2011.09.05 Monday
長崎の旅 その53 市内散策 光永寺と旧香港上海銀行
向陽山 光永寺の山門。
山門前に立つ石碑 「福沢先生留学址 安政元年」 と刻まれています。
向陽山・光永寺の案内板と 「長崎県議会開設の地」 の碑
光永寺の案内には次のように書かれています。
1.宗 旨 浄土真宗(真宗大谷派)
2.本 山 京都東本願寺(真宗本廟)
3.宗 祖 親鸞聖人(見真大師 承安3年〜弘長2年)
4.御本尊 阿彌陀如来(南無阿彌陀仏)
5.教 義 本願を信じ念仏申せば仏となる
6.当山の歴史
400年余り昔、長崎開港の当時、
長崎の地は一時キリシタン領となって神社、仏閣は焼かれ仏教徒は領外へ追放された。 これを歎(なげ)いて当山の開祖慶西(けいさい:唐津久兵衛)は肥前の国唐津より来って浦上に庵室を設け仏教復興のために身を挺して奮闘した。 その功により現在の地を幕府から寺地として与えられ光永寺を創立した。 時に慶長19年(1614)であった。 山門は県下における朱印地様式の唯一の遺構で、もと桶屋町通りに面していたが、文化元年(1804)現在の東向きの位置に移され 「向陽山」 と山号を定め同3年筋塀と共に完成した。
安政元年(1854)当時19才の福沢諭吉は当寺を頼って長崎に来り、約1ヶ年此処に留まって蘭学学習の第一歩を踏み出した。
明治12年(1879)長崎県議会は第1回以来数年の間当寺を議場として開かれ当県の地方議会がこの地において発足することとなった。
江戸期の本堂は原爆にて大破、解体されたが現在の本堂は当山開創375年を期して昭和60年秋に再建工事に着手、平成元年5月に竣工し落慶法要を行ったものである。 山門及び鐘楼は200年振りに解体修理を終え、戦時供出の梵鐘も平成6年、原爆50回忌を期して改鋳した。
光永寺の境内には、大きな銀杏の木があります。
光永寺・本堂。
光永寺・鐘楼。
光永寺境内に咲いている美しい花たちです。
わが国ボーリング発祥の地 日本最古のボーリング場は、わが国最初の英字新聞であり初の近代活版新聞である 「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」 に1861年(文久元年)6月22日の日付で新装開店の広告が記載された、インターナショナル・ボウリング・サロンである。 この史実をもとに、昭和47年より6月22日を 「ボウリングの日」 として制定した。 その後、開港されていた横浜や神戸にも、ボウリングサロンが次々とオープンした。
御朱印船 昔、長崎を出船した荒木宗太郎の御朱印船が遠くベトナム、マカオ方面にまで往来した故事に因んで三百六十余年の伝統を誇る 『長崎くんち』 の奉納踊りとして本石灰町が製作し継承している。 今日の船形に至るまでには二十年の歳月を要したといわれる。
本朱印船は市民ぐるみで行う春の長崎港まつりの出し物として三菱重工業(株)長崎造船所が模造し製作したものである。
長崎市 旧香港上海銀行長崎支店記念館 [重要文化財 旧香港上海銀行長崎支店]
香港上海銀行は、開港して間もない幕末の長崎に代理店を置いて活動を始め、明治29年(1896)に長崎支店を開設しました。 この建物は、香港上海銀行長崎支店の新社屋として下田菊太郎の設計により建設され、明治37年(1904)に竣工しました。
昭和6年(1931)、長崎支店が閉鎖された後は、梅香崎警察署、大浦警察署、長崎市歴史民俗資料館として利用され、親しまれてきました。
平成3年(1991)、市民の声を受けて建物の調査・保存修理に着手、老朽化した建物を半解体修理するとともに長い年月の中で失われた装飾部などの復原を行いました。平成7年(995)、建物は建設当初の姿となってよみがえり、平成8年(1996)10月に 「長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館」 として開館しました。
記念館内部。
重要文化財 旧香港上海銀行長崎支店の全景、重厚な建造物です。
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今回で53回を数えました 「長崎の旅」 も長崎市内の見学と撮影を終え、2010年10月30日の午後から長崎県島原市へと移動します。 島原は半日の旅でしたが、見所を撮影してきましたので次回より展示します。 見て下さい。
【ミニ知識】 福沢諭吉(ふくざわゆきち)・・・・日本史事典より
1834〜1901
明治時代の啓蒙思想家
豊前中津藩士出身。 緒方洪庵に蘭学を学び、のち英学を修める。 1860〜67年に、3度にわたり欧米を視察し、1868年家塾を慶応義塾と名づけた。 『西洋事情』 『学問のすヽめ』 『文明論之概論』 などを著し自由主義・功利主義を主張し明六社にも参画。 官民調和を唱え、1882年 『時事新報』 を創刊し、しだいに国権伸長論に傾き日清戦争では主戦論を展開。 自叙伝に 『福翁自伝』。