質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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PROFILE
坂本。比叡山延暦寺の旅 その40(完) 帰りの坂本ケーブル
参道-1
「ガーデンミュージアム比叡」 の撮影を終えシャトルバスで東塔バス停下車、駐車場脇のこの道を下って坂本ケーブル延暦寺駅へ向います。
参道-2
きれいに整備された延暦寺駅への道。
ケーブル延暦寺駅
シャトルバス東塔バス停から徒歩8分、坂本ケーブル延暦寺駅に到着。
ベンチの表示
駅前広場のベンチに掲示された書。
延暦寺駅からの眺望
延暦寺駅からの琵琶湖眺望。
無動寺参道
延暦寺駅直ぐそばににある 「無動寺参道」。 比叡山三弁財天の一つ東塔の 「無動寺弁財天」 があります。
延暦寺駅改札口
ケーブル延暦寺駅の改札口。
ケーブルのりば
ケーブルカーのりば。
ケーブルの風景-1
ケーブルカー中間点で上り車両と対面。
ケーブルの風景-2
全長2025m、日本一長いケーブルカー、のどかな風景です。
ケーブルの風景-3
ケーブル坂本駅、所要時間11分の快適な乗り心地でした。
ケーブルの風景-4
下ってきた坂本ケーブル 「縁」 号の勇姿です。
ケーブル坂本駅
登録有形文化財の 「坂本ケーブル・坂本駅舎」 に帰ってきました。 駅にはJR比叡山坂本駅行きのバスが接続しています。
坂本の紅葉
最後に、坂本駅のすぐそばのきれいな紅葉を撮影して今回の旅は終了です。
JUGEMテーマ:写真

 40回にわたる坂本・比叡山延暦寺の旅、今回を持って終了です。 坂本の美しい紅葉の時期に合わせた撮影の旅は快適でした。 石積みと紅葉が美しい坂本、比叡山の門前町として栄えた町並みは見所満載です。 また、日本一を誇る坂本ケーブルで行く延暦寺、スケールの大きさに驚きます。 シーズン中は観光客が絶えない東塔、西塔、そして横川は一度は見ておきたい世界文化遺産です。(完)
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 20:10 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その39 ガーデンミュージアム比叡
車窓からの風景
延暦寺 横川からシャトルバスで比叡山山頂へ向かう、車窓からの風景。
ガーデンミュージアム比叡-1
比叡山山頂バス停直ぐそこに 「ガーデンミュージアム比叡」 はあります。
ガーデンミュージアム比叡-2
 ガーデンミュージアム比叡
 モネ、ルノワール、ゴッホなどフランス印象派の画家たちは、花や庭園、自然の風景を好んで描きました。 ガーデンミュージアム比叡は、彼らが描こうとした風景をモチーフにデザインされた庭園施設です。 また、庭園内には彼らの作品を原寸大の陶板に再現し展示しています。 これは、彼らが制作したのと同じ屋外で絵画を鑑賞していただくためのものです。
 どうぞ、印象派の画家たちの愛した風景と彼らの代表的な絵画をお楽しみください。
ガーデンミュージアム比叡-3
ガーデンミュージアムの名画陶器、作品に手を触れて鑑賞できます。
ガーデンミュージアム比叡-4
ガーデンミュージアム比叡-5
名画陶板 クロード・モネ作 「草上の昼食」 モネが24歳頃の作品。
ガーデンミュージアム比叡-6
散策路が整備された園内、季節の花が咲いています。
ガーデンミュージアム比叡-7
ガーデンミュージアム比叡-8
名画をモチーフにして造られた 「睡蓮の庭」。
ガーデンミュージアム比叡-9
ガーデンミュージアム比叡-10
名画陶板 ゴッホ作 「ラ・クローの収穫」。
ガーデンミュージアム比叡-11
ガーデンミュージアム比叡-12
名画陶板 マネの作品 「テュイルリーの音楽会」。
ガーデンミュージアム比叡-13
ガーデンミュージアム比叡-14
名画陶板 ゴッホの作品 「ラングロワの橋」。
ガーデンミュージアム比叡-15
ガーデンミュージアム比叡 「園内案内図」。
ガーデンミュージアム比叡-16
園内散策路を名画陶板を鑑賞しながら進みます。 前方に見える建物は「展望塔」。
ガーデンミュージアム比叡-17
散策路から見える琵琶湖の風景。
ガーデンミュージアム比叡-18
素晴らしい見晴しの展望塔内部。
