質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

CALENDAR
S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< November 2017 >>
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
  • 小京都 人吉の旅 その19 犬童球渓
    miya (11/03)
  • 小京都 人吉の旅 その19 犬童球渓
    村井 勝好 (10/31)
  • 東京のんびり家族旅 その4 高尾山 薬王院山門(四天王門)
    野田耕一郎 (09/30)
  • 東京のんびり家族旅 その4 高尾山 薬王院山門(四天王門)
    野田耕一郎 (09/30)
  • 第63回 熱海梅園梅まつり(9) 中山晋平記念館
    miya (09/06)
  • 第63回 熱海梅園梅まつり(9) 中山晋平記念館
    純ちゃん (09/02)
  • 和歌山の旅 その51 和歌浦散策 番所庭園
    miya (11/14)
  • 和歌山の旅 その51 和歌浦散策 番所庭園
    k-matsui (11/11)
  • 滋賀・長浜と彦根の旅 その55 清涼寺(彦根市)
    miya (10/29)
  • 滋賀・長浜と彦根の旅 その55 清涼寺(彦根市)
    五島 (10/26)
LINKS
PROFILE
坂本・比叡山延暦寺の旅 その15 西教寺塔頭 安養院
西教寺総門全景
西教寺総門全景
安養院-1
西教寺総門と道路を隔てて建つ 「西教寺塔頭 安養院(あんよういん)」
安養院-2
安養院-3
安養院-4
安養院本堂・忠霊堂
安養院-5
「安養の池」 より 「弁天堂」 を見る。
安養院-6
弁財天を安置している 「弁天堂」。
安養院-7
安養院-8
安養院-9
安養院の境内、紅葉がきれいでした。
穴太衆積み石垣-1
穴太衆積み石垣-2
西教寺の参拝と撮影を終え、再び坂本の中心街へ。 穴太衆積みの石垣が見事です。
子育て地蔵-1
子育て地蔵-2
 子育て地蔵 早尾地蔵尊(六角地蔵堂)
 本尊は比叡山の開祖伝教大師最澄上人ご自作の石地蔵尊と伝え、坂本六地蔵淵源の地であります。 この地蔵尊は変じて真盛上人(西教寺開山)として現れ、入寂の後に再び地蔵尊に復されたという霊験あらたかな尊像であり、伝教大師が童子養育に心を注がれながら彫まれたので 「子育て地蔵」 とも呼ばれています。
         伝教の彫みおかれし石地蔵
                   姿を変えて出ずる真盛
霊山院
ビルマ釈尊像 霊山院(りょうぜんいん)。 比叡山延暦寺の僧侶の隠居所であった里坊の一つです。(坂本4丁目4-26)
比叡山高校
 比叡山高等学校の校門。 1873年設立。 男女共学。 中高一貫教育。
 校訓として ● 一隅を照らす(いちぐうをてらす) ● 能く行い能く言う(よくおこないよくいう) ● 己を忘れて他を利す(おのれをわすれてたをりす)。 伝教大師(最澄)の言葉とされる 「一隅を照らす者、これ即ち国宝であり而して能く行い能く言う者も亦(また)国宝にして己を忘れて他を利する者は慈悲の極みなり」 に因むもの。
美しい紅葉-1
比叡山高校の横を通る道、紅葉がきれいです。
美しい紅葉-2
この先に、比叡山延暦寺に行く 「坂本ケーブル駅」 があります。
美しい紅葉-3
ふり返ると、紅葉がきれいです。
JUGEMテーマ:写真

