質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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長崎の旅 その63 島原編(10) 鯉の泳ぐまち(2) 
鯉の泳ぐまち-1
休憩所にもなっています 「しまばら湧水館」。
鯉の泳ぐまち-2
館の入口に掲げてある島原を詠んだ  「山頭火」 の俳句。 種田三頭火・・・俳人。 本名、正一。 山口県生まれ。 早大中退。 萩原井泉水に師事。 のち出家して全国を漂泊、自由律の句を詠む。 句集 「草木塔」 など(1882〜1940)
鯉の泳ぐまち-3
鯉の泳ぐまち-4
「しまばら湧水館」 の庭を泳ぐ鯉。
鯉の泳ぐまち-5
 「史跡 浜の城跡」 浜の城の由来
 かってこの付近は海に突き出た所で、有馬氏の一族といわれる豪族島原氏の「浜の城」が築かれていましたが、寛政4年(1792年)の島原大変で埋まり現在のような地形になりました。
 戦国時代、有馬氏は有馬貴純・純鑒・晴純などの活躍により肥前国の東半分ほどを勢力下におき、島原氏もその先鋒として転戦しました。しかし佐賀に龍造寺隆信が興り有馬氏の発展を阻み、ついに有馬氏の領地は島原半島だけになりました。
 この頃の領主島原純茂は、キリスト教の宣教師であるアルメイダに対し布教を許し、教会をこの周辺に建てさせたといいます(1563年)。
 天正12年(1584年)龍造寺隆信は自ら島原へ遠征し、迎え撃つ有馬・島原連合軍と沖田畷で合戦となりましたが、隆信が戦死し、龍造寺側で戦った島原純茂の子純豊は城を明け渡しこの地を離れたとされています。 有馬氏の後の領主は松倉重政で、島原城を築城するまで浜の城を拠点としました。
 「堀町」「中堀町」の地名はこの浜の城に由来するものです。
 浜の城の一角は島原市立第二小学校となり、昭和47年、学校移転後は中央公園となって市民に親しまれています。(史跡 浜の城跡の石碑より)
鯉の泳ぐまち-6
美味しい水が飲める 「しんわの泉」。
鯉の泳ぐまち-7
鯉の泳ぐまち-8
飲める 「島原温泉」 の湯。
鯉の泳ぐまち-9
島原温泉 「ゆとろぎ足湯」。
鯉の泳ぐまち-10
この周辺一帯は、1988年 「まち並景観賞」、平成2年 「手づくり郷土賞」 を受賞。
鯉の泳ぐまち-11
鯉の泳ぐまち-12
心が和む 「鯉の泳ぐまち」、島原の旅です。
JUGEMテーマ:写真

 島原は約4時間の旅でしたが、壮大な 「島原城」、水路が流れる 「武家屋敷」、そして 「鯉の泳ぐまち」 を撮影することができました。 心が癒される水の都 「島原 」 お勧めの観光スポットです。
 「長崎の旅」 の最後の訪問先は、佐世保・九十九島です。 見て下さい。
| 長崎の旅(4) 島原編 | 20:56 | comments(0) | - |
長崎の旅 その62 島原編(9) 鯉の泳ぐまち(1)
鯉の泳ぐまち-1
島原名所の一つに 「鯉の泳ぐまち」 があります。
鯉の泳ぐまち-2
日本名水百選に指定された「島原湧水群」の石碑。
鯉の泳ぐまち-3
 鯉の泳ぐまち 鯉の泳ぐまちは この地域の町内会の人たちが 町内を流れる清冽な水路を生かした まちづくりと子供たちの豊かな 心を育てるため昭和53年7月水路に 鯉を放流したのが始まりです。
その後 放流には 町内会を中心に市や島原温泉観光協会、愛鱗会などの団体をはじめ多くの市民も協力し水の都島原を代表する名所となっています。 島原には至る所に湧水があります。 昭和60年1月環境庁から 「島原湧水群」 として日本名水百選に指定されており この流れもその一つです。(石碑より)
鯉の泳ぐまち-4
この近辺の水路を 「鯉の水辺路;こいのみずべみち」 です。
鯉の泳ぐまち-5
清冽な水のに鯉が悠然と泳いでいます。
鯉の泳ぐまち-6
鯉の水辺路を泳ぐ鯉、心が和みます。
鯉の泳ぐまち-7
清冽(せうれつ;水が清くつめたいこと) な水路で泳ぐ色鮮やかな錦鯉。
鯉の泳ぐまち-8
板壁の町並みと清冽な水路、色鮮やかな錦鯉、絵になる光景です。
鯉の泳ぐまち-9
町並みに溶け込んだ島原の湧水、清らかな流れが素晴らしいです。
鯉の泳ぐまち-10
清冽な流れの水路と鯉が泳いでいる風景に、しばし見とれていました。
JUGEMテーマ:写真