ガーデンミュージアム比叡-19
展望塔から見る琵琶湖の絶景です。
JUGEMテーマ:写真

 ここは、標高840mの比叡山山頂にある 「ガーデンミュージアム比叡」 です。 総面積17,000屐2001年にオープンした屋外庭園美術館です。 フランス印象派画家たちの名画45点が陶板で原寸大に再現されています。 また名画をモチーフにした庭も造られています。 園内には季節の花やハーブが咲き、6つのテーマに分けられたエリアにはモネやゴッホなどの名画陶板が展示されています。
 名画陶板は、半永久的に変色、褪色(たいしょく)、変形することがありません。 季節の花と名画を同時に屋外で観賞できるユニークな施設で撮影も自由。 筆者お勧めのお出かけスポットです。
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 21:07 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その38 延暦寺 横川(10) 親鸞聖人
親鸞-1
 出家得度 (一)
 親鸞聖人は、平安時代末期の1173(承安3)年に、京都の南東にあたる日野の里で誕生されたという。 父は藤原氏の流れをくむ日野有範である。 聖人 9歳の春、伯父の日野範綱にともなわれて、三条白川にある慈円(慈鎮)和尚の白川房で髪をおろして出家得度された。 そのとき範宴と名のられた。
親鸞-2
 修行 (二)
 親鸞聖人は出家すると比叡山に登られた。 比叡山は伝教大師最澄以来、幾多の名僧を輩出した仏教の根本道場である。 比叡山の中で、聖人は、源信和尚の流れをくむ横川において、堂僧として日夜修行に励まれた。 堂僧とは常行三昧堂で不断念仏を修する僧をいい、聖人は横川の首楞厳院で不断念仏を修していたとされる。
親鸞-3
 六角堂参籠 (三)
 20年にわたる比叡山での修行によっても、さとりを見いだすことができなかった聖人は、29歳の時、山を下りて京都の六角堂で百日間にわたる参籠を行われた。 今後の歩むべき道を聖徳太子に尋ねるためであった。 九十五日目の暁に、聖徳太子の示現の文を得ると、ただちに東山吉水で阿弥陀如来の本願念仏の教えを説いておられた法然聖人のもとを訪ねられ、ついに門弟となられた。
親鸞-4
 選択附属 (四)
 法然聖人は、善き人にも悪しきひとにも同じように本願念仏が 「生死出づべき道」 であることを一筋に説かれ、親鸞聖人は 「法然聖人にだまされて地獄に堕ちたとしても後悔しない」 とまで述べ、本願を信じ念仏する身となられた。 聞法と研学に励まれた親鸞聖人は、入門四年目に、法然聖人の主著である 『選択集』と 影像(肖像画)を写すことを許された。
親鸞-5
 信行両座 (五)
 親鸞聖人は、法然聖人の許しをえて、信心で浄土往生が定まるか、念仏の行を積んだ功徳によって往生するかという信不退・行不退の座を設けた。 多くの門弟たちが躊躇するなか、親鸞聖人とわずかな門弟だけが信不退の座に着き、やがて法然聖人も信不退の座を選ばれた。 また親鸞聖人が自分の信心と法然聖人の信心は同じであると述べたところ、他の門弟は反対したが、法然聖人は、ともに如来よりたまわりたる信心であるから親鸞聖人の信心と一つであると答えられた。
親鸞-6
 越後配流 (六)
 1207(承元元)年2月、専修念仏の教えが停止された。 法然聖人をはじめ、親鸞聖人などの門弟数人が罪科に処せられ、法然聖人は土佐(実際は讃岐)へ、親鸞聖人は越後(新潟県)へ流罪となられた。 親鸞聖人は、これを機に自らを 「愚禿親鸞」 と名のられ、非僧非俗(僧にあらず俗にあらず)の立場を取られた。 恵信尼さまと結婚をし、在俗のままで救われる道を歩まれたのである。
親鸞-7
 東国伝道 (七)
 流罪から五年後に赦免となった親鸞聖人は、やがて関東へ赴かれた。法然聖人から承けられた本願念仏の教えを伝えるためであった。 常陸(茨城県)を中心に、自ら信ずる念仏の喜びを人びとに分け与える積極的な伝道は、やがて多くの門弟を集めたが、聖人は 「親鸞は弟子一人ももたずさふらう」 と仰せになり、みな仏の弟子であるといわれた。 このような教化がおよそ20年経過した頃、聖人は故郷である京都へお戻りになった。
親鸞-8
 教行信証 (8)