 坂本・比叡山延暦寺の旅、一日目は比叡山麓石積みのある門前町坂本を堪能しました。 紅葉が最も美しい時期で、歴史を感じる石垣や建造物を随所に見ながらの旅は素晴らしいの一言です。
 二日目は、滋賀県唯一の世界遺産 「比叡山延暦寺」 の参拝と撮影をしてきました。 写真展示しますので見て下さい。
| 坂本・比叡山延暦寺(前編) | 20:16 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その14 明智光秀の菩提寺・西教寺(2)
西教寺-1
寺標石柱 天台宗真盛派本山西教寺 明治11年(1878)建立。
西教寺-2
 西教寺は、聖徳太子が、仏法の師である慧慈・慧聡のために開創された寺で、推古天皇の26年(618)に大窪山の号をたまわり、天智天皇の8年(669)に西教寺の号を下賜されたと伝えられている。 寺記には天台座主慈恵大師良源大僧正・恵心僧都が念佛道場とした。 その後、比叡山で修行された真盛上人が文明18年(1486)入寺し、不断念佛の根本道場として西教寺を再興された。
 明治11年(1878)明治政府によって別派独立が公許、「天台宗真盛派」 の本山となった。 昭和16年(1941)に天台三派合同となったが、終戦とともに、昭和21年(1946)に天台宗三派、延暦寺(山門) 三井寺(寺門) 西教寺(盛門) が分離、天台宗真盛派を 「天台真盛宗」 と公称して独立、今日に至っている。  この寺標石柱は明治11年(1878)に建立されたものである。
西教寺-3西教寺-4
宝珠丸(宗祖 真盛上人幼形像)。
西教寺-5
総門入口に建立されている 「沢庵禅師の碑」。
西教寺-6
 沢庵禅師の碑
 この碑は江戸時代の禅僧沢庵禅師(1573〜1645)が慶長19年(1614)5月頃に42歳の時、近江を巡歴し 「石山行記」 という紀行文に書かれている文で、沢庵禅師は京都を出発し石山寺、三井寺を参詣、琵琶湖を船で坂本へ渡り西教寺を訪ねている一節である。
       西教古寺者真盛上人度生之古道場也、
       二六時中不断称名声覚待慈尊暁至此
       阿畴又不感激乎率賦一偈々
      
       西 方 行 者 卜 斯 山
       不 断 称 名 日 夜 閑
       水 鳥 樹 林 皆 念 仏
       見 来 安 養 在 人 間
                      沢庵叟
 西方行者(真盛上人)がこの山に居住されてから称名念仏が日夜絶えることなく静かに続けられている。 周囲の樹林や小鳥も皆な念仏を唱えているようだ。
この山に来てこの世の安住の地(極楽浄土)があるようにという詩である。
静寂地であり不断念仏道場である西教寺からうけた心情をそのままうたいあげている偈(げ;仏教の真理を詩の形で述べたもの)といえる。
西教寺-7
西教寺-8 
 念佛小僧 不断念佛相続が脈々と続いている当山では 「水鳥樹林皆念佛」 「見来安養在人間」 と沢庵禅師が詠んだ如く、全山、お念佛がこだましている。 思わず子供たち、念佛を唱えずにはおられない。 親は子供の成長を楽しみながらお念佛の御加護によって安養世界に導かれるのである。 可愛い童子の姿に思わず笑いが止まらない。 念佛小僧の功徳をいただいて下さい。     
西教寺-9
 西教寺と護猿(ござる・まもりざる)の由来
 西教寺の御開山真盛(しんせい)上人が善男善女と共に日夜六万遍のお念仏を唱え 「念仏の功徳」 によって民衆を救いました。 それ以後西教寺のお念仏が栄え、不断念仏の道場として五百余年絶えることなく今日受け継がれています。
 明応2年(1493)西教寺に法難がおしよせた時、手白の猿(ましら)が念仏の鉦(かね)を打ち上人の身代りを勤めて西教寺を護ったと言う有名なお話があります。 上人の御徳が鳥獣にも及んだ事は尊いことです。 それ以後身代りの猿は護猿(まもりざる)と言ってあらゆる災難を守ってくれます。 又尊い上人の恩徳により御猿の猿として世の親達には縁がござる。 福がござると云って親しまれ、猿はさるでも五猿(客ござる)と云って商売繁昌のお守りともされています。 以来ござる(五匹)の猿がお念仏を唱えているお姿がお守りとされています。      西教寺
西教寺-10
屋根に置かれた「護猿」。
西教寺-11
「宗祖 真盛上人御廟」 に彫られた「護猿」。
西教寺-12
西教寺-13
 明智光秀公辞世句
 これは江戸時代の元禄6年(1693)に書かれた「明智軍記」に因るもので、山崎の合戦で敗れた光秀公が、この偈(げ)を従士の溝尾庄兵衛に託して自刃したと伝えられている。 歴史上の論議はありましょうが、公の 「顕彰会」 二十周年を卜(ぼく)して、菩提寺である当山の墓所に碑を建立するものであります。
 大意は、修行の道には順縁と逆縁の二つがある。 しかしこれは二つに非ず、実は一つの門である。 即ち、順境も逆境も実は一つで、究極のところ、人間の心の源に達する大道である。
 而してわが五十五年の人生の夢も醒めてみれば、全て一元に帰するものだ。 という意に解せられ、光秀公の深い教養と人生哲学を表しています。
西教寺-14
   文学ゆかりの地
  小説 「細川ガラシャ夫人」 著者 三浦綾子
      鉦の音
 西教寺は、もう目の前にあった。 しんと静まったあたりの空気に本堂の方から鉦を叩く音が聞こえてくる。 その音が、一層静けさを深めている・・・・・
 カーン、カーンと間をおいてひびいてくる。 静かだ。 いかにも静かである。 やがて、光秀がいった。   ・・・人間、この音色のように澄みたいものじゃが・・・・
「お父上さまは、澄んでおられます。」  玉子はまじめな顔でいった。
「ほう、お玉の目には、父が澄んでうつるか?」 「澄んでおりませぬか」
・・・老僧はふり返りもしない。 無心にただ鉦を鳴らしつづけている。
    (なるほど、不断念仏じゃ)

