質素な写真展示室

富士の裾野で、美しい日本の風景・お祭りや花などの写真を展示します。

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長崎の旅 その27 中島川公園で 「チリンチリンアイス」
水害復興と友好の記念碑
 中島川公園に建立されている 「水害復興と友好の記念碑」。
 昭和57年7月23日、長崎の街を想像を絶する集中豪雨により、死者、行方不明合わせて262人という大惨禍を受け、美しかった中島川石橋群も6橋が流失し、3橋が半壊しました。 この碑は、中島川に石橋を架けるなど古くからゆかりの深い中国に依頼して製作した水害復興記念碑です。 像は、不思議な能力を持った伝説上の中国の少年と元気な日本の少女が力を合わせて、風を呼び呼ぶ巨大な龍を従わせている姿で、治水と日中の友好を象徴しています。
シーボルトの桜
 公園に植えられている 「シーボルトの桜」
 この桜はシーボルトによって1866年頃ヨーロッパに紹介され、初めて見る桜にヨーロッパ人は魅了され、広まりました。 ヨーロッパでは、日本の有名な浮世絵師、葛飾北斎の名前をとって、ホクサイと呼ばれました。
 この桜は八重桜の一種です。
普通は、桜の花には香りがありませんが、この花は芍薬(しゃくやく)のような香りがします。 花は長い期間咲き、薄いピンクで7個から12個の花びらをつけます。
140年後に長崎に帰ってきました。  2006年3月 NPOながさき千本桜
上野彦馬-1
上野彦馬生誕の地 (坂本龍馬を撮った上野彦馬)
上野彦馬-2
 像に向かって左側 上野彦馬 天保9年(1838)~明治37年(1904)
わが国写真の開祖。 広瀬淡窓に漢学を、名村八右衛門に蘭学を、オランダ人ポンペに化学を学ぶ。蘭書中の写真の記述に興味を持ちさらにフランス人ロッシュに写真術を学ぶ。 文久2年(1862)中島川上流に日本初プロカメラマンとして撮影局を開室。
以来坂本龍馬、高杉晋作ほか志士頚官の多くを撮影。 明治10年西南戦争にわが国初の従軍カメラマンとして参加。 数百枚の写真を撮っている。

 像に向かって右側 坂本龍馬 天保6年(1835)~慶応3年(1867)
土佐郷士の家に生まれる。 江戸に出て剣術修行の後に土佐に戻り土佐勤王党に加盟。 のちに脱藩して勝海舟に学ぶなど見聞を広め、維新回天の事業に取り組んだ。 中でも薩長同盟の締結に大きな役割を果たした。 慶応元年(1865)長崎に日本初の商社 “亀山社中” を設立。 慶応3年(1867)には土佐海援隊として商業活動のかたわら大政奉還実現に力を注いだ。
長崎名物チリンチリンアイス-1
中島川公園にて、長崎名物 「チリンチリンアイス」。
長崎名物チリンチリンアイス-2
きれいな黄色のバラの花が見事です。 1個100円、美味でした。
美しい枝垂れ柳
中島川左岸バイパス上に整備された都市計画道路、枝垂れ柳がきれいです。
眼鏡橋
最後にもう一度、美しい国の重要文化財 「眼鏡橋」 を撮影。
JUGEMテーマ:写真