 町並みに溶け込んだ島原の湧水。 200年ほど前の普賢岳噴火災害によってもたらされた島原の湧水群。 市内には一日約22万トンの湧水が約60ヵ所から湧き出ています。 かつて松平7万石の城下町として栄えた島原で、堀や水路が市内をめぐり、苔むした石垣が多いことからも、江戸時代から湧水が生活に溶け込んでいたことがわかります。(旅雑誌 るるぶより)
| 長崎の旅(4) 島原編 | 20:16 | comments(0) | - |
長崎の旅 その61 島原編(8) 武家屋敷(2) 鳥田邸と篠塚邸
鳥田邸-1
武家屋敷・鳥田邸入口。
鳥田邸-2
外国からの観光客も見学しています。
鳥田邸-3
 鳥田邸(とりたてい) 鳥田家は藩主松平氏の草創以来の古い家柄で、藩主の転封にともなって三河国吉田、丹波国福知山と転じ、寛文9(1669)年、ここ島原に入った。 歴代地方代官・郡方物書などを勤めたが、幕末には御目見獨禮格で7石2人扶持を受け、木材奉行・宗門方加役・船津往来番などの重職についた。 このあたり一帯は中・下級武士の屋敷で、一戸当たりの敷地は3畝(せ;30歩=30坪)(90坪)ずつに区切られ、家ごとに枇杷(びわ)、柿、柑橘類などの果樹を植えていた。 道路の中央を流れる清流は、往時の生活用水路である。(案内板より)
鳥田邸-4
萱葺の武家屋敷、歴史を感じます。
鳥田邸-5
当時の武家屋敷の風呂・五右衛門風呂(?)が残されています。
鳥田邸-6
台所の様子が見れます。
鳥田邸-7
当時の食事の様子が再現されています。
鳥田邸-8
当時の床の間が残されています。
篠塚邸-1
篠塚邸入口。
篠塚邸-2
篠塚邸(しのづかてい) この屋敷に住んでいた人は姓を篠塚と言い、代々順左衛門を称し祖先は三河(愛知県)深溝であるが、寛文9(1669)年、松平主殿頭忠房が丹波福知山5万石から7万石島原城主として移されたとき従ってきて、明治初期まで11代、8石から13石2人扶持を給され、主として郡方祐筆(書記)や代官などを勤めた。 屋敷坪数はこのあたりすべて3畝(90坪)である。(案内板より)
篠塚邸-3
無料開放の武家屋敷を見学します。
篠塚邸-4
古風な生花が観光客を迎えます。
篠塚邸-5
篠塚邸の内部を見ることができます。
篠塚邸-6
当時の生活風景が再現されています。
石垣に咲く花-1
石垣に咲く花-2
武家屋敷、石垣に咲く花がきれいです。
武家屋敷-1
武家屋敷の美しい石垣。
武家屋敷-2
最後にもう一度、振り返って見る、往時の生活水路、今も清流が流れています。
JUGEMテーマ:写真

