質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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長崎の旅 その42 長崎歴史文化博物館
歴史文化博物館-1
平成22年1月9日~平成23年1」月10日まで開催された長崎奉行所・龍馬伝館を見学、大勢の観光客で賑わっていました。
歴史文化博物館-2
歴史文化博物館-3
かって同位置にあった長崎奉行所が復元されています。
歴史文化博物館-4
長崎歴史文化博物館入口
歴史文化博物館-5
当時NHKで大河ドラマが放映中で長崎は龍馬ブームです。 平成22年5月27日~29日の3日間長崎で撮影が行われました。
歴史文化博物館-6
大河ドラマ龍馬伝の出演者の皆さん
歴史文化博物館-7
撮影で使われた小道具が展示。太刀、懐剣、ピストル、ブーツ、木札など
歴史文化博物館-8
女優さんが持つ品々が展示。
歴史文化博物館-9
龍馬伝でお元役を演じられた蒼井優さん。
お元は、長崎・丸山の芸妓。三味線や琴、踊りが得意で才色兼備のお元は龍馬がとくにひいきにした女性で、龍馬はお元にいつも酒の相手をさせたと言う。龍馬と後藤象二郎(ごとうしょうじろう)が歴史的な和解をした会談に同席していたとも言われる。
歴史文化博物館-10
楢崎龍役を演じられた真木よう子さん。
龍は、京都の医者の娘。龍馬の妻。龍馬と出会った頃は、父を失い、母と妹2人と弟2人を抱えて一家の大黒柱として艱難辛苦(かんなんしんく)のなか生きていた。寺田屋で幕吏たちに襲われた龍馬を助け、傷を負った龍馬に連れられて薩摩へ向かう。その後、長崎から下関へと移り住み、日本中を駆けめぐる龍馬を陰ながら支え続けた。
歴史文化博物館-11
長崎歴史文化博物館。
JUGEMテーマ:写真

 長崎歴史文化博物館は、長崎市立山にある長崎の歴史に関する資料を扱った博物館です。 かって同位置にあった長崎奉行所立山役所の一部が復元されており、博物館に併設されています。 2005年11月に開館。 JR長崎駅より路面電車 「桜町」 下車、徒歩7分です。 
| 長崎の旅(2) 愛と平和 | 20:41 | comments(0) | - |
長崎の旅 その41 坂本国際墓地、浦上街道
坂本国際墓地-1
 長崎市坂本町にある 「坂本国際墓地」。
 坂本国際墓地は、1888(明治21)年大浦(川上町)の国際墓地の閉鎖にともないこの地に新設された。1903(明治36)年には道路の向かい側まで墓地が拡げられた。そのなかにはトーマス・グラバーやその息子、倉場富三郎をはじめ日本の産業、経済、教育などの発展に多大な貢献をした多くの外国人の墓がある。
 原爆被爆者で 「長崎の鐘」 その他の書作で名高い永井隆博士もここに眠っている。
坂本国際墓地-2
 永井隆博士の墓(1908―1951)
 長崎医大助教授であった彼は、被爆し重傷を負うが精力的に医療活動を続け、白血病と闘いながら原爆障害の研究、平和活動に尽力、多くの著作を遺した。
坂本国際墓地-3
国際墓地内の風景。
坂本国際墓地-4
 ユダヤ人地区
 長崎外国人居留地には多くのユダヤ人が生活していた。 入口のアーチには “Bet Olam” (永遠の住まい) と刻まれている。
坂本国際墓地-5
坂本国際墓地-6
 市指定史跡 グラバー家墓地 指定年月日 平成16年6月3日
 トーマス・ブレイク・グラバーは、明治44年(1911)12月16日、東京麻布の自邸で死去した。 遺体は荼毘(だび)に付されたのち、長崎での葬儀が同年12月に行なわれた。 現在の墓碑が完成したのは翌年の8月のことらしい。 ここにはグラバーの遺骨に加えて、明治32年(1899)に太平寺に葬られた妻ツルの分骨も合葬されている。 その隣には 「倉場家之墓」 と刻まれた墓碑が建っており、昭和18年(1943年)に死去した息子富三郎の妻ワカと、第二次世界大戦終結直後の昭和20年8月26日に自死した富三郎が埋葬されている。
 グラバー父子の生涯は、日本の近代化と密接な関係を有している。 墓地の管理と保存は、長崎の地域史だけでなく幕末維新史、日本近代産業史からも意義あることである。 長崎市教育委員会(平成17年3月設置)
浦上街道-1浦上街道-2
 浦上街道(うらかみかいどう)の碑
 浦上街道は長崎における街道の一つで、日見峠を越える長崎街道が一般化する江戸時代の中頃までは、長崎における第一の街道で、日本二十六聖人やオランダ商館医ケンペルなど、多くの著名人も往来している。 そのコースは、西坂から時津宿までの約3里、現在の西坂公園(西坂町)から浦上を通って西彼杵郡時津町までの約12キロで、さらに時津宿からは大村湾を舟で彼杵宿までの7里、現在の時津町から東彼杵郡東彼杵町まで約28キロの行程であった。
浦上街道-3
現在は、石畳できれいに整備されている旧浦上街道。 この直ぐ先に山王神社 二の鳥居(一本柱鳥居)があります。
JUGEMテーマ:写真