 ここに来て、光秀はいつもふしぎな気持ちになる。 自分たちが、血なまぐさい戦場を駆けめぐっている時も、広いこの本堂に黙念と坐って、この老僧は、念仏をつづけていたのかと思う。 恐らく、この僧の一生は、南無阿弥陀仏の六字を称え、鉦を鳴らすことだけで終わるのであろう。 その老僧の心の中はわからない。 が、尊いことに光秀は思う。 戦争、強奪、疫病、災害などの絶えぬ世に、こんな一生を終る僧がいることは、言いようもなく尊いことに思われるのだ。
 「あ!これは、これは、御領主さま。」
 「御来山を存じませず、まこと失礼いたしました。」
 「いや、用があればわしが出向く。 わしは、この不断の鉦が好きなのじゃ。」

 坂本城に移ると同時に、光秀はこの西教寺の復興に力を貸した。信長が比叡山を焼く時も、光秀は全山のために慎重な配慮をした。(抜粋)

           ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 小説 「細川ガラシャ夫人」 は女流作家三浦綾子先生が昭和48年一月から2年5ヶ月に亘って執筆。 初めての歴史小説。 この小説の中に 「鉦の音」、「縁」 の中に光秀が坂本城主になってから西教寺の不断念仏の鉦のなる本堂へ妻煕子、末娘玉子(細川ガラシャ)、左馬助光春、郎党を連れての参詣の様子が描かれている。
西教寺-15
西教寺-16
西教寺-17
境内の美しい紅葉。
JUGEMテーマ:写真

 西教寺は京阪 「坂本駅」 から徒歩約20分のところにあります。 門前町坂本の中心から約1.5kmほどはなれていますが、本堂をはじめ数多くの文化財の宝庫です。
 特に紅葉の時期(11月下旬)は素晴らしいです。 明智光秀の菩提寺・西教寺、一度は参拝した寺院です。
| 坂本・比叡山延暦寺(前編) | 20:54 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その13 明智光秀の菩提寺・西教寺(1)
西教寺-1
天台真盛宗総本山 西教寺(さいきょうじ) 総門。
西教寺-2
西教寺は、明智光秀公と一族の菩提寺です。
西教寺-3
西教寺の総門(坂本城遺構)案内板。
西教寺-4
西教寺-5
総門をくぐると参道は紅葉がきれいです。(2011・12・1撮影)
西教寺-6
荘厳な建造物、「宗祖大師殿唐門」。
西教寺-7
唐門をくぐると正面に 「宗祖大師殿」。
西教寺-8
勅使門(ちょくしもん)。 天皇の意思を伝える勅使参向の出入りに使用する門。
西教寺-9
国の重要文化財 西教寺本堂。
西教寺-10
西教寺-11
 重要文化財 建造物 西教寺本堂 一棟 大津市坂本五丁目
 本堂は桁行七間、梁間六間、一重、入母屋造、本瓦葺の建物で、正面には三間の向拝を付けています。 棟札によると、元亀二年(1571)の織田信長の比叡山焼打ちによる本堂全焼後、天正二年(1574)に本堂の再興棟上が行われたことがわかります。その後、享保三年(1717)に第二十世の真際上人が再建に乗りだし門末壇徒から浄財を集め、元文四年(1739)に落成したのが、現在の本堂です。
 正面の欄間や須弥壇はすべて欅(けやき)の素木造りで豪華な彫刻を施し、それぞれ江戸時代の特色をよく表しています。 昭和衛六十一年五月二十四日に国の指定文化財となりました。    大津市教員委員会
西教寺-12
大津市指定文化財(昭和63年11月11日指定) 建造物 西教寺鐘楼(しょうろう)。
西教寺-13
 この鐘楼は、重要文化財の本堂の東側に、棟を南北に向けて建てられています。構造は、桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺です。
 総檜造で、上層は軒の出が深く重量感があり、それに呼応して下層の袴腰は裾が広く安定感があります。 蟇股(かえるまた)に配された猿の彫刻や籠彫の木鼻など、細部にえあたって精巧な意匠が施されています。
 内部に残された棟札や高欄の擬宝珠の刻銘から、本堂と同系の中嶋治良左衛門春道を棟梁として、天保二年(1831)に建てれたことが知られます。
西教寺-14
坂本城主明智日向守光秀とその一族の墓(右側大きな墓標が光秀の墓、左端の高い墓標が妻・熈子の墓)、左側の石碑は 「二十五菩薩来迎像」 天正12年(1584)冨田民部之進が、幼くして死んだ娘の往生浄土を願って造立。 一体一体には楽器を持った菩薩の姿が彫られています。
西教寺-15
この長い石段の先に、宗祖真盛上人御廟があります。
西教寺-16
西教寺-17
宗祖真盛上人御廟。
西教寺-18
西教寺の高台よりの眺望、琵琶湖が望めます。
西教寺-19
西教寺は紅葉の名所です。
JUGEMテーマ:写真