 親鸞聖人は52歳の頃から 『教行信証』 の執筆に取り組まれた。 関東時代にほぼ原型が成立したといわれるが、聖人は晩年に至るまで、常に自己の宗教体験に照らし合わせて推敲を重ねられ、細部にわたって幾度となく手を加えてゆかれた。 『教化信証』 は、法然聖人から伝えられた教えを本願力回向の法義として体系的に示されたもので、仏教における浄土真実を余す所なく開顕されており、聖人の主著とされる。
親鸞-9
 御往生 (九)
 帰洛後、親鸞聖人は 『教行信証』 の完成を目指すとともに、著述や聖教の書写に専念された。 関東の門弟たちには和文の解説書や 「三帖和讃(うた)」 を授与され、あるいは手紙で分かりやすく質問に答えてゆかれた。 聖人が90歳にてご往生される時、「口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ」 であったという。 聖人の墓所は東山大谷に簡素なかたちで造られたが、覚信尼さまや門弟たちによって大谷廟堂が建てられ、これが後に本願寺となった。
親鸞-10
 親鸞聖人と比叡山
 浄土真宗の宗祖、親鸞聖人がお生まれになった平安時代末期は、藤原氏を中心とした公家社会から武士の台頭によって、大きく時代が移り変わろうとする転換期にあたっていた。 天候不順などにより全国的な凶作、飢饉がたびたび起こる中、戦火は京の都にもおよび、まさに末法と呼ぶにふさわしい社会不安を招いていた。
 聖人は1181(治承5)年、9歳の春ころ、伯父の日野範綱に伴われて慈円(慈鎮)和尚(比叡山第62世天台座主)の白川房で出家得度をされ、比叡山に登られて修行に励まれた。 伝教大師最澄が開いた比叡山は、法華・真言・禅・念仏の修行をする総合学問所であり、第3世座主円仁和尚が創始した不断念仏は「山の念仏」と呼ばれた。 それを受け継いだ良源・源信和尚によって横川に浄土教が形成されると、大きなうねりとなり、様々な影響を与えていった。 聖人はその横川の首楞厳院で堂僧を勤めておられたのである。
 1201(建仁元)年、聖人29歳のときに、比叡山を下り京の六角堂に百日の参籠をされて、尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰がれた。 そこで夢告をえると、ただちに東山吉水で本願念仏の教えを説いている法然聖人のもとを訪ねられた。 そこからまた百日間法然聖人のもとに通い続け、ついに弟子となられた。 入門4年目にして法然聖人の主著である 『選択集』 の書写と真影(肖像画)を写すことを許可されている。
 1207(承元元)年におこった専修念仏停止によって法然聖人は土佐(実際は讃岐)へ、親鸞聖人は越後へと流罪となり、親鸞聖人は愚禿親鸞と名告られ非僧非俗の立場に立たれた。 赦免ののち、関東に赴かれて本願念仏の喜びを多くの人に伝えられ、『教行信証』 を著された。 現在、浄土真宗ではこの執筆年である1224(元仁元)年を立教開宗の年と定めている。
 親鸞聖人は20年にわたる関東での教化を終えると、家族とともに京都にお戻りになった。 そこから聖人は執筆活動をさかんに行われ、和文の解説書や 「三帖和讃」 などを書いては関東の門弟たちに次々とお送りになり、教化につとめられた。 1263年1月16日(弘長2年11月28日)、聖人は三条富小路にあった弟善尋有の善法坊において、往生の素懐を遂げられた。 90歳であった。
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  延暦寺 横川にゆかりある 道元禅師、日蓮聖人、親鸞聖人の布教伝道絵看板を紹介しました。 横川の撮影後シャトルバスで比叡山山頂へと向い 「ガーデンミュージアム比叡」 を撮影。 次回、写真展示しますので見て下さい。
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 20:10 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その37 延暦寺 横川(9) 日蓮聖人
日蓮聖人-1
 1. 日蓮聖人ご誕生
 貞応元年(1222)二月十六日、安房(あわ)の国(千葉県)小湊の海辺に、ときならぬ蓮の花が咲き誕生され、善日麿(ぜんにまろ)と命名されました。
日蓮聖人-2
 2. 得 度(とくど;剃髪して仏門に入ること)