 武家屋敷 現在保存されている下の丁の武家屋敷は、延長約400mの町並みで、3軒(鳥田邸・篠塚邸・山本邸)の屋敷が無料で開放されています。 今回、鳥田邸と篠塚邸を見学してきました。 当時の武家生活の様子が偲ばれます。
| 長崎の旅(4) 島原編 | 21:31 | comments(0) | - |
長崎の旅 その60 島原編(7) 武家屋敷(1) 清流が流れる水路
武家屋敷-1
島原城から徒歩約5分の所に 「武家屋敷」 はあります。
武家屋敷-2
 武家屋敷街  この付近一帯を鉄砲丁といい町筋が七つ、上から上新丁、下新丁、古丁、中ノ丁、下ノ丁、江戸丁、新建と碁盤の目のようにできています。 ここには扶持(ふち;俸禄を給して、家臣にしておくこと)取り70石以下の徒歩(かち)屋敷その他が、柏野の新屋敷を加えて690戸ありました。 島原城ができた当時から一軒一軒の屋敷には境界の塀がなく、燐屋の奥までまる見えで鉄砲の筒の中を覗いたようだというので鉄砲丁という名称が起ったといわれています。 鉄砲組すなわち歩兵の住居地帯であったからでもあります。しかし、安永4年(1775)藩主の命により今日見るような石垣が各戸に築かれました。 町筋の中央を流れる清水は、昔飲料水として使用されていたものです。  島原市(掲示板より)
武家屋敷-3
石垣と水路がきれいな武家屋敷。
武家屋敷-4
水路の長さ406.8m。 ここは武家屋敷、町並み保存地区に指定されています。石垣と水路が美しい町並み、外国からの観光客も目にします。
武家屋敷-5
武家屋敷内にある休憩所。 ここで 名物 「かんざらし」 が食べれます。
武家屋敷-6
昔懐かしいラムネと武家屋敷名物 「かんざらし」。
武家屋敷-7
「かんざらし」、島原の冷たい湧水で適度に冷やした白玉に砂糖・蜂蜜などを使用したシロップをかけて食べる島原の素朴なおやつ、美味でした。
武家屋敷-8
 映画 「まぼろしの邪馬台国」 ロケ地
 康平(竹中直人)と和子(吉永小百合)が雪道を歩いているシーンと和子が玉子に恋人一馬のことを相談されるシーンを撮影。 江戸時代、生活用水として使われた武家屋敷水路のせせらぎの音を聞きながら撮影が行われた。 康平と和子が歩くシーンでは、特殊な機械で雪を降らせるなど大がかりなロケとなった。(掲示板より)
武家屋敷-9
映画 「まぼろしの邪馬台国」 の撮影現場を想像しながらシャッターを押しました。
武家屋敷-10
今回の旅で撮影したかった一枚の写真。 「武家屋敷を流れる水路」。
JUGEMテーマ:写真

 島原の武家屋敷は、一度旅したかった場所です。 長崎観光の旅雑誌に必ず登場する武家屋敷。屋敷の中央を流れる水路、生活用水として利用され、当時は監視人として水奉行が置かれていたという。 こんこんと流れる水路と両側の石垣、撮影したかった光景です。 それと素朴な味の 「かんざらし」。 念願が叶いました。
| 長崎の旅(4) 島原編 | 20:43 | comments(0) | - |
長崎の旅 その59 島原編(6) 島原城天守閣からの眺望
重政公御祭祀の祠-1
島原城内に建つ 「松倉重政公御祭祀の祠」。
重政公御祭祀の祠-2
 松倉肥後守重政公は徳川家康公に仕え、関が原の戦い、大坂冬・夏の陣にも軍忠を尽くしました。大和五条・二見の領主でありましたが、元和2年(1616)、島原半島を領することとなり、元和4年から7年余の歳月を費やし島原城を築き、以来約250年間政治の中心として栄えました。 この祠(ほこら)は重政公と築城工事中に死亡した人々を祀っております。 正面の扁額は松平家第10代城主松平忠精公が奉納されたものです。(掲示版より)