 西教寺は、聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈、慧澄のために創建されたと伝えています。 その後、久しく荒廃していましたが慈恵大師良源上人が復興、念仏の道場としました。 恵心僧都も入寺、修行されたところから次第に栄えるようになりました。
 鎌倉時代の正中二年(1325)に入寺された恵鎮(円観)上人は伝教大師が畢生(ひっせい;命が終るまでの間)の事業として提案された大乗円頓戒を復興、その後百有余年を経た文明18年(1486)に真盛上人が入寺されるに至り、堂塔と教法を復興、不断念仏の道場とされました。
 以来全国に約四百余りの末寺を有する総本山となりました。(西教寺案内より) 
| 坂本・比叡山延暦寺(前編) | 20:50 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その12 公人屋敷(旧岡本邸)
公人屋敷-1
市指定文化財 公人屋敷(旧岡本邸) 大津市坂本6-27-10 京阪坂本駅からすぐ。
公人屋敷-2
 公人(くにん)屋敷(旧岡本邸)
 ここ坂本は、比叡山延暦寺への物資を供給する門前町として古くから栄えていた。 江戸時代になると、多くの里坊(比叡山で修行を積んだ僧侶たちが天台座主の許しを得て住み込む隠居坊)が坂本に造られるようになり、僧侶や日吉神社の神職者などとともに、大工・屋根職などの職人や、延暦寺に物資を供給する商人など、多様な人々が生活するようになった。
 その中で、延暦寺の僧侶でありながら妻帯と名字帯刀を認められた 「公人」 と呼ばれる人々がいた。 公人は、三塔十六谷からなる延暦寺の堂舎・僧坊に所属し、年貢・諸役を収納する寺務を務めていた。
 坂本は、徳川幕府から延暦寺に寺領として寄進されていたため、幕府や大名などの武家からの直接的な支配を受けなかった。 その代わりに、延暦寺の三執行代、八学頭代、滋賀院留守居が寺領を支配し、そのもとで坂本町の行政全体を担う 「大年寄」 という役人が五人置かれた。 さらに、「大年寄」 のもとに、町ごとに 「四至内年寄」 といわれる 「年寄」 が置かれ、これらの役職を公人が務めたのである。
 坂本には近年までこうした公人の人たちが住んでいた住居 「公人屋敷」 が数多く残されてきたが、生活様式の変化などにより内部が原型をとどめないほど改装されている。 そうした中、代々公人を務められた岡本家の家屋は全体に旧状をよくとどめた社寺関係大型民家の特徴を示す住宅である。
 平成13年、岡本家から坂本地域の歴史的遺産の保存を目的として大津市に主屋(しゅおく)、米蔵、馬屋等の建物と敷地が寄贈されたことを受け、平成15年から保存改修工事に着手、平成16年秋に完工した。 その後、平成17年3月に、主屋、米蔵、馬屋の歴史的価値が認められ、大津市指定文化財(建造物)の指定を受けた。
公人屋敷-3
伝統的な佇まいが見学できます。
公人屋敷-4
公人屋敷の中心施設、主屋(しゅおく)の内部。
公人屋敷-5
公人屋敷-6
江戸時代後期の建築と推定されます。
公人屋敷-7
公人屋敷-8
時代を感じさせる階段と水屋。
公人屋敷-9
「むろ」 (室) 物の保存、断熱、乾燥、育成などのために作られた地下室。 自家製の味噌、醤油、漬物などを保存していました。
公人屋敷-10
主屋から見る、米蔵と馬屋。
公人屋敷-11
米蔵 現存する米蔵は、瓦に比叡山延暦寺の紋が使われていることからわかるように、岡本家の米蔵として使用されたものではなく、公人として徴収した年貢米などを蓄えておく延暦寺専用の米蔵でした。(公人屋敷案内より)
公人屋敷-12
馬屋 家畜として馬を飼育したわけではなく、主に滋賀院門跡等にあいさつのため坂本を訪れた上級武家の馬を預かる施設として設けられていました。
公人屋敷-13
公人屋敷の全景。
JUGEMテーマ:写真