 天福元年(1233)五月十二日、安房の国 清澄寺に入り道善房の弟子となられ、是生房蓮長(ぜんしょうぼうれんちょう)と改名されました。
日蓮聖人-3
 3. 三十番神示現
 比叡山横川の定光院を住居として勉学に励んだ蓮長法師を守護すべく三十番神(さんじゅうばんじん;国土を1ヵ月30日間、交替して守護するとされる30の神)が示現されました。
日蓮聖人-4
 4. 立教開宗
 仏教の真髄は法華経に在りという結論に達した蓮長法師は自ら日蓮と名のり、故郷清澄山の旭ヶ森に立ち太陽に向かってお題目を唱え立教開示を宣言せられました 
日蓮聖人-5
 5. 辻 説 法
 自らの所信に従い毎日鎌倉小町の辻に立って道ゆく人々に説法されました。 瓦石が飛んで迫害のご生涯が始まりました。
日蓮聖人-6
 6. 龍の口法難
 立正安国論の幕府献上によって法難いよいよ激しく遂に捕えられて刑場に引きすえられた。 有名な龍の口法難であります。
日蓮聖人-7
 7. 佐渡流罪
 危うく頚(くび)の難をのがれた日蓮聖人は北寒の地佐渡へ流罪となり、塚原三昧堂に於て阿仏房に襲われましたが、逆にこれを教化し生涯の仏弟子とされました。
日蓮聖人-8
 8. 国 諌(こっかん;国を諌めさとすこと)
 日蓮聖人が既に立正安国論に予言された通り蒙古来襲の危機迫り来る、これを知った聖人は三たび幕府を諌め救国の真情を吐露されました。
日蓮聖人-9
 9. 身延山思親閣(みのぶさんししんかく)
 身延山へ入られた日蓮聖人は日々険しい頂上へ登られ、遥か故郷の空をのぞみ師匠・父母を偲んで追善の回向(えこう;成仏を祈ること)をされました。 今に伝わる思親閣の霊場であります。
日蓮聖人-10
 10. ご 入 滅
 住みなれた身延山より艮(うしとら;東北)に当る武蔵の国池上(今の本門寺)の地、領主池上宗仲の館に於て、ご入滅に先立ち、枕辺に法孫經一麿(後の日像上人)を呼ばれ頭を三たびなでて帝都弘教の大事を付嘱されました。 時に弘安五年十月十三日(1282) 六十一年のご生涯でありました。
JUGEMテーマ:写真

 身延山は山梨県南巨摩郡身延町と早川町の境にある標高1,153mの山です。  山麓の標高400m付近に日蓮宗総本山である身延山久遠寺があり、山頂には日蓮が父母を偲んで建立したと言われる奥之院思親閣があります。 身延山の参拝客のほか、山頂からの眺望がよいため観光客が多く訪れます。
 身延山からの眺望や奥之院思親閣はこちらに写真展示しています。
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 19:23 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その36 延暦寺 横川(8) 道元禅師
道元-1
 1. 道元禅師(どうげんぜんじ)様のご誕生
 道元禅師様は正治2年(1200)1月26日(旧暦1月2日)、久我通親(こがみちちか)公をお父さまに、藤原基房公の娘をお母さまとして、京都の地に御誕生に・・・・・・。
道元-2
 2. 出 家
 道元禅師様は、3歳の時にお父さまを、8歳の時にお母さまを亡くされ深く世の無常を感じられ、出家の志をおこされました。
道元-3
 3. 比叡山での得度(とくど;剃髪して仏門に入ること)
 出家を志された道元禅師様は14歳の4月9日、横川般若谷千光坊に入り、天台座主70世公円僧正様について得度されました。 現在、横川の元三大師堂近くに、得度霊蹟碑が建立されています。(略図2)
道元-4
 4. 禅の教えを求めて中国へ
 比叡山での勉学を終えられた道元禅師様は、貞応2年(1223)正しい仏道を求めて宋(現在の中国)へ渡られ、寧波の港で阿育王山(あいくおうざん)の典座(てんぞ;修行僧の食事を司る役)和尚と出会い、禅の修行姿勢を学ばれました。
道元-5
 5. 悟 り
 道元禅師様は、宋の各地を歴訪され、ついに現在の天童山景徳寺(けいとくじ)で、如浄(にょじょう)禅師様と出会われ、厳しい参禅修行ののちお悟りを開かれました。
道元-6
 6. 禅の教えの開示
 宋から帰国された道元禅師様は、京都 建仁寺で過ごされ、正しい坐禅を勧める書として 『普勧坐禅儀;ふかんざぜんぎ』 を著されました。 その後、深草の安養院(現在の欣浄寺;ごんじょうじ)に移られ、生涯の大著 『正法眼蔵;しょうほうげんぞう』 の撰述(せんじゅつ;書物を著すこと)を始められます。(略図3)