 長崎ゆかりのある外国人や著名人が静かに眠る 「坂本国際墓地」 を訪ねました。 入口そばには長崎市名誉市民の永井隆医学博士が、道路の向かい側の奥には日本の近代化に貢献されたグラバー父子が眠る墓地(市指定史跡)があります。 墓の前で静かに手を合わせ冥福を祈ってきました。 また、日本二十六聖人も歩いたと言う浦上街道、厳かな気分で歩いてきました。
| 長崎の旅(2) 愛と平和 | 19:38 | comments(0) | - |
長崎の旅 その40 諏訪神社(3) 長崎くんち
諏訪神社・踊馬場
諏訪神社 踊馬場 長崎くんちの舞台になる場所です。 2010年10月29日撮影
長崎くんち-1
2010年10月7日 長崎くんちの会場風景です。(NHKテレビ画面より)
長崎くんち-2
長崎くんち 2010 第一番 馬町 傘鉾
長崎くんち-3
傘鉾には馬具が飾られています。
長崎くんち-4
第二番 東濱町 竜宮船
長崎くんち-5
くんち史上初めての新体操の演技が披露されます。
長崎くんち-6
新体操クラブに所属する中学1.2年の生徒8名の華麗な演技です。
長崎くんち-7
第三番八坂町 川船 少年の投網。
長崎くんち-8
投網が見事に開き魚を捉えます。
長崎くんち-9
第四番 銅座町の 「南蛮行列」、本物の虎の皮が進みます。
長崎くんち-10
第五番 籠町 龍踊(じゃおどり) 特別出演
長崎くんち-11
長さ20m、重さ150Kg、躍動感あふれる龍踊は圧巻です。
長崎くんち-12
長崎ぶらぶら節が披露されました。
長崎くんち-13
第六番 築町 御座船
長崎くんち-14
ご家老の指示を長采受けます。
長崎くんち-15
築町の御座船が回る!回る! 見事な 「大鳴門」 が決まりました。
JUGEMテーマ:写真

 筆者が諏訪神社を撮影したのが10月29日、その3週間前の10月7日に 「日本三大くんち」 の一つ 「長崎くんち」 が開催されました。 その模様が 「NHK 日本の祭2010 長崎くんち ハイライト」 として放映されました。 その画像を撮影して写真展示します。

 長崎くんちとは 
 1634年(寛永11)に始まって以来370年余りの伝統を誇る、諏訪神社の秋に大祭です。 開催は10月7日~9日の3日間。 踊り町は、「龍踊」「コッコデショ」など中国や日本、西洋の文化を盛り込んだ国際色豊かな踊りをそれぞれもち、7年に1度その出番が回ってきます。 全部見終わるには7年かかる計算です。
 初日の7日は諏訪神社及び市内各所で奉納踊り後、三体の御輿が市内を練り歩く 「お下がり」 が行われ、8日は市内各所で奉納踊り、最終日の9日は奉納踊りの後、神輿が神社へ戻る 「お上がり」 が行われます。
 国の重要無形文化財に指定されています。