 比叡山に点在する延暦寺寺院や優雅な庭園を有する里坊などを経済的に支えたのは全国の大名から寄進された浄財であり、延暦寺の寺領であった上坂本、下坂本などの村々から年貢として納められた農作物でした。 これらを取り仕切り、延暦寺の諸行事が滞りなく行われるよう、」当時の社会制度の安定に大きな役割を果たしていたのが公人たちでした。(公人屋敷案内より) 
| 坂本・比叡山延暦寺(前編) | 19:11 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その11 滋賀院門跡
滋賀院門跡-1
慈眼堂(じげんどう)撮影後、案内板に従って石段を下り 「滋賀院」 へ向かいます。
滋賀院門跡-2
格式の高い五本筋の白壁がある滋賀院門跡の堂々たる御成門。
滋賀院門跡-3
穴太衆(あのうしゅう)積みの石垣に白壁が美しい参道。
滋賀院門跡-4
滋賀院門跡 客殿玄関。 これより内仏殿や庭園などを見学します。(撮影禁止)
滋賀院門跡-5
 滋賀院門跡(しがいんもんぜき)
 元和元年(1615)慈眼大師天海(1536~1643)が後陽成上皇より法勝寺(京都北白川に在り六勝寺の一つで歴代天皇ご授戒の寺として四箇戒場の一つでもあった)を下賜されこの地に移築されたもので明暦元年(1655)後水尾天皇より滋賀院の号と寺領一千石を賜り江戸時代の末までは天台座主であった法親王が代々住まっておられた寺である。 外観は堂堂たる穴太衆積みの石垣に白壁がつづいており滋賀院御殿といわれる名に恥じない威容を見せている。御殿については明治11年(1878)11月火災のためすべて灰となったが現在の建物は山上より三塔それぞれ最高の建物を移築し明治13年5月復旧したものである。
根本傳教大師像
照隅苑-1
 滋賀院門跡の側に立つ天台宗宗祖・根本傳教大師像と照隅苑(しょうぐうえん)碑。
 石碑 照隅苑 この照隅苑は比叡山開創一千二百年慶讃大法会を記念し宗祖傳教大師の 「一隅を照らす是れ即ち国の宝なり」 の聖句より二文字をいただき命名した。 阿弥陀如来来迎図になぞらえ何処から眺めても素晴らしい楽苑であるように配石借景に工夫を凝らし四季それぞれに美しい回遊式庭苑である。 なお巨石は宗務庁舎建設の際に出土したものを用いている。 照隅苑を訪ねた人々が傳教大師のご精神である一隅を照らす人となり人類の幸福と世界の平和を願う心の安らぎを与える浄苑となれば幸である。 昭和六十三年三月吉日 比叡山開創一千二百年慶讃大法会事務局
照隅苑-2
照隅苑 写真は 「HP滋賀の仏閣」 より引用させてもらいました。
照隅苑-3
照隅苑より天台宗務庁玄関。 右側に傳教大師像と照隅苑碑が見えます。
JUGEMテーマ:写真