道元-7
 7. 初開道場・興聖寺の開創
 道元禅師様のもとに集まる求道の人々は日増しに多くなり、坐禅修行のための道場が求められ、観音導利院興聖宝林寺(現在の興聖寺)が、わが国最初の坐禅道場(僧堂)として開創されました。天福元年(1234)のことでした。(略図4)
道元-8
 8. 永平寺の建立
 新しい禅仏教の興隆のため、道元禅師様は如浄禅師様のみ教えにしたがって、新天地を求めて深山幽谷の地・越前に移られました。そして、寛元2年(1244)大仏寺(現在の大本山永平寺)を建立されました。
道元-9
 9. 木の芽峠の別れ
 永平寺に移られて10年目の建長4年(1252)の夏ごろから健康をそこねられた道元禅師様は、翌春永平寺をお弟子の懐奘(えじょう)和尚様に譲られ、療養のため上洛されることになります。義介(ぎかい)和尚様とは旅の途中の木の芽峠でお別れになりました。
道元-10
 10. 入 滅
 上洛された道元禅師様は、西洞院高辻の俗弟子・覚念(かくねん)の屋敷で、手厚い看護を受けられましたが、薬石効なく、建長5年(1253)9月29日(旧暦8月28日)にお亡くなりになりました。(略図5・6)
道元-11
 11. 道元禅師様御遺跡略図
 道元禅師様のご生涯の大半は、京都でお過ごしになられました。 そのため、数多くの御遺跡が残されております。 比叡山横川の得度霊蹟をはじめ、それぞれ、顕彰碑等もたてられ由来を伝えております。
JUGEMテーマ:写真

 横川の入口に掲示されている、横川にゆかりのある 「道元」 「親鸞」 「日蓮」 の布教伝導絵看板を紹介します。 帰宅後じっくり読みたくて撮影してきました。

 【ミニ知識】 道元(どうげん)・・・・日本史事典より
 1200~1253 鎌倉時代の禅僧。 日本曹洞宗の開祖
 初め比叡山で天台宗を修め、ついで栄西に禅を学ぶ。 1223年入宋し曹洞禅を修め、帰朝後、坐禅第一主義による厳格な宋風純粋禅を唱えた。 公武の権力者との結びつきを避け、1243年越前(福井県)の土豪波多野義重に招かれ永平寺を創建し、弟子の育成に専念した。 著書に 『正法眼蔵』 『学道用心集』 など。
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 19:36 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その35 延暦寺 横川(7) 西国三十三所観音石仏
總持寺-1
總持寺-2
第二十二番 總持寺(大阪府茨木市) 千手観世音菩薩
勝尾寺-1
勝尾寺-2
第二十三番 勝尾寺((大阪府箕面市) 十一面千手観世音菩薩
中山寺-1
中山寺-2
第二十四番 中山寺(兵庫県宝塚市) 十一面観世音菩薩
円教寺-1
円教寺-2
第二十七番 円教寺(兵庫県姫路市) 六臂如意輪観世音菩薩
成相寺-1
成相寺-2
第二十八番 成相寺(京都府宮津市) 聖観世音菩薩
松尾寺-1
松尾寺-2
第二十九番 松尾寺(京都府舞鶴市) 馬頭観世音菩薩
宝厳寺-1
宝厳寺-2
第三十番 宝厳寺(滋賀県長浜市・竹生島) 千手千眼観世音菩薩
尚、宝厳寺はこちらに写真展示しています。
長命寺-1
西国三十三所 第三十一番 姨綺耶山(いきやさん) 
長命寺-2
長命寺-3
第三十一番 長命寺(滋賀県近江八幡市) 千手十一面聖観世音菩薩
JUGEMテーマ:写真

 長命寺 伝承によれば、第12代景行天皇の時代に、竹内宿禰がこの地で柳の木に 「寿命長遠諸願成就」 と彫り長寿を祈願した。 このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。 その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。 これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。 太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。 太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。 その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。