 日本三大くんちとは、長崎くんち、博多おくんち(福岡市、櫛田神社)、唐津くんち(佐賀県唐津市、唐津神社)を言います。
| 長崎の旅(2) 愛と平和 | 21:43 | comments(0) | - |
長崎の旅 その39 諏訪神社(2) 珍しい狛犬
諏訪神社-1
包帯をしている狛犬ではありません、“コヨリ” が結ばれている狛犬です。
諏訪神社-2
止事成就狛犬(とめごとじゅうじゅこまいぬ)  斎庭(ゆにわ)の狛犬一対。 斎庭とは神を祀るために斎(い)み浄(きよ)めた場所。
諏訪神社-3
 社伝によれば 「当社斎庭に三百年を経た狛犬あり、止事に霊験著し」 とあります。
昔から、家出足止め、借金止め、更に受験すべり止め、禁酒、禁煙など願い事の場合 “コヨリ” を足に巻きつけるという信仰があります。 止事願いのためのコヨリがこの横に用意されておりますのでご利用下さい。
諏訪神社-4
諏訪神社-5
斎庭の傍には、 厳かな雰囲気が漂う 「神池」 があります。
諏訪神社-6
「こま犬の井戸」 井神祭―七月五日
諏訪神社-7
 江戸時代より高麗犬(こまいぬ)の井戸と呼ばれ、名水として評判高く、どんな旱魃(かんばつ)にも枯れることなく、甘く香りただよう清浄水として史書にも記されており、この水を飲めば安産に効き目があると言い伝えられております。
 又、別名 「銭洗いの狛犬」 とも称され、この水でお金を洗えば倍に増えるとの信仰もあります。(お金を入れて洗うザルも用意されています)
諏訪神社-8
 「願掛け狛犬(がんかけこまいぬ)」 江戸時代長崎の遊女街に登楼樓(とろう)した船員に、翌日海が荒れて出航できず、もう一晩泊って貰うことを願って、遊女が狛犬を海の方向に廻して願を掛けた故実(こじつ)から 「願掛け狛犬」 と呼ばれ、信仰をあつめています。 狛犬を廻して祈念して下さい。 又、この祠(ほこら)には、財宝を恵み、音楽と方位を司る弁財天尊が祀られています。
諏訪神社-9
学門の神、「諏訪天満宮」、菅原道真公が祭られています。
諏訪神社-10
商売の神、「玉園稲荷神社」です。
諏訪神社-11
境内の奥まった処にある、「玉園稲荷神社」 の社殿。
諏訪神社-12
玉園稲荷神社の社殿横にある、厄難除け蛙岩(やくなんよけかえるいわ)。
諏訪神社-13
 当神社ご鎮座当時の古図には、この岩に〆縄(しめなわ)を張り、柵を廻らしてあり、古くから信仰されていたことが判ります。
 昭和57年の長崎大水害の折、裏山が崩れ落ちたが、蛙岩が土砂を防ぎ止め、ご社殿を守ったことで 「厄難除け」 としての信仰が増し、当社では蛙岩にちなみ 「厄難除け守り」 として小さな陶製のお守りを授与しております。
 「出したお金もまたかえる」 「旅行から無事かえる」 との縁起により評判です。
JUGEMテーマ:写真

 「長崎くんち」 で有名な諏訪神社・拝殿に参拝後、境内を散策してきました。 境内には珍しい狛犬がたくさんあります。 とりわけ 「止事成就狛犬」 には驚きました。 日本各地の狛犬を今まで数多く見ましたが  “コヨリ”  を結び祈願する狛犬は初めてみました。 写真展示以外でも 「カッパ狛犬・・・頭に皿のある狛犬で水を掛けて祈願」 や 「トゲ抜き狛犬・・・心のトゲを抜いてくれるという、たいへんコワーイ顔の狛犬」 などがあります。 狛犬マニアには必見の神社です。
| 長崎の旅(2) 愛と平和 | 19:30 | comments(0) | - |
長崎の旅 その38 諏訪神社(1) 荘厳な拝殿
諏訪神社-1
「長崎くんち」 で有名な 「諏訪神社」 を参拝します。
諏訪神社-2
長い石段を上ります。
諏訪神社-3
「長坂」 を上り切ると 「大門」 です。
諏訪神社-4
大門のから見る諏訪神社・拝殿です。
諏訪神社-5
荘厳な拝殿に、旅の安全と健康を祈願してきました。
諏訪神社-6
諏訪神社境内案内図。 想像以上に大きな神社です。
諏訪神社-7
神馬(北村西望作)
諏訪神社-8
 賛神馬賦
 この神馬は本年百二歳彫塑界の重鎮にして文化勲章受章芸術院会員 北村西望翁の昭和五十九年度第十六回日展出品作である。
 当神社には明治三年三菱重工業(株)長崎造船所の前身長崎製鉄所が奉納した青銅の神馬が置かれていたが大東亜戦争に供出されて以来社頭まことに淋しくその復元が望まれていた。
 本年天皇陛下御在位六十年の慶賀すべき年を迎え当り奉祝記念としてこの神馬を設置された・・・・・・・・・            昭和六十年十月吉日
諏訪神社-9
境内に建つ高濱虚子の句碑
   年を経て廣がるのみの夏木哉  虚子
諏訪神社-10
 輝く日射しを受けて 強く逞しく 葉は濃緑に満ち 幹は大きく育ってゆく夏木の姿を詠まれております。 向井去来(長崎出身)の二百五十年忌に当地の招請に応えて二年後昭和三十年に来崎の機会をいただきました。俳句の伝統性を主張し 花鳥諷詠を確立された気概を絶えず抱き続けられた境地が伺われます。
 木立の繁る諏訪神社ご神域が最も相応しい場所を考え この意を長く顕彰するため ここに句碑を建立します。 句碑建立発起人
JUGEMテーマ:写真