 重政の後を継いだ勝家は父以上に過酷な政治を敷き、キリシタンを厳しく取り締まった。 勝家の残忍さを示すものとして、年貢の払えない者には蓑を着せて生きたまま火あぶりに処すという、いわゆる 「蓑踊り」 という処刑方法があったという。 また、年貢の払えない者の子女を捕らえて処刑したり、幕府の歓心を得るために4万石の取立てを10万石と申告するなど、島原はまさに地獄そのものだったという。 この苛酷な勝家の政治に遂に領民の怒りが爆発し、寛永14年(1637)に天草四郎を総大将として有名な島原の乱が起こる。 領民の怒りは凄まじく、松倉軍の中にも領民側に寝返る者が現われたため、松倉軍単独ではとても鎮圧できなかった。 ここに至って江戸の幕府も事態を重く見て、板倉重昌を総大将とした鎮定軍を派遣するが、重昌は功をあせって戦死してしまう。 代わって 「知恵伊豆」 で有名な老中・松平信綱が総大将となる。 信綱は九州諸大名およそ12万を総動員して、原城を兵糧攻めにした。 この中には戦国時代の古強者・立花宗茂らも加わっている。 反乱軍も兵糧攻めにはかなわず、3ヵ月後に反乱は鎮圧。 四郎をはじめとする反乱軍は皆殺しとされてしまった。 乱鎮圧後の寛永15年(1638)に領主の松倉勝家も苛酷な政治を敷いて領民に反乱を起こさせた責を問われて、斬首刑もしくは切腹に処された。 武士の尊厳すら認められぬ斬首に処せられたことから、如何に勝家が重罪に問われていたかがうかがえる。(ようこそ 『島原城』 のHPより)
観光復興記念館-1
城内に建つ「観光復興記念館」。
観光復興記念館-2
平成3年(1991)6月3日の島原市の雲仙・普賢岳の火砕流で焼けた、ガードレールの一部、バイク、電柱が展示されています。
観光復興記念館-3
 当時の写真も展示されています。
 また、寛政4年(1792)にも島原半島の雲仙岳の一部が火山性地震によって崩壊し、有明海に押し出したため津波を生じ、対岸の肥後なので1万5千人もの溺死者をだして災害があります。これを 「島原大変肥後迷惑;しまばら たいへん ひごめいわく」 と呼ばれ、有史以降、日本国内で発生した最大の火山災害となっています。
観光復興記念館-4
 これは館内に展示されている 「火山灰の華」。 雲仙普賢岳の噴火は度重なる火砕流・土石流災害に加え、多量に降り注いだ降灰は農作物や市街地に大きな被害を与えました。 この作品は、私供を苦しめた火山灰を混ぜた粘土により製作されたものです。 テーマは島原市の復興と発展に向けた願いを込め、水と緑と太陽です。 太陽のエネルギーを黄色で表現されています。(掲示板より)
鐘つき堂
鐘つき堂。
御馬見所-1
御馬見所-2
御馬見所。
ザ鉄腕DASH
TV放映 「ザ!鉄腕!DASH!!」 の名残。
天守閣からの眺望-1
天守閣からの眺望-2
天守閣・展望所(5F)からの眺望。 有明海や阿蘇山・金峰山を望む素晴らしい光景。
JUGEMテーマ:写真

 往時のロマンあふれる島原城内、築城以来250年にわたる島原藩の歴史遺産や郷土が誇る芸術家北村西望氏の作品が堪能できます。 また、毎年春には 「島原城春まつり」 が開催されます。 特に島原城・春のお茶会で頂くお茶は格別だそうです。
| 長崎の旅(4) 島原編 | 20:20 | comments(0) | - |
長崎の旅 その58 島原編(5) 島原城・天草四郎像
天草四朗像
島原城・西望記念館前に建つ 「天草四郎像」(北村西望作)。
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 天草四郎(あまくさ しろう)・・・・フリー百科事典・ウィキペディアより
 元和7年(1621)?―寛永15年(1638)、江戸時代初期のキリシタン。 島原の乱の指導者とされている人物で、幕府の攻撃により原城陥落により自害したとされる。 本名は益田四郎。 諱(いみな;死後に尊んでつけた称号)は時貞(ときさだ)。 一般には天草四郎時貞という名で知られる。