 今回、長崎の旅の楽しみの一つが長崎名物 「チリンチリンアイス」 を食べながら、眼鏡橋を眺めることです。 「チリンチリンアイス」 は創業1960年 外尾冷菓の製品です。 皆様に愛されて半世紀、シャーベットのような食感とバニラアイスのほんのりと優しい甘さが人気の秘密です。 売り子のおばちゃんが屋台の鐘をチリンチリンと鳴らして売り歩くのでそう呼ばれています。
| 長崎の旅(1) 異国エリア | 19:41 | comments(0) | - |
長崎の旅 その26 国の重要文化財 眼鏡橋(2)
眼鏡橋-1
夕日に照らされた第10橋 眼鏡橋の風景がきれいでした。
眼鏡橋-2
水辺に下りて撮影した眼鏡橋、中島川石橋群を代表する歩行者専用橋。 下流に見える石橋は第11橋 袋橋(ふくろばし)です。
優雅に泳ぐ鯉
石橋群の下を流れる中島川、きれいな水に鯉が優雅に泳いでいます。
気品のあるサギ鳥
気品ある姿で、川面に羽を休める白鷺(?)。
幸運のハート石
「ハートストーン」 は眼鏡橋付近の中島川遊歩道を上流へ上がると見えます。
中島川の石橋群
陶板絵で掲示されている中島川石橋群、上流から順に
 第  1橋 阿弥陀橋(あみだばし)
 第  2橋 高麗橋(こうらいばし)・・・旧高麗橋は長崎大水害で流失後、西山ダム公園
                       に移設復元(市指定文化財)
       桃渓橋(ももたにばし)・・・分流して西山方向へ(市指定文化財)
 第  3橋 大井手橋(おおいでばし)
 第  4橋 編笠橋(あみがさばし)
 第  5橋 古町橋(ふるまちばし)
 第  6橋 一覧橋(いちらんばし)
 第  7橋 芊原橋(すすきはらばし)
 第  8橋 東新橋(ひがししんばし)
 第  9橋 魚市橋(うおいちばし)
 第10橋 眼鏡橋(めがねばし)・・・国の重要文化財
 第11橋 袋橋(ふくろばし)・・・市指定文化財
 第12橋 常盤橋(ときわばし)
 第13橋 賑橋(にぎわいばし)
  以上、陶板絵に描かれている石橋は14橋です。    
第5橋 古町橋
第5橋 古町橋 古町と麹屋町を結ぶ。 橋の名は町名に由来。
第6橋 一覧橋
第6橋 一覧橋 1657年(明暦3)豪商でかつ唐通事、高一覧が浄財を募って石造りアーチ橋を架けたのが最初。 現在の橋は大水害後の1986年に再建。 橋の名は高一覧に因んだもの。
第8橋 東新橋
第8橋 東新橋 市民会館横、魚の町と諏訪町を結ぶ。諏訪町の旧名は新橋町。 橋の名前は地名に由来。 1982年の大水害で破壊。 昭和の石橋で歩行者専用橋になっています。
中島川バイパス区間平面図
 中島川バイパス区間平面図
 昭和57年(1982)7月23日に長崎市周辺を襲った集中豪雨は、1時間雨量127.5mm、3時間連続雨量313mmと長崎海洋気象台の観測史上最大の降雨を記録し、長崎市中心市街地に未曾有の洪水被害をもたらしました。
 国の重要文化財である「眼鏡橋」を残したまま、洪水を安全に流下させるために、両岸にトンネル水路(バイパス)を設置しました。
 また、バイパスの上には、中島川公園や都市計画道路が整備されました。
中島川下流
第11橋 袋橋から見た中島川の下流。 川幅が広くなった部分がバイパスの出口です。下流に見える橋は第12橋 常盤橋です。寛永年間(1624~1644)に木廊橋が最初に架けられ、現在のものは2001年(平成13)に再架されたものです。
JUGEMテーマ:写真