 長命寺にあやかって、先日の静岡新聞に、公開講座2012 聞いてなるほど!健康ライフと題して女優、歌手、版画家 ジュディ・オングさんの講演内容が紹介されていました。 その中で中国の画家が示した長生きのコツ、中国の画家劉海粟は、108歳まで生きました。 93歳のときに書いた詩の内容を紹介します。 「腹七分目で医者いらず。 物事は七割できたら満足しよう。 足るを知るべきだ。 人のいい所を見つけて、付き合いましょう。 ボランティア、チャリティーをすると、すがすがしさを感じます。 これらのことをすれば、長生きできます」。
 健康は自分しか管理できません。 健康にいいことを実行するのは、自分です。 私は体を一つの花瓶として考えます。 花瓶にひびが入ったら、どうしても水が漏れます。 どんなにくっつけても、漏れてしまいます。 補強することも大切ですが、壊さないのが一番です。 健康を害さないようにするには、多多少の我慢、多少の努力でコントロールすることです。 健康になった姿を想像しながら、楽しみながら努力できるといいですね。  
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 19:21 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その34 延暦寺 横川(6) 西国三十三所観音石仏
青岸渡寺-1
西国三十三所 第一番 那智山 
青岸渡寺-2
青岸渡寺-3
第一番 青岸渡寺(せいがんとじ;和歌山県那智勝浦町) 如意輪観世音菩薩
尚、青岸渡寺はこちらに写真展示しています。
紀三井寺-1
紀三井寺-2
第二番 紀三井山 紀三井寺(きみいでら;和歌山県和歌山市) 十一面観世音菩薩
粉河寺-1
粉河寺-2
第三番 風猛山 粉河寺(こかわでら;和歌山県紀の川市) 千手千眼観世音菩薩
南円堂-1
南円堂-2
第九番 興福寺南円堂(奈良県奈良市) 不空羂索観音菩薩像
尚、南円堂はこちらに写真展示しています。
三室戸寺-1
三室戸寺-2
第十番 明星山 三室戸寺(みむろとじ;京都府宇治市) 千手観世音菩薩
六角堂-1
六角堂-2
第十八番 紫雲山 六角堂(京都府京都市) 如意輪観世音菩薩
革堂-1
革堂-2
第十九番 霊麀山 革堂(こうどう;京都府京都市) 千手観世音菩薩
JUGEMテーマ:写真

 西国三十三所一番那智山から三十三番谷汲山までの観音石仏がこの横川の地に鎮座しています。 その内の15体に参拝してきました。 観音様の穏やかな表情に心が和みます。
 西国三十三所とは、近畿2府4県(大阪府・京都府・滋賀県・兵庫県・和歌山県・奈良県)と岐阜県に点在する33か所の観音霊場の総称。 これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡札行であり、現在も多くの参拝者が訪れています。(フリー百科事典・ウィキペディアより)
| 坂本・比叡山延暦寺(後編) | 19:18 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その33 延暦寺 横川(5) 横川散策
四季講堂
元三大師堂は正式には 「延暦寺 横川 四季講堂」 と云い、国の重要文化財です。
元三大師道
右側の参道は 「元三大師道」 と呼ばれています。
宝篋印塔
 宝篋印塔(ほうきょういんとう) 伝教大師ご出家得度一千二百年奉讃記念、と刻まれています。 宝篋印塔とは、供養塔の一種、中には 『宝篋印荼羅尼経』 を納めたのでこの名がある。 蓋の四隅に馬耳状の飾りがあるのが特色で、それが垂直に近く立っているには中世のもので、外側にはり出しているのは近世のものである。(日本史事典)
天台宗修行道場
天台宗修行道場、これより先は入れません。
句碑
中尾吸江(なかお きゅうこう)の句碑 「霧がくれ 杉がくれ ゆく 比叡の僧」。
高さ86cm、元三大師堂前に昭和55年(1980)秋に建立されました。
写経塔
森林の中に建つ 「写経塔」 など。
道元禅師得度霊跡
道元禅師得度霊跡
祠
静寂の中にある祠
案内板
境内で目にした案内板
保存地区
歴史的風土特別保存地区について
JUGEMテーマ:写真
 
 歴史的風土特別保存地区について(掲示板より)