 坂本で最大規模を誇る本坊、滋賀院門跡。 歴代の天台座主が暮らした格式高い比叡山の本坊。 ひと際高い石垣と白壁に囲まれた約2万屬傍擇峩内には、内仏殿や狩野派の障壁画が見られる書院などが立ち並びます。 また、小堀遠州作と伝えられる庭園は見応えがあります。 
| 坂本・比叡山延暦寺(前編) | 20:09 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その10 慈眼堂
穴太衆積みの石垣-1
坂本の至る所で見られる 「穴太衆(あのうしゅう)積みの石垣」。
穴太衆積みの石垣-2
穴太衆積みの石垣-3
歴史を感じる石垣を見ながら 「慈眼堂(じげんどう)」 へ向かいます。
慈眼堂-1
慈眼堂-2
慈眼堂-3
 慈眼堂 慈眼大師南光坊天海大僧正の廟である。 徳川家康・秀忠・家光三代将軍に幕府の顧問として遇され元亀の兵火で全山焼土と化した比叡山の復古に尽力した。 寛永二十年家光の命により建立された。 慶安元年大師号の宣下を受ける。
慈眼堂-4
境内に建立されている桓武(かんむ)天皇供養塔。
慈眼堂-5
慈眼大師供養塔などの石碑が並びます。
慈眼堂-6
慈眼堂-7
境内に並ぶ13体の阿弥陀如来石像(室町時代)。
慈眼堂-8
慈眼堂-9
境内の紅葉がきれいでした。(2011.12.1 撮影)
JUGEMテーマ:写真
 
 旧竹林院より徒歩数分のところにある慈眼堂、織田信長の延暦寺焼き打ちの後、その復興に尽力した天海僧正(慈眼大師)の廟所です。 堂は宝形造(ほうぎょうづくり)で、前に石灯籠が二列に並ぶ。 また西側には、延暦寺歴代座主の墓や五輪塔とともに、大きな阿弥陀如来の石像が並びなど、厳かな雰囲気に包まれた境内です。
| 坂本・比叡山延暦寺(前編) | 19:00 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その9 庭園が美しい 「旧竹林院」
旧竹林院-1
国指定 名勝庭園 元里坊 旧竹林院入口 (大津市坂本5-2-13) 
旧竹林院-2
こちらは駐車場側からの入口。
旧竹林院-3
主屋の玄関。
旧竹林院-4
主屋の内部
旧竹林院-5
主屋の南西に約3,300屬猟躅燹聞饂慊衞松…躅燹砲広がります。
旧竹林院-6
屋外の名勝庭園を散策します。 敷石がきれいな散策路。
旧竹林院-7
手入れの行き届いた苔がきれいです。
旧竹林院-8
庭石や清流がきれいな庭園。
旧竹林院-9
静寂が漂う、おもむきのある情景です。
旧竹林院-10
大正年間に建てられた四阿(あずまや)、その側を流れる清流。
旧竹林院-11
大宮川の清流が園内をかけめぐります。
旧竹林院-12
旧竹林院-13
 茶室(小間;こま) この茶室(大津市指定文化財)は二つの出入口を設け、主人の両わきに、客人が並ぶという珍しい間取りで、天の川(あまのがわ)席と呼ばれています。 全国にも、武者小路千家東京道場以外、例がありません。
旧竹林院-14
清涼が漂う光景です。
旧竹林院-15
旧竹林院-16
旧竹林院-17
四季折々、しっとりした風情が漂う庭園です。
JUGEMテーマ:写真
 