 島原の乱(天草の乱とも)・・・・百科事典マイベディアより
 1637年―1638年肥前国島原地方と肥後国天草島の農民が起こした6ヵ月間にわたる農民一揆。 この地方は以前キリシタンが栄え、当時もひそかにキリスト教を信仰する農民が多かった。 1637年、相次ぐ凶作にもかかわらず、島原藩主松倉氏の過酷な年貢取り立てが続いたため、農民の不満は高まり、16歳のキリシタン益田四郎(天草四郎時貞)を首領とした総勢3万7000といわれる島原と天草の農民は島原の原城にたてこもった。 幕府は初め板倉重昌を派遣し九州諸藩の藩兵を使って原城を攻撃したが失敗し、1638年重昌は敗死、新たに松平信綱を派遣した。 一揆勢は当初から十字架を中心に士気が上がったが、信綱の包囲作戦にあい糧道を断たれ疲弊したところを12万4000の征討軍の総攻撃にあい、原城は陥落、四郎らは戦死し、残った者も処刑された。 幕府はこの乱を機会にキリシタン弾圧を強化し、1639年ポルトガルとの通商を断ち鎖国に入った。

 松倉重政(まつくら しげまさ)・・・・HPようこそ 『島原城』 より
 天正2年(1574)?―寛永7年(1630)
 戦国時代末期〜江戸時代初期の大名。 大和五条藩主、肥前日野江藩(島原藩)初代藩主。 松倉重信(右近)の長男。 子に松倉勝家(長男)、松倉重利(次男)、娘(藤堂嘉以正室)。 日野江に入封後、奇政と搾取を行い、子の勝家と共に島原の乱の主因を作った。
 松倉家は元々は大和(奈良県)の筒井家の家臣であった。 筒井順慶没後、筒井家が伊賀に転封されると、松倉重政は大和に残って豊臣家の配下となった。 慶長5年(1600)単身関ヶ原の戦いに参陣して徳川家康に認められ、大和の五条二見城主となった。五条では諸役を免除して商業の振興を図るなど城下町の整備を行った。
 慶長20年(1615)大坂夏の陣に際しては、大和郡山城の救援や、道明寺方面での後藤基次勢との戦いの功によって、有馬晴信の旧領であった肥前日野江4万3千石を与えられて移封した。(元和2年、1616年)
 元和4年(1618)、一国一城の制にしたがって従来あった原城と日野江城を廃して島原城(別名:森岳城)の築城を開始する。 廃城となった原城、日野江城などから領民たちに石材を運搬させ、数多くの人夫を動員して島原城は完成した。 禄高4万3千石でありながら10万石の大名の城に匹敵する分不相応な規模の城を築いたため、領民から過酷な搾取を行うこととなった。 この際、検地を行い、領内の石高を実勢の倍近くに見積もり、領民の限界を超える税を取り立てた。 この島原城の普請の際に功のあった千々石村の和田四郎左衛門義長の訴えにより、海風による塩害を防ぐために千々石海岸に堤防を築き松を植えさせた。 この松は今も防風林として千々石町に残っている。
 さらに重政は幕府への忠誠を示すため、禄高に見合わない規模の江戸城改築の公儀普請役を請け負い、それらの費用を捻出するために過酷な搾取を重ねた。
 南蛮貿易の利を得ていた重政は入部当初キリシタンを黙認していたが、江戸幕府のキリシタン弾圧政策に従って元和7年(1621)になるとキリシタン弾圧を開始。 最初はゆるやかなものだったが、寛永2年(1625)に将軍徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘されると発奮し、徹底的な弾圧を開始した。 顔に「吉利支丹」という文字の焼き鏝を押す。 指を切り落とすなど種々の拷問を行い、寛永4年(1627)には雲仙地獄で熱湯を使ったキリシタンの拷問・処刑を行うなど、キリシタンや年貢を納めない農民に対し残忍な拷問・処刑を行なったことがオランダ商館長やポルトガル船長の記録に残っている。 寛永6年(1629)には長崎奉行・竹中采女正重義にすすめて長崎中のキリシタンを雲仙に連行している。 さらに、キリシタン弾圧への取り組みを幕府に対してアピールするため、キリシタンの根拠地であるルソン(フィリピン)の攻略を幕府に申し出る。 家光をはじめ幕閣の一部も乗り気になったため、先遣隊を派遣するなどし、遠征準備に取りかかり、そのためのさらなる戦費を領民に課した。
 出兵実施の矢先、重政は寛永7年(1630)に小浜温泉で急死。あまりの悪政を見かねた幕府による毒殺ともいわれ、宣教師たちは罪のないキリシタンたちを責め殺したために狂死したのだと噂した。 享年57歳。 島原市内の江東寺に墓所がある。