 毎年10月7日~9日に開催される 「長崎くんち」 の会場となる 「諏訪神社」 を参拝してきました。 筆者九州出身でありながらこの 「長崎くんち」 をTVでは見ましたが、生で見たことがありません。 その光景を脳裏に描きながら撮影をしてきました。

 【ミニ知識】 百科事典マイペディアより
 (1)北村西望(きたむら せいぼう) 1884―1987
  彫刻家。 長崎県産れ。 1912年東京美術学校卒。 1921年から1944年まで東京美術学校教授、日展会長を歴任。 1916年 ≪晩鐘≫ で文展特選。 ≪長崎平和祈念像≫ など勇壮な人体像を特意とし、100歳を過ぎても平和をテーマに制作を続けた。 1958年文化勲章。 東京井の頭公園に記念館がある。

(2)高濱虚子(たかはまきょし) 1874―1959
 俳人、小説家。 本名清。 松山生れ。 二高中退。 河東碧梧桐とともに正岡子規に従って句作、柳原極堂から俳誌 ≪ホトトギス≫ を継承してその発展にを実現した。 1907年ころ小説や写生文を書いて一時俳談壇を離れたが、のち復帰し、河東碧梧桐らの新傾向俳句を批判、<客観写生><花鳥諷嬰詠(ふうえい)>を説いて、俳句の伝統擁護に務めた。 また後進を育成し、大正から昭和の俳壇隆盛の基を築いた。 ≪虚子句集≫≪五百句≫≪句日記≫ など多くの句集のほか、小説≪風流懺法≫≪柿二つ≫≪俳諧師≫や俳句入門書、歳時記などの箸がある。 1954年文化勲章受賞。
| 長崎の旅(2) 愛と平和 | 20:44 | comments(0) | - |
長崎の旅 その37 シーボルト記念館
シーボルト記念館-1
シーボルト通りを歩いて 「シーボルト記念館」 へ向かいます。
シーボルト記念館-2
ここは、国指定史跡 シーボルト宅跡。
シーボルト記念館-3
 国指定史跡 シーボルト宅跡
 指定年月日 大正11年10月12日
 所 在 地  長崎市鳴滝2丁目
 文政6年(1823)に出島和蘭商館医として来日したシーボルトは、翌年鳴滝に塾を開き、患者の診療や、門弟に対する教育活動、日本研究活動などを行いました。全国各地から集まった門弟達は、西洋の進んだ学問や科学的な思想を学び、中には幕末に活躍した蘭方医や、日本の近代化に大きく貢献した人物も少なくありません。その一方で、動物や植物をはじめとする日本のあらゆるものを対象として科学的に調査・研究を行い、後年その成果をまとめ、ヨーロッパにおけて日本を正しく紹介することに務めました。
 また、開国後の安政6年(1859)再来日を果たしたシーボルトは、この地を日本における住まいとし、日本各地の珍しい植物を取り寄せて植物園を造るなど、再び鳴滝を拠点として日本研究を継続しました。この地は、我が国における西洋近代科学発祥の地であると共に、日本が広くヨーロッパに紹介された研究活動の拠点であり、日本の近代化並びに国際交流に大きな役割を果たしました。
シーボルト記念館-4
 シーボルトノキ
 クロウメモドキ科の落葉小高木です。 シーボルト自身との直接的な関係はなく、シーボルト宅跡で見つけられたものを、日本植物学の第一人者であった牧野富太郎が新種と思い、明治45年(1912)に学名ラムナスシーボルディアナ、和名シーボルトノキと名づけて発表したものです。 しかし、1939年に御江久夫により、中国産のクロウメモドキと同じものであることが明らかにされました。日本に自生するクロウメモドキと比べると、やや葉が大型で、枝先は棘(とげ)のようになっています。
シーボルト記念館-5
国指定史跡 シーボルト宅跡に建つ 「シーボルトの胸像」。
シーボルト記念館-6
 胸像の横に掲示されている案内板。 シーボルトと鳴滝塾(なるたきじゅく)・アジサイ
 1823年(文政6)出島オランダ商館医として来日したシーボルトは、翌年長崎奉行の許可を得て、この鳴滝の地に学塾を開きました。 シーボルトは、鳴滝塾で患者の治療や、全国各地から集まった多くの門弟たちに西洋の進んだ学問や科学的な思想を教え、その一方で、門弟たちの協力を得ながら積極的に日本の研究を行いました。 ここで学んだ門弟達の中には、その後幕末に活躍した蘭方医も多く、鳴滝塾は、我が国における西洋近代科学発祥の地として、日本の近代化に大きな役割を果たしました。
 シーボルトは、日本の植物について積極的に研究を行っており、ヨーロッパに帰った後『日本植物誌』を出版しましたが、このなかでアジサイ属に関して多く取り上げています。 特に、日本における妻お滝さんにちなんで、アジサイの学名を「ハイドランゲア・オタクサ(Hydrangea Otakusa Sieb.)」と名づけたことは大変有名な話です。美しく咲くアジサイに最愛の人の面影を重ねたのか、シーボルトの人柄が偲ばれるエピソードです。
シーボルト記念館-7
記念館前に到着したのが17:09、時間が過ぎ閉館です。
シーボルト記念館-8
外観のみの撮影です。
シーボルト記念館-9
鳴滝塾跡の隣地に1989年(平成元年)10月1日に開設されました。
JUGEMテーマ:写真