 第1橋の阿弥陀橋から下流の第13橋の賑橋まで距離にして約1kmほどです。 この間に14橋の石橋が架けられています。 中島川の東側から西側にある自分の菩提寺に最短距離で行くことを目的として多くの橋が架設されました。  一つ一つに歴史がある石橋群は見応えがあります。
| 長崎の旅(1) 異国エリア | 20:31 | comments(0) | - |
長崎の旅 その25 国の重要文化財 眼鏡橋(1)
眼鏡橋-1
撮影したかった一枚の写真、長崎の人気スポット 「眼鏡橋」 です。
眼鏡橋-2
2010年10月29日18:09撮影、ライトアップされた 「眼鏡橋」 がきれいでした。
眼鏡橋-3
「眼鏡橋」 の上はアーチ型になっています。
眼鏡橋-4
石造りの欄干に 「眼鏡橋」 の文字が刻まれています。
眼鏡橋-5
「眼鏡橋」 が架かる中島川の辺に建つ 「黙子如定像」。
眼鏡橋-6
「黙子如定」 は興福寺の二代目住職を勤めました。
眼鏡橋-7
黙子如定(もくすにょじょう)の像 長崎の地に370年余りもの長い歴史を持つ眼鏡橋は 『黙子如定(1597〜1657)』 という中国の江西省の僧が寛永9年に日本に渡来し同11年(1634)に我が国最初のアーチ型石橋として眼鏡橋を完成させた。
 川面に映るその姿から古来より 『ねがめ橋』 の名で長崎の人たちに親しまれ、明治15年に正式に眼鏡橋と命名された、。
眼鏡橋-8
 眼鏡橋 めがねばし 栄町―諏訪町 国指定重要文化財(昭和35年2月9日指定)
 中島川の第10橋。 わが国最古の石造アーチ橋で、寛永11年(1634)興福寺唐僧黙子禅師によって架設された。
 黙子禅師は中国江西省建昌府建昌県の人で、寛永9年(1632)に日本に渡来したが、石橋を架ける技術指導者でもあったようである。 しかし、この眼鏡橋は、正保4年(1647)6月の洪水で損害を受け、慶安元年(1648)平戸好夢(こうむ)によって修復がなされた。 川面の映るその姿から、古来より “めがね橋” の名で長崎の人たちに親しまれていたが、明治15年(1882)に正式に眼鏡橋と命名された。 
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 長崎市内中央を流れる中島川に架かる、二連式のアーチ型石橋。 川面に映るとメガネのように見えるところからこの名がつきました。 架設されたのが1634年(寛永11)で、この種の石橋としては日本最古の云われています。 今回の長崎の旅で撮影したかった名所の一つです。 眼鏡の形をした風景を、三回チャレンジして撮影することができました。 
| 長崎の旅(1) 異国エリア | 19:17 | comments(0) | - |
長崎の旅 その24 県庁と街中の風景
街中の風景-1
美しい坂道の街を散策してきました。
街中の風景-2
市内の道路に立つガス灯。 長崎の竜踊(じゃおどり)がデザインされています。
街中の風景-3
ガス灯の基礎部分。 高村光太郎とガス灯 青白き瓦斯の光に輝きて 吾がベネヂクチンの静物画は忘れられたる如く 壁に懸れり 「道程より」
街中の風景-4
「思案橋通り」 のゲート。
街中の風景-5
「思案橋跡の碑」 と彫られています。
街中の風景-6
「思案橋跡の碑」 の傍らに 「7.23 長崎大水害水位」 の塔が建立されています。
街中の風景-7
 7.23 長崎大水害水位
 長崎の大水害は 過去 史誌によれば1647(正保4)年より数度にわたり 市民を苦しめた。 この度のは1795(寛政7)年いらい 実に二世紀ちかくを経ての集中豪雨 異常な体験であった。
 あの時、1982(昭和57)年7月23日、この思案橋跡の地点の水位  1.57メートル。 人も車も物すべてが奔流の底に消えていった。  恐怖、打撃。 しかし、被災市民はその昔もそうであったように、黙ってつよく起ち上った。 誰をうらむこともない さあ復興だ と。
 いま思案橋の街の灯は 更にあかるい。 この塔飾りには 長崎の港から未来に向って大洋をこえようとする御朱印船を配した。大水害復興の心意気を讃えるためである。
長崎県庁-1
長崎県民140万人の行政を司る「長崎県庁」。
長崎県庁-2
長崎県出身の内村航平選手、2010年世界体操選手権大会(オランダ ロッテルダム)男子個人総合優勝(大会2連覇) おめでとうの垂幕が掲げてあります。
JUGEMテーマ:写真