 今回の旅で、島原を訪ねた時、勉強したい項目がありました。 それは江戸時代初期、寛永14年(1637)に日本の歴史史上最大規模の一揆となった島原の乱です。 島原の乱と天草四郎、そして乱の背景に何があるのか、資料を引用させてもらいましたので参考にして下さい。
| 長崎の旅(4) 島原編 | 19:49 | comments(0) | - |
長崎の旅 その57 島原編(4) 島原城・巽櫓(西望記念館)
西望作-1
島原城公園に建立されている北村西望作 「若き日の織田信長」 像
西望作-2
公園内では、数多くの北村西望作の彫刻を見ることができます。
島原城-1
島原城・巽櫓(西望記念館)
島原城-2
この入口から 「西望記念館」 に入ります。
西望作-3
館内に入ると、北村西望の写真と年譜が掲示されています。
 明治17年 12月16日長崎県南高来郡南有馬町白木野(現・南島原市)に生まれ。
 明治45年 東京美術学校卒
 大正10年 東京美術学校教授 (昭和19年まで24年間)
 昭和30年 長崎平和祈念像完成
 昭和33年 文化勲章 文化功労賞
 昭和47年 島原市名誉市民
 昭和52年 南有馬町名誉町民
 昭和55年 東京都名誉都民
 昭和55年 長崎県名誉県民
 昭和57年 12月 白寿を祝う
 昭和62年 3月4日 逝去 (満102歳没)
         4月6日 島原市民葬
 (掲示されている年譜の抜粋と一部分追加) 
西望作-4
西望作-5
獅子(熱風) 獅子の作品には、題がついたものが多く見られます。
「百獣の王」 「月に吼える」 「厳頭」 「原風蒼茫」 「獅子奮迅」 「獅子咆吼」 などがあり、獅子とも6点ほどあります。 その作品は力強く逞しさ、自由奔放さにあります。 それは、西望翁のほとばしるエネルギーから生まれた作品だからでしょう。 なお 「獅子咆吼」 は東京都から大相撲の優勝者に送られています。
西望作-6
阿弥陀三尊像。 右の写真は、北村西望 先生 昭和52年 井の頭アトリエで撮影。
西望作-7
西望作-8
平和祈念像 長崎原爆が丘にそびえる平和祈念像は、台座13尺(約4m)、高さ32.4尺(約9.7m)計14m余り。 これに消費した青銅は約6千貫(約23t)。 男体のブロンズとしては世界最大です。 本作品は4分の1大です。 右手は天空に直立して原爆の恐怖を示し、水平に広げた左手には平和を願っています。 人類普遍の信仰心を凝縮した大慈、大悲の姿でしょう。
西望作-9
西望作-10
加藤清正公像 この作品の4倍大の清正公像が熊本の本妙寺に昭和35年4月5日池上住職らにより再建されました。 像は中尾山上から熊本市内を見下ろしています。
島原城-3
堀の外側から見た 「巽櫓・西望記念館」(手前)と天守閣。 巽とは、十二支で表した方位で、辰と巳の間、南東の方角。
JUGEMテーマ:写真