 路面電車、中川町電停より徒歩7分のところにある 「シーボルト宅跡」、それの隣地に朱色が鮮やかな 「シーボルト記念館」 があります。 時間が間に合わず外観のみの撮影でした。 館の建物はオランダのライデン市の旧宅、玄関部分はシーボルトの祖父カール・カスパルの旧宅をそれぞれ模してつくられました。館内にはシーボルトの生涯や功績、有名なシーボルト事件などの資料が展示されています。

 <ミニ知識> シーボルト・・・・広辞苑より
 ドイツの医学者・博物学者。 1823年(文政6)オランダ商館の医員として長崎に着任、日本の動植物・地理・歴史・言語を研究。 また鳴滝塾を開いて高野長英らに医術を教授し、実地に診療。1828年帰国の際、荷物の中に国禁の地図が発見され罪に問われた。(俗に言うシーボルト事件) 1859年(安政6)再び来航、幕府の外事顧問となる。 1862年(文久2)出国。 箸「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」など。(1796~1866)
| 長崎の旅(2) 愛と平和 | 20:20 | comments(0) | - |
長崎の旅 その36 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
平和祈念館-1
これより 「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」 へ入ります。
平和祈念館-2
平和祈念館-3
直径29mの水盤。
平和祈念館-4
平和祈念館-5
水盤の水より突き出した形のガラスの2枚の壁(スリット型トップライト)。
平和祈念館-6
平和祈念館-7
水盤の夜の光景 (掲示されている写真パネルを撮影したもの)。
平和祈念館-8
水盤越しに見えるレンガ色の建物は 「長崎市平和会館」。
平和祈念館-9
水盤を反時計方向にまわり、ガラスの2枚の壁(スリット型トップライト)の正面、「ここから250m先が原爆落下中心地です」 と書かれています。
平和祈念館-10
階段を下りて地下に入ります。 追悼空間、原爆で亡くなられたすべての方々への追悼と平和祈念を静かに行うための空間です。
平和祈念館-11
 奥の正面には 「原爆死没者名簿棚」 が設置されています。 高さ9m、27段、1段に最大9冊の名簿を奉安することができます。 原爆死没者の氏名を記した名簿が安置されています。 名簿棚の前には献花台を配置し、花や千羽鶴などが手向けられるようになっています。 死没者名簿棚は4面ともガラス製で、棚は鉄骨製、開閉は半自動式になっています。 安置される名簿は、保存環境をよくするために、紫外線をカットして調湿材を入れた箱に納められています。
  長崎市原爆死没者名簿登載者数(平成22年8月9日現在)
            152,276名(名簿153冊)

 ガラスの柱
 追悼空間には12本のガラスの光柱があり、その奥に原子爆弾により亡くなられた方々の名簿が奉安されている名簿棚を配置しています。ガラス柱の上部は開閉式のトップライトになっており、また、ガラス柱が建ち並ぶ方向が落下中心地となるように設計されています。ガラスの柱は光を灯しながら、未来への平和を願い、世界中の空へその願いが伸びていくことを意図しています。(案内板より引用)
長崎市平和会館
平和祈念館では原爆死没者に冥福を祈り、地下連絡通路で結ばれている「長崎原爆資料館」や「長崎平和会館」 にある 「長崎市歴史民俗資料館」、「長崎市野口彌太郎記念美術館」を見学。
原爆殉難教え子と教師の像
平和会館前広場に建立されている 「原爆殉難教え子と教師の像」。
JUGEMテーマ:写真