 旧竹林院(きゅうちくりんいん)は、延暦寺の老僧が余生を過ごした里坊のひとつです。 八王子山を借景にした回遊式庭園には大宮川の清流が園内をかけめぐり、たっぷり植えられた木々、手入れの行き届いた苔が四季折々、しっとりした風情をかもしだしています。 里坊の庭園を眺めながら抹茶で一服できる憩いのスポットです。
| 坂本・比叡山延暦寺(前編) | 19:21 | comments(3) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その8 紅葉が美しい 「芙蓉園」
芙蓉園-1
名勝庭園を観賞しながら食事ができる 「芙蓉園」。
芙蓉園-2
芙蓉園-3
 穴太(あのう)衆積み石垣 大津市指定文化財
 この石垣は、慈覚大師の時代に唐国を模したものといわれ、また比叡山延暦寺が三千の僧兵を養っていたころに城塞として造り、この美しい石積みは、坂本穴太衆が築いたもので穴太の石工たちは戦国時代以前から砦造りの専門職人であった。 彦根城はもちろん、豊臣家が誇った大坂城、加賀百万石の金沢城の石積みも坂本穴太衆の手でできたという。 このあたりに点在する寺院は、城郭風な面影をもち、建物は改築されても石垣だけは幾百年の星霜(せいそう)のうちに厳然として残り苔むして美しい。
芙蓉園-4
芙蓉園玄関口。
芙蓉園-5
園内に巨大な石組で造られた 「洞穴」。
芙蓉園-6
 洞穴 この地は、そのむかし比叡山延暦寺里坊の一つで、東塔東谷に属する白毫院であった。 この穴窟は寛永期(1643)に作られ奥には石で作った穴室が設けられ三方の出入口があり、その上は富士山を形ちどった築山となっている。 寛永年中に院主が貧しい人々の飢餓を救うために、多くの飢人をやといて築かせたものである。 此辺院々の里坊が多くあるが、此の石室があるのは当園のみである。
芙蓉園-7
洞穴内部を見学することができます。
芙蓉園-8
洞穴出口。
芙蓉園-9
この洞穴が 「プリンセス トヨトミ」 のロケ地となった新聞の紹介記事。 大阪が独立国として登場する奇想天外な物語。 国松が逃げた大坂城の抜け穴として撮影された洞穴。
芙蓉園-10
紅葉が美しい庭園。(2011・12・1撮影)
芙蓉園-11
枯滝三尊石。
芙蓉園-12
一条の滝。
芙蓉園-13
様式 本庭は、万治年中(1658―1660)の造りである。 様式は、南部の山畔を利用した池泉廻遊式の庭であり全庭四百四十坪(1452 屐砲發△襦 広大な池庭であって東南部山畔には、毫華な枯滝石組があり、この時代の庭園としては一級品である。 山畔の急斜面を利用し下部東南よりに池庭が作られている。 この池庭は寛永期のもので、やや細長く作られていて南東部に小石(栗石)を敷いた出島があり桂離宮の天の橋立に対する栗石の浜を小さくした扱いがあり共通した点がある。 出島との間に石橋様の葛石を二本入れて沢渡り式としている中島は他にない。 江戸初期寛永を前後する池庭で毫健なものである。」 
芙蓉園-14
芙蓉園-15
芙蓉園-16
紅葉シーズンがとくに美しい庭園です。
JUGEMテーマ:写真

 芙蓉園は重要伝統的建造物群保存地区にあり国の名勝に指定されています。 この芙蓉園の庭園が造られたのが江戸初期。 周囲を文化財の 「穴太衆積み石垣」 で造られた池泉廻遊式庭園です。 とくに紅葉シーズンは美しく、この豪華な庭園を観賞しながら食事ができるのは坂本ではココだけです。 お勧めの紅葉撮影スポットです。
| 坂本・比叡山延暦寺(前編) | 19:50 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その7 日吉東照宮
日吉東照宮-1
日吉大社末社東照宮
日吉東照宮-2
 重要文化財 建造物 日吉大社末社東照宮 三棟 大津市坂本5丁目
 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、銅瓦葺の本殿と、その前面にある桁行五間、梁間二間、一重、入母屋造、銅瓦葺の拝殿とが桁行三間、梁間一間、一重、両下造(まやづくり)、銅板葺の石の間(相の間)によってつながれた建物で、権現造(ごんげんづくり)という形式の典型です。
 この社殿は、日光東照宮に先立って、寛永11年(1634)天海僧正によって営まれたもので、前面の三間の向拝には軒唐破風がつき、その後方に千鳥破風はつき、蟇股(かえるまた)の彫刻は精巧にできています。 また、内外とも装飾がきわめて華やかで美しいものです。
 正面入口の四脚唐門と周囲にめぐらされた透塀(すかしへい)も美しく、社殿とよく調和しています。 大正6年(1917)4月に国の重要文化財となりました。
日吉東照宮-3
透塀越しに見る、漆塗り・極彩色の彫刻で装飾された美しい拝殿。
日吉東照宮-4
正面入口の四脚唐門と透塀、美しい光景です。
日吉東照宮-5
周囲をめぐる透塀と紅葉がとてもきれいです。
日吉東照宮-6
日吉東照宮-7
透塀越し見る本殿と拝殿、それをつなぐ石の間(相の間)。
日吉東照宮-8
日吉東照宮-9
この季節、紅葉が最も美しい時期です。(2011・12・1撮影)
東照宮からの琵琶湖眺望
日吉東照宮からの琵琶湖眺望。
JUGEMテーマ:写真