 花街に行こうか戻ろうか思案した「思案橋」。 丸山の花街の入口に設けられた門の前にあった橋。 当時ここには川が流れ思案橋が架かっていましたが、昭和30年代に道路拡張のため橋は消滅。それを惜しんで橋の欄干を模した建造物が立っています。
 歴史が刻まれた街中を散策していると意外な発見があって楽しみです。 まだまだ続きます 「長崎の旅」 、見て下さい。
| 長崎の旅(1) 異国エリア | 19:49 | comments(0) | - |
長崎の旅 その23 丸山公園と花月
丸山町交番
長崎市丸山町1-37にある、石造りのレトロな雰囲気のある建物、「丸山町交番」。
丸山公園-1
交番の横にある 「丸山公園」。
丸山公園-2
丸山公園に建つ立派な 「坂本龍馬之像」。
丸山公園-3
 坂本龍馬と長崎
 文久2年(1862)3月24日に土佐藩脱藩、各地を遊歴後、江戸に赴き、勝海舟の門人となった龍馬は、元治元年(1864)2月23日に初めて長崎の地に入り、同年4月4日まで勝海舟とともに長崎に滞在する。 慶応元年(1865)、長崎に亀山社中を結成。 同3年(1867)1月中旬、長崎の料亭清風亭で土佐藩参政後藤象二郎と会談。 その結果、龍馬の脱藩の罪は許され、4月初旬、龍馬は海援隊長に任命される。 以後、土佐藩の支援のもと海援隊の業務を拡大していった。 7月6日長崎丸山の地でイカルス号英国水夫事件が起き、その嫌疑が海援隊に向けられる。 事件の真相解明は、最初、土佐で行われたが、後に長崎で行われ、2ヶ月後の9月7日海援隊への嫌疑は晴れるに至った。 事件解決後、直ちに龍馬は活動を再開。 9月18日に芸州藩から借り入れた露天丸で長崎を出帆し、これが長崎との最後の別れとなる。 その後赴いた京都近江屋で11月15日襲撃され、暗殺される。(33歳)

 坂本龍馬像のみどころについて 彫刻・制作者 小崎 侃
 公文菊僊(くもんきくせん)によって描かれた掛軸・坂本龍馬肖像画(高知県佐川町立青山文庫蔵)をモデルとした。 折り目も真新しい袴で長崎丸山の風に吹かれながら闊歩(かっぽ)した龍馬の姿をイメージして制作した。 愛刀や小刀、懐中時計やピストルなど所持していた姿ではあるが、右手に握っているものや、右の腹あたりの膨らみが、像を見る人の好奇心・想像力によって様々で、奥ゆかしいものである。

 三種之神器
・懐中時計 右手に握っているものに注視して頂くと、鎖のついた懐中時計を手にしている様子がわかる。龍馬は、ウォルサムの懐中時計を愛用していたのかもしれない。

・ピストル 右の腹部の膨らみは、完全に見えない程度に服の中に納めていたピストルを表現している。 北辰一刀流の剣豪ながら短銃を愛用し幕末の乱世から難を逃れることもあった。 納めているのは、スミス&ウエツソン社のものであろうか。