 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に奉安されている 「死没者名簿」 に冥福を祈り、また、世界平和を祈念してきました。
 「原爆資料館」では、原爆によって破壊された直後の長崎市内の写真や、爆発時刻11時2分で止まった時計、高熱とその後の火災によって溶けた瓶など900余点が展示されています。 撮影禁止のため写真展示できませんが、愚かな戦争を繰り返してはなりません、その意を改めて再認識しました。
| 長崎の旅(2) 愛と平和 | 19:41 | comments(0) | - |
長崎の旅 その35 山王神社と一本柱鳥居
山王神社-1
山王(さんのう)神社入口。 二本の巨樹クスノキがどっしりと根をおろしています。
山王神社-2
二本のクスノキには、「被爆クスノキ」 の表示がされています。
山王神社-3
 山王神社の大クス
 山王神社は周辺を様々な樹木で囲まれており、その中で、この二本の大クスは神社の境内の入口にどっしりと根をおろしている。 また、四方に伸びた2本の枝葉は、上部にいくにつれ複雑に絡み合いながら一つの深い緑陰をつくっている。
 1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂による強烈な熱線とすさまじい爆風のため、爆心地から南東約800mのこの神社の社殿は倒壊、隣接する社務所は全焼、そして、二の鳥居は片方の柱を失ってしまった。 社殿を囲んでいた樹木は折損し、この2本の大クスも爆風により幹には大きなき裂を生じ、枝葉が吹き飛ばされ丸裸となった。 また、熱線により木肌を焼かれ、一時は枯死寸前を思わせたが、その後樹勢を盛りかえし、現在は長崎市の天然記念物に指定されている。
 長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置する。     平成7年8月 長崎市
山王神社-4山王神社-5
 この石の由来について
 この石は、平成18年(2006年)山王神社 被爆楠の木の2度目の治療の時に、右側の木の空洞の中から取り出されたのです。 治療にあたった樹木医、海老沼氏によると、昭和20年8月9日(1945年)に投下された原子爆弾の爆風により、入ったものと考えられる。 <爆風;秒速220m、熱線2000度(推定)> その証として無数の石が、右側の木の中から発見されている。 この木の3mの上にのぞき窓があり、この部分に空洞があって、爆風により石が舞い上がり、穴の中に止まっている。 常識では考えられないような大きな力が加わり、原子爆弾の威力を物語っている。
 神社に向かって左側の楠の木は爆心地に近く、主幹は途中で折れている。 その上、木の幹(内部)には無数の破片(瓦、金属、小石等)が突き刺さっていた為、治療の時、その破片を取り除くのには困難を極めた。 山王神社氏子総代会
山王神社-6
境内奥にある山王神社社殿。山王神社-7
社殿から見る二本のクスノキ、二本の枝が交錯し大樹冠を成しています。
山王神社-8
 市指定天然記念物 山王神社の大クス(指定;昭和44年2月15日)
 この2本のクスノキは、胸高幹囲がそれぞれ8mと6mで、市内にあるクスノキの巨樹の一つである。 ともに昭和20年の原爆で主幹の上部が折れたため、樹高は10m内外であるが、四方に張った枝は交錯して一体となり、東西40m、南北25mの大樹冠を形成している。原爆の影響で一時落葉し枯木同然であったが、次第に樹勢を盛りかえし今日に至っている。  長崎市教育委員会
山王神社-9
山王神社二の鳥居、被爆で一本柱になった鳥居。
山王神社-10
 被爆した鳥居
 この鳥居は、1924年(大正13年)10月に山王神社の二の鳥居として建てられたが、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により、一方の柱がもぎ取られてしまった。 ここは爆心地から南東へ約800mの距離にあったが、強烈な輻射熱線によって鳥居の上部が黒く焼かれ、また爆風によって一方の柱と上部の石材が破壊され、上部に残された笠木は風圧で反対方向にずれている。
 ただ一個の原子爆弾によって、当地区もまた、ことごとく灰じんと帰したが、この鳥居は強烈な爆風に耐え、あの日の惨禍を語りつぐかのように、いまなお一方の柱で立ち続けている。 しかし、その後長居年月を経たため、安全性を考慮し柱の基礎部分や接合部分の補強工事を行った。 長崎市ではこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘版を設置する。 
JUGEMテーマ:写真

 山王神社の大クス、被爆にめげず樹勢を取り戻した姿を撮影し、その生命力の強さに感動します。 また、一本柱で立つ神社の鳥居、この惨禍を二度繰り返さないためにも核兵器の怖さを末代まで伝承するシンボルとして残されています。
 