 北村西望(きたむらせいぼう)、1884年(明治17年)12月16日―1987年(昭和62年)3月4日は、日本の彫刻家。 本名は、北村西望(にしも)。
 日本を代表する美術家の一人であり、特に代表作である大作 「長崎平和祈念像」 は有名。 文化勲章、文化功労者顕彰、紺綬褒章受章。 日本彫刻界では彼の功績を称え、同会展覧会における最優秀作品に 「北村西望賞(単に『西望賞』とも)」 の名を冠している。(フリー百科事典・ウィキペディアより) 

 島原城公園内では、北村西望の彫刻を数多く鑑賞することができます。 それらの作品から力強さ、逞しさを感じます。 また現在、開催されている大相撲秋場所千秋楽の表彰式で、東京都からおくられる西望作 「獅子咆吼」 にも注目したいと思います。
| 長崎の旅(4) 島原編 | 19:33 | comments(0) | - |
長崎の旅 その56 島原編(3) 島原城・西の櫓
島原城-1
最初に復元された島原城・西の櫓。
島原城-2
松倉豊後守重政が島原城を築いたとき、万一の場合に備えて鯨(クジラ)二本を、西の矢倉(櫓)の下に埋めていたものを、兵糧の足しに掘り出して用いたとのこと。  『四朗乱物語』 に「 鯨の事」 として述べた珍しい記録があります。(掲示版より)
島原城-3
西の櫓には全国の名城画などが展示されています。
島原城-4
日本タオルに描かれた、日本全国のお城の絵。
島原城-5
各県の特徴ある様々な 「こけし」 が展示されています。
島原城-6
島原城-7
西の櫓・前庭に展示されている籠城用の梅干かめ
旧藩時代この城の本丸に置いてあったもので籠城としての梅干を入れてあったかめであります。明治八年この城が解体されたとき市内中町の喜多氏が譲り受け保存していたものであります。
島原城-8
島原城-9
石の水道管
島原城桜門外の水源と城内三の丸の間に布設してあったもので中央をくりぬいた石を漆喰で接合して管状をなし、この一本約70cmの石管をさらに接合して水道管にしたものである。 布設したのは城主松平氏の後期十八世紀末以降といわれる。
島原城-10
島原市指定文化財 民俗資料 キリシタン墓碑
島原城-11
古代墳墓 郡内有明町鼻先地区から出土した 「組合せ箱石棺」 で西暦600年頃のものと認められます。(掲示板より)
JUGEMテーマ:写真