・ブーツ 坂本龍馬といえばブーツ。 代名詞的なもの。
丸山公園-4
映画で一躍有名になった 「長崎ぶらぶら節」。
丸山公園-5
史跡 花月の石碑と向井去来の句碑。 「いなづまや どのけいせいと かりまくら」 遊女の心情を詠んだ句と云われています。
丸山公園-6
 県指定史跡 花月(かげつ)
  指定;昭和35年3月22日
  所在地;長崎市寄合町6番地1
 寛永19年(1642)、それまで市中に散在していた遊女屋が一ヶ所に集められ、官許の遊里として丸山町、寄合町が形成された。 引田屋(ひけたや)もこの頃の創立といわれる。 花月は、文政元年(1818)頃にこの引田屋の庭園内につくられた茶屋の名称であり、長崎奉行の巡視の際には、休憩所となった。 この地は、向井去来(むかいきょらい)や太田蜀山人(しょくさんじん)、頼山陽(らいさんよう)といった文人墨客や多くの志士などが訪れたことが知られ、また、端唄春雨(はうたはるさめ)もここで生まれた。 明治12年(1879)の丸山の大火で花月は類焼したが、花月の名称は、引田屋の建物の一部に移され、庭園、建物とともに料亭 「花月」 として継承されている。
料亭花月-1
料亭花月-2
県指定史跡 料亭花月 花月は、寛永年間(1624年〜)に創業した妓楼引田屋の庭園にあった茶屋でしたが、引田屋廃業の後に、庭園と建物を引き継ぎで料亭花月となりました。 向井去来、頼山陽などの多くの文人が訪れ、詩文、版画等に紹介されてきました。 幕末には、明治維新の志士たちも出入りしました。 大広間の床柱に残る刀痕は坂本龍馬が残したものと云われています。(HP丸山・中の茶屋より)
JUGEMテーマ:写真

 丸山は、寛永19年(1642)に、市中に散在していた遊女屋を幕命により、一か所に集めたのが始まりと云われています。 当時、丸山は江戸の吉原、京の島原と並ぶ、日本三大花街と云われる賑わいでした。 特に丸山は日本で唯一、阿蘭陀人や唐人と交流ができた花街です。(HP丸山・中の茶屋より)
| 長崎の旅(1) 異国エリア | 20:29 | comments(2) | - |
長崎の旅 その22 中の茶屋 
中の茶屋-1
梅園身代わり天満宮の直ぐ近くにある市指定史跡 「中の茶屋」。
中の茶屋-2
入口から見える、絵になる風景です。
中の茶屋-3
中の茶屋-4
趣のある庭園です。
中の茶屋-5
「長崎ぶらぶら節」 にも歌われ、江戸時代中期に築かれた遺構の一つです。
掲示板
 愛八(あいはち)
 大正から昭和初期にかけて、長崎芸妓の名を全国的にひろめた丸山の名芸妓。 映画 「長崎ぶらぶら節」 では、長崎学の祖といわれる古賀十二郎とともに長崎に眠る民謡を探す旅に出かけ、名曲 「長崎ぶらぶら節」 と出会います。 愛八は、明治7年(1874)、長崎県西彼杵郡日見村(現在の網場町) で生まれ、17歳の時、丸山町の末石方より愛次の妹としてお披露目しました。 長唄に、清元に、常磐津に、端唄にと、姉さん芸者も驚くほど、稽古熱心で、天分の美声にさらに磨きをかけました。 また、大の相撲好きで、木戸御免の扱いを受けるほどでした。 梅園身代り天満宮は、昔から心や身体の悩みまで身代りになってくれるといわれていて、愛八さんもよく参拝していたようです 。愛八は、情に厚くお金に困った人などに惜しみなく援助をしていました。

 古賀十二郎(こが じゅうじろう)
 古賀十二郎は、長崎学の基礎を築いた郷土史家です。 長崎市本五島町の旧黒田藩御用達・古賀家に生まれました。 明治28年(1895)、長崎市立商業学校を首席で卒業。商業学校時代、菅沼貞風の 「大日本商業史」 等を読んで、深く心を打たれ、長崎の対外交渉史の研究に生涯をかけることを決意しました。 商業学校を卒業後、東京外国語学校に学んだ後に長崎に帰り、長崎の歴史研究に没頭し生涯を研究に捧げました。 「長崎市史・風俗編」 「長崎洋学史」 などの著書のほか第一期の長崎史談会を組織しました。(梅園身代り天満宮に立つ掲示版より)
文学碑
梅園身代り天満宮の境内にある 「小説 長崎ぶらぶら節」 文学碑。 なかにし礼氏の直木賞授賞小説 「長崎ぶらぶら節」 を、深町幸男監督、愛八役を吉永小百合さん、古賀十二郎役を渡哲也さんが演じ、2000年9月に映画が公開され話題となりました。
JUGEMテーマ:写真