 本日、「なでしこジャパン」 が奇跡の優勝・世界一に輝く偉業を成し遂げました。 サッカーの女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会は17日(日本時間18日)、ドイツ・フランクフルトで決勝戦が行われ、日本(なでしこジャパン)がPK戦の末、世界ランキング1位米国を降し、初優勝しました。
 18日の早朝3時30分からTVの前で応援、前半押され気味の展開、後半米国に先にゴールされ心配しましたが、すぐさま同点、二点目の米国にゴールをされるも粘りの強さで同点。 その後のPK戦で優勝をもぎ取る快挙を成し遂げました。 このところ明るいニュースがなかった日本にビッグな朗報! 日本中に感動をもたらしてくれた 「なでしこジャパン」。 最高にハッピーな一日となりました。
| 長崎の旅(2) 愛と平和 | 20:07 | comments(0) | - |
長崎の旅 その34 如己堂と記念館
如己堂-1
長崎市上野町にあります 「如己堂」。
如己堂-2
2畳ひと間の如己堂内部。 かたわらに 「平和の聖母像」 が置かれています。
如己堂-3
 如己堂(にょこどう)
 この二畳ひと間の小さな家は昭和23年春長崎浦上の隣人たちから贈られたものです。 永井隆博士は 「己の如く人を愛せよ」 というキリストの 「みことば」 を常に口にし実行する人でした。 博士は家を建ててくれた人々の心を忘れず自分もこの愛に生きようとする心から 「如己堂」 と名づけました。 昭和26年5月1日 43歳の生涯を閉じたその日まで書斎兼病室としてここに住んでいました。
如己堂-4如己堂-5
 如己堂
 長崎市名誉市民、永井隆医学博士の病室兼書斎。
 島根県出身の永井博士は、長崎医科大学卒業後、放射線医学を専攻した。当時は結核患者が多く、医療機器も不十分だったことから、放射線を過量に受け、「慢性骨髄性白血病、余命3年」 と宣告された。
 その2ヶ月後、原爆を被爆し大けがを負って、妻までも失ったが、被災者の救援活動に積極的に取り組み、ついには寝たきりとなってしまった。
 しかし、科学者としての不屈の研究心とカトリック信徒としての厚い信仰心もあって、病床にありながら十数冊もの著書を執筆した。
 博士は、この建物を 「己の如く隣人を愛せよ」 との意味から 『如己堂』 と名づけ、ここで2人の子どもと生活した。 そして、ここから世界中の人々に戦争の愚かさと、平和の尊さを発信続け、昭和26(1951)年5月1日、43歳で永眠した。
 博士の恒久平和と隣人愛の精神は、今も多くの人に受け継がれており、如己堂はその象徴となっている。        長崎市教育委員会
記念館-1
如己堂のそばにある 「長崎市永井隆記念館」。
記念館-2
 永井隆博士と直筆の書 「如己愛人」。
 「わがいとし子よ “汝の近きものを己の如く愛すべし” そなたたちに遺す私の言葉は、この句をもって始めたい。そして恐らく終わりもこの句をもって結ばれ、ついにすべてがこの句にふくまれることになるだろう。」(「いとし子」より」
記念館-3
 永井隆記念館設立の趣旨
 永井隆博士は、原爆に打ちひしがれた子供たちに明るい光をという願いから、私財を投じて 「うちらの本箱」 という図書室を作りました。 博士の死後、その考えに賛同したブラジル在留邦人の寄付金と市費によって 「長崎市立永井図書館」 が建設され、昭和27年12月25日に開館しました。
 その後、博士の崇高な精神と偉業を永く記念するため、昭和44年4月1日、「長崎市立永井記念館」と改称し、博士の遺品や写真等も併せて展示するようになりました。
 しかし、施設が老朽化したことから、全面改築し、新たに 『長崎市永井隆記念館』 と改称して博士の遺徳を顕彰することになりました。 この記念館を通して、博士の願いであった恒久平和と隣人愛を伝え続けたいと思います。
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 明治41年(1908)2月3日、島根県松江市に生まれる。 昭和19年に医学博士となり、昭和24年長崎市名誉市民(第一号)の称号を受ける。 病床に伏せながらも原爆症の研究と平和への祈りに生涯を捧げた永井隆博士に敬意を表します。
 また、永井隆博士の年表によりますと、昭和23年10月18日ヘレン・ケラー女史が如己堂を訪ねる。 昭和24年5月27日床についたまま長崎医大で天皇陛下に拝謁。 昭和25年6月1日首相(吉田茂)の表彰を受け、天皇より銀杯一組を賜る。 と書かれています。
| 長崎の旅(2) 愛と平和 | 20:15 | comments(0) | - |
長崎の旅 その33 浦上天主堂
浦上天主堂-1
長崎市本尾町にあります 「浦上天主堂;うらかみてんしゅどう」 入口。
浦上天主堂-2