 この付近は、古都保存法に基づき延暦寺横川(よかわ・・・よこかわではありません)歴史的風土特別保存地区に指定されています。
 慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)により修行の地を求め開かれた延暦寺横川地区は、東塔、西塔と並ぶ延暦寺三塔のひとつとして歴史上重要な地域であり、横川中堂等の歴史資産と周辺の豊かな奥深い自然が一体となって古都大津の特徴ある歴史的風土を構成しています。
 現代を生きる私たちが先人たちから脈々と受け継がれてきたこれらの枢要(すうよう;かんじんなところ)な歴史的風土を次世代に継承し、古都における伝統と文化を育んでいくことが必要です。
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坂本・比叡山延暦寺の旅 その32 延暦寺 横川(4) 元三大師堂
元三大師堂-1
ここは、延暦寺 横川 元三大師堂です。
元三大師堂-2
 元三(慈恵)大師について
 元三大師は、僧名を良源(りょうげん)大僧正という。 今から約千年前に出られた近江の人、比叡山十八代目の座主に昇り、この間二十年にわたり比叡山の教義を確立し、学問を高め、荒れていた比叡山を復興し、横川の地で幾多の弟子を育てられ後世中興の祖と仰がれる。
 門下三千人といわれ、この中からは我が国浄土教の祖といわれる恵心僧都(源信)、慈忍和尚(尋禅)、覚運、覚超師といった名僧が輩出された、常に横川の地に住し、法力、霊力の持主としても知られ常に護法の権化として人々の魔を除き、家庭の厄除けや農業における五穀の農作の守り神として今日も広く信仰を集めている。
 また大師は、全国いたるところに使われている 「おみくじ」 の元祖としても知られる。 元旦の三日に亡くなられたので通称、元三大師と親しみをこめて呼ばれ、今年は大師の一千年大遠忌(亡くなってから一千年目)の年にあたる。
             (絵)元三大師厄除護符
                   昭和五十九年一月吉日 比叡山 元三大師堂
元三大師堂-3
 門前に立つ石碑 「元三(がんざん)大師と角(つの)大師の由来」
 永観二年(984) 全国に疫病が流行して ちまたでは疫病の神が徘徊し 多くの人々が 次々と全身を冒されていった お大師さまは この人々の難儀を救おうと 大きな鏡の前に自分のお姿を映されて静かに目を閉じ禅定(坐禅)に入られると お大師さまの姿はだんだんと変わり 骨ばかりの鬼(夜叉)の姿になられた 見ていた弟子達の中でただ一人明普阿闍梨だけがこのお姿を見事に写しとられた。
 お大師さまは 写しとった絵を見て 版木でお札(ふだ)に刷るように命じられ 自らもお札を開眼された 出来上ったお札を一時も早く人々に配布して各家の戸口に貼りつけるように再び命じられ 病魔退散の実を見事に示されたのであった やがてこのお札(角大師の影像)のあるところ病魔は怖れてよりつかず 一切の厄難から逃れrことが出来た 以来千余年 このお札を角大師と称し 元三大師の護符として あらゆる病気の平癒と厄難の消除に霊験を顕わし全国的に崇められているのである。
元三大師堂-4
門前に立つ石碑 「おみくじ発祥之地」
元三大師堂-5
 元三大師堂 村上天皇の御願 康保四年の建立にして慈恵大師在世の時より四季に大乗経を講する霊場なり 今に至るも猶懈怠なく修行す 天正年中に東照神君淨財を喜捨し再建せらるも寛永八年大風の為倒壊す 承応元年後水尾天皇の御願に依て改造せらる 堂内に桓武天皇の聖像並に慈恵大師の画像を安置す
     平成十二年 庚辰四月謹写
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 このお堂は、ご祈願の道場であり、おみくじの道場でもあります。 ご参拝の方・お願いごとのある方は堂内へ静かにお入りください。(掲示版より)
元三大師堂-6
門に掲げられた扁額。
元三大師堂-7
門をくぐると正面にお堂が望めます。
元三大師堂-8
まずお堂に参拝します。
元三大師堂-9
お堂正面に掛けられている大津絵、「弁慶」「藤娘」。
元三大師堂-10
門をくぐって右側に 「手水舎」 があります。
元三大師堂-11
雞足院潅室
元三大師堂-12
舊(?)恵雲院
元三大師堂-13