 ぶらぶら節で有名な花街、中の茶屋は江戸時代に賑わいを見せていた花街・丸山の遊女屋 「中の筑後屋」 の茶屋跡。 民謡 「長崎ぶらぶら節」 にも出てくるほど有名な茶屋でした。 庭園は江戸時代中期に築かれた趣のある造りで、寺院のものを除けば市内では数少ない遺構の一つです。(長崎さるくタウンマップより)
 ぶらぶら節は丸山遊郭を中心に、江戸時代末期(1850年代)から歌われたお座敷歌です。 長崎の名物、風俗をなどを巧みに織り込れ、歌詞も次々に加えられましたが、大正の頃には忘れられた状態となりました。 愛八がビクターで吹き込みレコードとなって以来、全国に知られるようになりました。
 
    長崎名物はた揚げ盆まつり 秋はお諏訪のシャギリで 氏子がぶうらぶら
       ぶらりぶらりと云うたもんだいちゅう

    遊びに行くなら花月か中の茶屋 梅園裏門たヽいて 丸山ぶうらぶら
       ぶらりぶらりと云うたもんだいちゅう
                    :
                    :
                                 (HP丸山・中の茶屋より)
| 長崎の旅(1) 異国エリア | 19:29 | comments(0) | - |
長崎の旅 その21 梅園身代り天満宮
梅園身代り天満宮-1
長崎市丸山町にある 「梅園身代り天満宮;うめぞのみがわりてんまんぐう」。
梅園身代り天満宮-2
太鼓橋越しに見る、身代り天満宮。
梅園身代り天満宮-3
境内には芸術的な石灯籠。
梅園身代り天満宮-4
天満宮の脇には、朱色が鮮やかな 「七カ稲荷社」 があります。
梅園身代り天満宮-5
小説 「長崎ぶらぶら節」 ゆかりの天満宮。
梅園身代り天満宮-6
  身代り天神で有名な 梅園身代り天満宮
      祭 神 藤原道真公(正殿)
           宇賀御魂神(稲荷社)
      創 建 元禄13年(1700)
      所 在 肥前國彼杵郡長崎村小島郷
      現在地 長崎県長崎市丸山町2番地20号
お社のいわれ
 ここの天満宮は元禄13年(1700)丸山町乙名安田治右衛門によって創建され、以降丸山町の氏神様として親しまれています。
 元禄6年(1693)安田治右衛門が二重門(現丸山交番附近)にて梅野五郎左衛門に襲われました。 そして、自邸に担ぎ込まれたが不思議なことにどこにも傷が無く、身代りに庭の天神様が血を流して倒れていたそうです。 その後、この天神様を身代り天神と呼ぶようになりました。
 そのほか明和安永年間(1770頃)より、この場所は長崎奉行の許しにより芝居や見世物、相撲等の興行が行われるようになり、また、花街に接しているところから遊女や芸者さんが多く参拝していました。 さらに明治31年(1898)社殿大改修の際には文人墨客により天井絵を奉納されています。
 また、第二次大戦時、丸山町の出征を命ぜられた者は必ず参拝したそうですが、身代り天神によりすべて無事に帰還したそうです。
   祭 事     節 分 祭  2月3日
            天満宮祭 11月第2日曜日
JUGEMテーマ:写真

