めてつゆをかけ、葱の小口切りを薬味に散らして供します。 丼は小さく、これならひとりで何杯もたべられますね。
青年時代 『幸吉をとりまく世界』
20才で家督をつぎ 幸吉(こうきち)と改める。
明治11年(1878) 吉松は20才で家督をつぎ御木本幸吉と改める。 岩佐孝四郎に福沢諭吉の 『西洋事情』 を教えられた幸吉は 鳥羽以外の広い世界を見てみたい ぜひ東京に行きたいと思った。
その前年 1月25日 明治天皇の御召艦が 大和(奈良県)へ行幸途中暴風雨にあい鳥羽に入港された。 天皇は行在所(あんざいしょ)の常安寺まで徒歩でむかわれる。 沿道にいた幸吉は 後年(明治38年)陛下より拝謁を賜ることになるとは 夢にも思わなかったことだろう(説明パネルより)
東京・横浜視察旅行
横浜で・・・・真珠や海産物に着目!
幸吉は父の許しをえて 明治11年(1878)3月 片道11日間歩いて東京へ・・・見るのも 聞くのも すべてが驚きだった。 とくに横浜で中国商人がイリコ・干しアワビなどを売買しているのに目をつけ 自分も海産物を商売にしようと決心。
なかでも 志摩真珠が高い値段で取り引きされているのをみたことは 幸吉の生涯を決定する大きな収穫となった。
当時の真珠事情
志摩真珠は、江戸時代から有名な志摩の特産品。 大粒の真珠はまれでケシと呼ばれる小粒が主だった。 中国では 真珠の粉末が薬用として使われケシ真珠も高価に売買された。 また乱獲のため資源が減少しはじめていた。
人命救助で新聞の威力を知る
鳥羽への帰り道 箱根山中で旅の道づれになった静岡の茶商がとつぜん気を失い倒れた。 幸吉が持っていた薬 「寶丹;ほうたん」 を飲ませると意識が快復。 これが人命救助の美談として 静岡をはじめ東京や伊勢の新聞に掲載される。
鳥羽に帰るとみんなの話題になっていた。 幸吉は新聞の威力を知り 話題作りはその後の商売に生かされる。
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写真 ミキモト真珠島、最後の見学は 「御木本幸吉記念館」 です。 鳥羽のうどん屋 「阿波幸」 の長男として生まれ、96歳で没するまでの幸吉の波乱に富んだ生涯と業績が、数多くの写真や実物、説明パネルによって、時代順に物語られています。