 日吉大社より徒歩約10分のところに 「日吉東照宮」 はあります。 残念ながら開門は通常日曜日のみで撮影当日は平日で内部を撮影することができません。 透塀越しに見る東照宮は日光東照宮に劣らず素晴らしいものです。 また、極彩色の社殿と紅葉が調和した美しい光景を撮影することができました。
| 坂本・比叡山延暦寺(前編) | 19:25 | comments(0) | - |
坂本・比叡山延暦寺の旅 その6 日吉大社(5/完) 亀井霊水
日吉大社-1
日吉大社-2
日吉大社-3
亀井霊水(かめいれいすい) 昔、ここには池があり、伝教大師参拝の折、霊亀が現れた。 占いによりここを閼伽井(あかい;仏様に捧げる水を汲む井戸)となし、『亀井』 と名付けられた。 最名水也 『日吉山王権現知新記より』
日吉大社-4
境内に湧き出る霊水。
日吉大社-5
 大津市指定文化財 建造物 日吉大社摂社 大物忌(おおものいみ)神社本殿。
 日吉大社東本宮本殿の左奥に、南面して建つ。明治以前は大行事社と称していた。 信長の焼き討ちによって焼失するが、『天台座主記』 などの記録によれば慶長16年(1611)に再建された。向拝宝珠間に立てた蔀型の格子や、床が高く床下が一室をなしている点に、日吉造系と言える特徴が見られる。細部においても、妻虹梁下の絵様大斗肘木は特に見事で、他の舟肘木や蔀・格子などの材質ともに江戸時代初期を降らない建物と想像できる。(大津市歴史博物館データベースより引用)
日吉大社-6
日吉大社-7
 日吉雌梛(ひよしめなぎ) 男性が女性の幸せを祈る木。 梛(なぎ)は 「薙ぎ払う」 に通じ災難除を象徴する。 それに対して雄梛(おなぎ)は女性が男性の幸せを祈る木とされています。
日吉大社-8
猿の霊石 東本宮を出て坂を下る途中振り返れば、しゃがみこんでいるお猿さんのような石がお見送りしてくれます。
日吉大社-9
社務所の前にある 「神猿舎」。
日吉大社-10
 山王神使 神猿(まさる) 当大社は平安の都・京都御所の表鬼門にあたり、鬼門・厄魔除の守護神と崇敬されて参りました。 日吉山王大神第一の使が神猿さんです。 御所の鬼門を 「猿ヶ辻」 と呼び魔去(まさ)るさんの木像がまつられています。
 人間の全ての厄魔を取り去ってくれるのが日吉の神猿です。 家の新・改築には神猿さんを祀りましょう。
日吉大社-11
「神馬舎」、現在は白馬の像が安置されています。
日吉大社-12
日吉神馬(ひよししんめ)。
日吉大社-13
日吉大社-14
日吉大社境内に建つ 「包丁塚・竈殿社」。
日吉大社-15
 黄葉が美しい参道沿いに建つ遥拝所。手前から三宮遥拝所、牛尾宮遥拝所。
 遥拝(ようはい)とは、はるかに遠い所から拝むこと。 三宮と牛尾宮は中央の石段を上って30分ほどの牛尾山山頂付近に鎮座しているため、参拝者の利用を考え遥拝所が設けられました。
日吉大社-16
日吉大社-17
東本宮の参拝を終え、「二宮橋」 越しに見る紅葉がきれいでした。
JUGEMテーマ:写真

 比叡山の麓に鎮座する当大社は、およそ2100年前に崇神天皇七年に創祀された、全国3800余の分霊社(日吉、日枝、山王神社)の総本宮です。
 境内には魔除けの象徴として、神猿(まさる)と呼ばれる猿が祀られ、「魔が去る、何よりも勝る」 に因んで大切にされてきました。 中世には織田信長公の焼き討ちによって、以前の建造物は全て灰燼に帰しましたが、その後の復興によって今日の姿となっています。 また、境内には約3,000本のもみじがあり、関西屈指の紅葉の名所として多くの参拝者で賑わいます。(日吉大社案内書ご由緒より) 日吉大社の項(完)
| 坂本・比叡山延暦寺(前編) | 20:24 | comments(0) | - |
このページの先頭へ