舊恵雲院の板壁には草鞋が掛けられています。
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 元三大師堂 比叡山延暦寺中興の祖・元三大師良源の住居跡と伝わります。 康保4年(967)、村上天皇の勅命で四季に法華経が講義されたことから、四季講堂と呼ばれるようになりました。現在は元三大師像を本尊としており、「横川のお大師さん」 と親しまれています。(HP観光・温泉ガイドより)
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坂本・比叡山延暦寺の旅 その31 延暦寺 横川(3) 虚子の塔と恵心院
静寂漂う参道
静寂漂う延暦寺 横川参道
虚子の塔-1
虚子の塔
虚子の塔-2
逆修爪髪塔 高浜虚子の生前墓で、1953年に建立。 没後に遺骨が分骨された。 虚子は椿が好きだといい、墓の周りに植えたという。(HP京都寺社案内より)
虚子の塔-3
虚子の塔-4
 虚子の塔
 高浜虚子は在京の時比叡山に登り 「叡山詣」 を書き、その横川中堂の政所(まんどころ)一念寺に泊り 「風流懺法(ふうりゅうせんぽう)」 を書き比叡山をこよなく愛した俳聖である。 昭和28年10月に逆修爪髪塔として供養塔が建立された。
           清浄な月を見にけり 峰の寺 虚子 
虚子の塔-5
「虚子の塔」 に寄り添うように立つ句碑 「御僧に別れ惜しなや 百千鳥」 虚子の次女で俳人の星野立子(1903~1984)。
一念寺跡
 一念寺跡 石碑の側面に次のように刻まれています。
 横川中堂の政所跡 明治後期に高浜虚子がこの地に籠り、小説 風流懺法 を書いた。 小説の中の小僧一念からとって名付けられた。
鐘楼-1
鐘楼-2
横川の鐘楼
恵心院-1
恵心院入口 石碑に 「南無阿弥陀仏 極重悪人無他方便唯称弥陀得生極楽」 とある。
恵心院-2
 恵心院(えしんいん) 恵心僧都の旧跡で、藤原兼家が元三慈恵大師のために建立した寺です。 門前に 「極重悪人無他方便唯称弥陀得生極楽」 とあるように、念仏三昧の道場です。 恵心僧都は恵心院に篭り、仏道修行と多くの著述に専念され、有名な 「往生要集」 や 「二十五昧式」 「六道十界ノ図」 「弥陀来迎ノ図」 等を著し、浄土教の基礎を築かれました。 毎年六月十日のご命日には 「二十五三昧式」 の講式が唱えられ、僧都の報恩法要が営まれています。 付近の都率谷墓地に恵心廟があります。
恵心院-3
境内の黄葉がきれいでした。
恵心院-4
恵心院
恵心院-5
 院の境内に立つ石碑 「源氏物語」 の横川僧都遺跡。
 紫式部の 『源氏物語』 には 『法華経』 をはじめ、比叡山が多く登場する。 たとえば、「賢木」 の巻では光源氏、天台座主から受戒、横川僧都により剃髪したとあり、「手習」 の巻では入水した浮舟を横川の 「なにがしの僧都」(恵心僧都) が助けており、「夢浮橋」 の巻では薫が毎月根本中堂に詣でて、「経・仏など供養」 したとある。『紫式部日記』には天台座主 「院源僧都」 の記述があり、『源氏供養表白』 は天台の安居院作である。
箸塚弁財天
 箸塚弁財天(はしつかべんざいてん) 良源は最澄に倣い千僧供養を行う。 その際使用した箸を埋めて弁財天を祀った。 東塔の無動寺弁財天、西塔の箕淵弁財天と共に比叡山三弁財天の一つに数えられています。
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 静寂が漂う横川の参道を散策しながら撮影してきました。 天長年間(824〜34)の開基と伝えられています。 老樹におおわれた閑寂な修行地で、虚子の塔、鐘楼、恵心院、箸塚弁財天などを参拝してきました。

 【ミニ知識】 高浜虚子(たかはま きょし)・・・・日本史事典より
 1874〜1959 明治〜昭和期の俳人
 本名は清。 愛媛県の生まれ。 正岡子規の高弟。 『ホトトギス』 の編集を担当。 子規没後、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう) の新傾向に対し、師の伝統を守り、「花鳥諷詠」 の写生の俳風を確立し、俳壇の中心となった。 1954年文化勲章受章。
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