 島原城、江戸時代は島原藩の政庁であり藩主の居所であった。 成立当時の領主である松倉氏の知行は4万石であったが、総石垣で天守と櫓49棟を建て並べた。 火山灰と溶岩流でなる地盤での普請工事は困難であったとされ、関わった領民の一揆を引き起こす一因となった。(フリー百科事典・ウィキペディアより) 
| 長崎の旅(4) 島原編 | 19:44 | comments(0) | - |
長崎の旅 その55 島原編(2) 島原城・天守閣
島原城-1
島鉄・島原駅から徒歩5分のところに 「島原城」 はあります。
島原城-2
当時の遺構に石垣と堀があります。
島原城-3
復元された櫓と天守閣が見えてきました。
島原城-4
入口を入り天守閣に向かいます。
島原城-5
公園内はきれいに整備されています。
島原城-6
5重5階の復元された島原城・天守閣。
島原城-7
遺構の石垣の上に建つ天守閣。
島原城-8
地元ボランティアの皆さんと記念写真が撮れます。
島原城-9
島原城-10
安土・桃山様式の壮麗な面影を遺す島原城。
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 島原城の歴史
 この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺軍を撃破したところです。 この瑞祥(ずいしょう;めでたいしるし)の地に、五条(奈良県)から入封(にゅうほう;土地を与えられその領地に入る事)した松倉重政が島原城を築きました。 1618(元和4)年着工、4〜7年の歳月を経て完成。 同時に島原城下町も整備したといいます。 層塔風総塗込の五層の天守閣を据えた本丸。 北へ二の丸と三の丸を配置して、要所を三層櫓で固め、外郭は4キロにわたって矢狭間をもつ練塀で取り囲みました。 4万石の大名には過分な城です。 ここに有馬氏時代から海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます。
 以来、松倉氏、高力氏、松平氏、戸田氏、再び松平氏、と4氏19代の居城として輝きました。 その間1637(寛永4)年島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、1792(寛政4)年島原大変時には打つ続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。
 明治維新で廃城になり、払下げ・解体されましたが、島原市民の夢である御城復元への取組みが長年続きました
 1964(昭和39)年天守閣が復元するなど、次第に昔の面影を取戻しつつあります。(島原城リーフレットより)
| 長崎の旅(4) 島原編 | 19:29 | comments(0) | - |
長崎の旅 その54 島原編(1) 島原鉄道・島原駅
JR諫早駅-1
JR諫早駅 0番ホーム 島鉄(島原鉄道)のりば。
JR諫早駅-2
島原鉄道島原鉄道線は、諫早(いさはや)―島原外港駅 24駅 43.2kmの路線です。
JR諫早駅-3
黄色い車体 1両の急行ワンマンカー・南島原行に乗って 「島原駅」 へ向かいます。
島原駅-1
約1時間ほどで 「島原駅」 に到着。
島原駅-2
駅前に立つ 「島原の子守唄像」 です。
島原駅-3
駅の改札口、城造りの陳列ケースには生花が活けてあります。
島原駅-4
もう片側の城造りの陳列ケースには、鉄道用品が展示されています。
島原駅-5
駅舎は島原城の大手門をモチーフにして造られています。
島原駅-6
大手門をモチーフにした駅舎の柱です。
島原駅-7
駅前の広場に設置されたレトロな時計。
島原駅-8
島原城の大手門をモチーフにした特徴的な島原駅の駅舎です。
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 島原駅は、長崎県島原市片町にある、島原鉄道島原鉄道線の駅です。一日の平均乗降者は約1,600人、島原鉄道内44駅で一番の駅。 島原市の中心駅。 開業は大正2年(1913)、現駅舎の落成は平成元年(1989)です。
 島原駅の改札口をでると目の前に 「島原の子守唄像」 が立っています。 哀愁を帯びた子守唄が聞こえてきそうです。
    
     おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の
     梨の木 育ちよ
     何の なしやら 何の なしやら
     色気なしばよ しょうかいな
     はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
     鬼(おん)の池ん久助どんの 連れんこらるばい

     (訳)
     私は島原の 私は島原の
     梨の木のある家で育った
     何の梨だろう・・・何の梨だろう・・・
     色気も何も無しですよ そうですか
     早く寝なさい 泣かないで おろろんばい
     鬼池の久助さんが 連れに来ますよ
     (鬼池は島原の対岸、天草、怖いオジサンが連れ去りに来るぞぉ)

 かって、島原半島や天草の農家の人たちは大変貧しく、自分の娘を売らなければ生活していけないほどであったといわれています。 遠く中国や東南アジア各地へ売られていった娘たちのことを 「からゆきさん」 といいます。 つまり 「からゆきさん」 とは元来、唐(から)の国=外国へ出稼ぎに行く人々を総称した九州北部の方言で、とりわけ島原・天草出身者が多かったといいます。 島原の子守唄は貧しいがゆえに異国へ送られていった娘たち(からゆきさん)の悲しみ、哀れさ、一方で 「からゆきさん」 をうらやむ貧しい農家の娘の心を描写したものといわれているそうです。
(HP島原の子守唄〜おろろん おろろん おろろんばいより)
| 長崎の旅(4) 島原編 | 20:08 | comments(2) | - |
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