島原城・西望記念館前に建つ 「天草四郎像」(北村西望作)。
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写真 天草四郎(あまくさ しろう)・・・・フリー百科事典・ウィキペディアより
元和7年(1621)?―寛永15年(1638)、江戸時代初期のキリシタン。 島原の乱の指導者とされている人物で、幕府の攻撃により原城陥落により自害したとされる。 本名は益田四郎。 諱(いみな;死後に尊んでつけた称号)は時貞(ときさだ)。 一般には天草四郎時貞という名で知られる。
島原の乱(天草の乱とも)・・・・百科事典マイベディアより
1637年―1638年肥前国島原地方と肥後国天草島の農民が起こした6ヵ月間にわたる農民一揆。 この地方は以前キリシタンが栄え、当時もひそかにキリスト教を信仰する農民が多かった。 1637年、相次ぐ凶作にもかかわらず、島原藩主松倉氏の過酷な年貢取り立てが続いたため、農民の不満は高まり、16歳のキリシタン益田四郎(天草四郎時貞)を首領とした総勢3万7000といわれる島原と天草の農民は島原の原城にたてこもった。 幕府は初め板倉重昌を派遣し九州諸藩の藩兵を使って原城を攻撃したが失敗し、1638年重昌は敗死、新たに松平信綱を派遣した。 一揆勢は当初から十字架を中心に士気が上がったが、信綱の包囲作戦にあい糧道を断たれ疲弊したところを12万4000の征討軍の総攻撃にあい、原城は陥落、四郎らは戦死し、残った者も処刑された。 幕府はこの乱を機会にキリシタン弾圧を強化し、1639年ポルトガルとの通商を断ち鎖国に入った。
松倉重政(まつくら しげまさ)・・・・HPようこそ 『島原城』 より
天正2年(1574)?―寛永7年(1630)
戦国時代末期〜江戸時代初期の大名。 大和五条藩主、肥前日野江藩(島原藩)初代藩主。 松倉重信(右近)の長男。 子に松倉勝家(長男)、松倉重利(次男)、娘(藤堂嘉以正室)。 日野江に入封後、奇政と搾取を行い、子の勝家と共に島原の乱の主因を作った。
松倉家は元々は大和(奈良県)の筒井家の家臣であった。 筒井順慶没後、筒井家が伊賀に転封されると、松倉重政は大和に残って豊臣家の配下となった。 慶長5年(1600)単身関ヶ原の戦いに参陣して徳川家康に認められ、大和の五条二見城主となった。五条では諸役を免除して商業の振興を図るなど城下町の整備を行った。
慶長20年(1615)大坂夏の陣に際しては、大和郡山城の救援や、道明寺方面での後藤基次勢との戦いの功によって、有馬晴信の旧領であった肥前日野江4万3千石を与えられて移封した。(元和2年、1616年)
元和4年(1618)、一国一城の制にしたがって従来あった原城と日野江城を廃して島原城(別名:森岳城)の築城を開始する。 廃城となった原城、日野江城などから領民たちに石材を運搬させ、数多くの人夫を動員して島原城は完成した。 禄高4万3千石でありながら10万石の大名の城に匹敵する分不相応な規模の城を築いたため、領民から過酷な搾取を行うこととなった。 この際、検地を行い、領内の石高を実勢の倍近くに見積もり、領民の限界を超える税を取り立てた。 この島原城の普請の際に功のあった千々石村の和田四郎左衛門義長の訴えにより、海風による塩害を防ぐために千々石海岸に堤防を築き松を植えさせた。 この松は今も防風林として千々石町に残っている。
さらに重政は幕府への忠誠を示すため、禄高に見合わない規模の江戸城改築の公儀普請役を請け負い、それらの費用を捻出するために過酷な搾取を重ねた。
南蛮貿易の利を得ていた重政は入部当初キリシタンを黙認していたが、江戸幕府のキリシタン弾圧政策に従って元和7年(1621)になるとキリシタン弾圧を開始。 最初はゆるやかなものだったが、寛永2年(1625)に将軍徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘されると発奮し、徹底的な弾圧を開始した。 顔に「吉利支丹」という文字の焼き鏝を押す。 指を切り落とすなど種々の拷問を行い、寛永4年(1627)には雲仙地獄で熱湯を使ったキリシタンの拷問・処刑を行うなど、キリシタンや年貢を納めない農民に対し残忍な拷問・処刑を行なったことがオランダ商館長やポルトガル船長の記録に残っている。 寛永6年(1629)には長崎奉行・竹中采女正重義にすすめて長崎中のキリシタンを雲仙に連行している。 さらに、キリシタン弾圧への取り組みを幕府に対してアピールするため、キリシタンの根拠地であるルソン(フィリピン)の攻略を幕府に申し出る。 家光をはじめ幕閣の一部も乗り気になったため、先遣隊を派遣するなどし、遠征準備に取りかかり、そのためのさらなる戦費を領民に課した。
出兵実施の矢先、重政は寛永7年(1630)に小浜温泉で急死。あまりの悪政を見かねた幕府による毒殺ともいわれ、宣教師たちは罪のないキリシタンたちを責め殺したために狂死したのだと噂した。 享年57歳。 島原市内の江東寺に墓所がある。
今回の旅で、島原を訪ねた時、勉強したい項目がありました。 それは江戸時代初期、寛永14年(1637)に日本の歴史史上最大規模の一揆となった島原の乱です。 島原の乱と天草四郎、そして乱の背景に何があるのか、資料を引用させてもらいましたので参考にして下さい。