 市内路面電車 思案橋電停から徒歩約10分程で行ける 「梅園身代り天満宮」 を参拝してきました。 天満宮といえば、藤原道真公を祀る京都の 「北野天満宮」 や福岡の 「太宰府天満宮」 を思い浮かべますが、ここの天満宮はこじんまりとした清楚な社です。 旅の安全と健康を祈願しました。
| 長崎の旅(1) 異国エリア | 19:00 | comments(0) | - |
長崎の旅 その20 旧唐人屋敷
旧唐人屋敷-1
唐人屋敷跡の石碑。
旧唐人屋敷-2
 唐人屋敷跡
 唐人屋敷は、元禄元年(1688)に密貿易を取り締まるため長崎村十善寺郷のこの地に造成され、同2年(1689)4月に完成した。 敷地は8,015坪(のちに9,373坪余に拡張)で、煉塀と竹矢来で二重に囲まれ、2階建の瓦葺き長屋が20棟あり、2,000人から3,000人の中国人を収容することができたという。 地主神を祀る土神堂のほか、東南の隅に天后堂が、東北の隅に観音堂(関帝堂)が祀られている。
旧唐人屋敷-3
 旧唐人屋敷の文化財 ‥攷斉押´天后堂 4儔仔押´な〃会館
 唐人屋敷 江戸幕府は、一般の日本人と外国人との交流を避けるため、オランダ人(当初はポルトガル人)の住居は出島、唐人の住居は唐人屋敷と定めました。 唐人屋敷は現在の館内町のほぼ全域にあたり、元禄2年(1689)完成しました。 これ以降、唐人の市内住居が禁止されました。 旧唐人屋敷に現存する四堂(上の写真)のうち、土神堂、観音堂及び天后堂の三堂は唐人屋敷の中に建てられていたものですが、福建会館は唐人屋敷廃止後の明治期に建てられました。
土神堂-1
土神堂-2
土神堂-3
(1)市指定史跡 旧唐人屋敷内 土神堂(どじんどう)
   指定;昭和49年10月15日
   所在地;長崎市館内町2番地
 唐人屋敷は、徳川幕府が鎖国政策の一つとして、現在の館内町に設置した唐人の居住地であり、元禄2年(1689)に完成しました。 この土神堂は元禄4年(1691)、唐船の船主らの願いにより建てられました。 天明4年(1784)の大火で焼失し、のち再建され、以後数回にわたり改修されました。昭和25年(1950)老朽化および原爆の被害を受けたことから解体され、石殿だけが残っていましたが、昭和52年(1977)に再建され、現在に至っています。
天后堂-1
天后堂-2
天后堂-3
天后堂-4
(2)市指定史跡 旧唐人屋敷内 天后堂(てんこうどう)
   指定;昭和49年10月15日
   所在地;長崎市館内町12番地
 唐人屋敷は、徳川幕府の鎖国政策の一つとして、現在の館内町に設置した唐人の居住地であり、元禄2年(1689)に完成しました。 この天后堂の創立は、元文元年(1736)南京地方の人々が航海安全を祈願し、天后聖母を祀ったのが起源といわれます。 寛政2年(1790)重修、明治39年(1906)に改築し、。現在に至っています。
観音堂-1
観音堂-2
観音堂-3
(3)市指定史跡 旧唐人屋敷内 観音堂(かんのんどう)
   指定;昭和49年10月15日
   所在地;長崎市館内町35番地
 唐人屋敷は、徳川幕府が鎖国政策の一つとして、現在の館内町に設置した唐人の所在地であり、元禄2年(1689)に完成しました。 この観音堂は、瓢箪池の奥の石に「元文二年(1737)・・・・」の刻字がされていることから、この年に創建されたものと思われます。 天明4年(1784)の大火で焼失し、その3年後に再建されました。 大正6年(1917)中国商人鄭永超の手で改築され、現在に至っています。
福建会館-1
福建会館-2
福建会館-3
福建会館-4
福建会館-5
(4)市指定有形文化財 福建会館(正門・天后堂)
   指定;平成12年4月28日
   所在地;長崎市館内町3番1
 福建会館の前身は江戸後期に遡るが、明治元年(1868) 『八閩(はちびん)会館』 として正式に発足しました。 その後、明治30年(1897)に至り建物を全面的に改築し、福建会館と改称した。 会館本館(会議所)の建物は原爆により倒壊したため、現存するのは正門と天后堂などである。 正門は、三間三戸の薬医門形式で、中国風の要素も若干含んでいるが、組物の形式や軒反りの様子、絵様の細部など、主要部は和様の造りとなっている。 これに対し、外壁煉瓦造の天后堂は架構法なども純正な中国式を基調とし、一部木鼻や欄間は、和様に従っている。このように、様式的には和・中の併存であり、中国との交流の歴史が凝縮された建造物であるといえる。