入口を入ると左側に 「平和の聖母像」 が、手前の石碑は田中千禾夫文学碑があります。石碑には戯曲 「マリアの首」 の一節が刻まれています。
浦上天主堂-3
 「平和の聖母像」、1951年(昭和26)6月にイタリアのカトリック医師会から永井隆博士に贈られた聖母像。 博士はこの聖母像の一日も早い到着を待ち望んでいましたが、到着する1か月半前の5月1日に聖母像を見ることなく亡くなられました。
浦上天主堂-4
天主堂近くには子供を抱いた 「聖母像」 が立っています。
浦上天主堂-5
正面から見る 「浦上天主堂」。
浦上天主堂-6
正面入口には 「イエスキリスト像」。
浦上天主堂-7
 入口向かって右側には訪問を記念して 「教皇ヨハネパウロ二世」 の胸像が建立。
 私は、栄光と悲劇の跡をとどめている歴史の町、こヽ長崎を訪れ、栄光を勝ち取り悲劇を乗り越えた人々の子孫であり、後継者である皆さんにお話しできることを神に感謝します。 私は大きな愛情と、この地方教会の素晴らしいカトリックの伝統に対する深い尊敬の念をもって皆さんにご挨拶の言葉をのべます。
                            (25日の説教の冒頭のお言葉)
       教皇は浦上の司教座聖堂に於て、1981年2月25日司祭叙階のミサを
       司式され翌26日に修道女達にお話をなされた。
浦上天主堂-8
天主堂前には 「信仰之礎碑(総流配50周年記念碑)」 が建立。 浦上四番崩れでは、浦上の信徒は6年間も旅と呼ばれる辛苦を味わったが、1873年(明治6)晴れて浦上に帰ることができた。 この碑は公教復活50年を記念して1920年(大正9)に建立されたもの。
浦上天主堂-9
 浦上天主堂の歴史と由来
 浦上は、戦国時代の末ごろから、キリシタンの村であった。 その後 徳川幕府のキリシタン弾圧、近くは1868年(明治元年)浦上村民総流配が決定され、名古屋以西の21藩に浦上信徒3,414人が流配された。 1873年(明治6年)キリシタン弾圧は停止され信徒たちは帰村したが、なによりも欲しかったのは、「神の家」 魂のよりどころである天主堂であった。
  1880年(明治13年) 信徒たちは旧庄屋屋敷を買収して仮天主堂とした。
 1895年(明治28年) 長い弾圧と流配の打撃から生活の再建も充分でなかったので、この年になってようやく天主堂の建立に着工。 主任司祭フレノ師(フランス人)が設計監督し、信徒たちは材料運搬などの労力奉仕のほか、それぞれ分に応じた献金をした。 設計は石と煉瓦造りの壮大なロマネスク様式であったが、資金難から工事はとだえがちで、1911年(明治44年)フレノ神父が過労でたおれた。 後任のラゲ神父(ベルギー人)が工事を続行したが、早く完成するため屋根を木造瓦ぶきに設計変更した。
 1914年(大正3年) 20年の歳月を経て、赤煉瓦造りの天主堂が完成し、3月17日浦上信徒発見の記念日に、コンパス司教によって献堂式をあげた。 床面積1,162屐352坪)東洋一の大天主堂であった。
 1925年(大正14年) 双塔ができて、2個の聖鐘がつるされた。 着工から30年目であった。
 1945年(昭和20年) 8月9日原爆被災により破壊焼失した。 信徒も12,000人のうち、8,500人が爆死したと推定されている。
 1959年(昭和34年) 原爆被災前の天主堂をモデルにした鉄骨コンクリート造りの現在の天主堂が落成し、11月1日ローマ教皇庁公使フルステンベルグ大司教によって聖別された。 床面積1,679屐509坪)。
 1962年(昭和37年) 1月1日大司教座聖堂(カテドラル)に指定された。
 1980年(昭和55年) 完成21年経過したこの天主堂はあちこち補修の必要にせまられていた。 ときあたかもローマ教皇様の訪日がきまりつつあり、有史以来初めてのこの慶事を記念して、歴史性の高い原爆被災前の天主堂のように外装は赤煉瓦造り、窓は全部ステンドグラスにするなど内装も立派に整備して10月完工した。 なお浦上は現在信徒数8,500人、日本で一番、信徒数の多い小教区である。
 
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 大正14年(1925)、キリシタン弾圧にも耐え、信仰の自由を得た浦上の信者たちが建てた教会です。 その美しさから東洋一とも言われていましたが、爆心地のすぐそばだったために全壊。 現在の建物は、昭和34年に再現されたものに、昭和55年、内外装を加え、創建当時の姿に改装したものです。 大聖堂の中には美しい24枚のステンドグラスが配され、赤や青、黄色の美しい色が堂内を照らしています。(るるぶ情報版長崎より)
| 長崎の旅(2) 愛と平和 | 20:38 | comments(5) | - |
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