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 密貿易などを防ぐ目的で作られた中国人居留地。 かっては2,000人〜3,000人が暮らす長屋が数十棟が建ち並んだという 「唐人屋敷跡」。 案内板に従って散策してきました。 昔も今も中国人のパワーを肌で感じます。
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長崎の旅 その19 日本最古の黄檗宗寺院 「興福寺」
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興福寺山門、朱色の山門から 「あか寺」 とも称されました。
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 県指定有形文化財 興福寺山門 指定;昭和34年1月9日
 興福寺に最初に建てられた山門は、寛文3年(1663)におこった市中大火により類焼しました。現存するこの山門は、元禄3年(1690)に再建されたものです。構造は三間三戸八脚門の入母屋造で、単層屋根・総朱塗となっている壮大な門です。 細部は和風であり、日本人工匠の手になるものです。
 この地は、承応3年(1654)中国から来朝した隠元隆(いんげんりゅうき)の初登の地であるため、門の背面梁上に隠元筆「初登宝地」の扁額がかかっています。
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 国重要文化財 大雄宝殿(本堂)
 寛永9年(1632)第二代黙子如定禅師が建立、のちに大火で類焼、元禄2年(1689)再建、慶応元年(1865)暴風のため大破し、さらに明治16年(1883)に再建し現在に至る。 堂外の正面高く隠元禅師筆の 「大雄宝殿」 と大書した扁額を掲げ、表廊下は吹き放しで入口は折扉。 堂内は煉瓦敷きで正面壇上に本尊釈迦如来、脇立は準提観音菩薩と地蔵王菩薩を祀る。 本堂を大雄宝殿と呼ぶのは釈迦(大雄)を本尊として祀ることからくる。
 ほとんどが中国工匠による純粋の中国建築で、資材も中国より運送したもの。 その形式はおおらかな重層切妻造で内装、外装とも中国清風をとりいれ、柱や梁には、人物、鳥獣、花が彫刻され、とくに、氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井、大棟上の瓢瓶などは珍しい。 中国南方建築の代表作とされ、明治時代の建築でありながら、戦前より国宝に指定され、現在は国重要文化財。(HP東明山 興福寺より引用)
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 県指定有形文化財 興福寺鐘鼓楼 指定;昭和37年3月28日
 寛文年間市中の大火では一応焼け残ったが、享保15年(1730)位置を変えて再建。 上階に梵鐘を吊り太鼓を置いた。 下階は禅堂として使用された。 隅鬼瓦は内向きが大黒天像、外向きが鬼面で、福は内鬼は外の趣向であろうか、珍しい例である。
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 県指定有形文化財 興福寺媽姐(まそ)堂 指定;昭和37年3月28日
 寛文3年(1663)市中の大火で類焼後、宝永3年(1706)再建された。 媽祖はまそ・まぁずぅ・ぼさと読むが、また天妃・天后聖母・菩薩・老媽などの呼び名もある。 海上安全守護の女神で、各唐船には船魂神として媽祖の小像を祀り、長崎港在泊中は当寺など由縁の唐寺の媽祖堂(福済寺の場合は観音堂)に奉安するのが例であった。 黄檗天井・半扉など黄檗風を加味した和洋の建築様式である。 媽祖堂があるのは長崎の唐寺だけの特徴。
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 国指定重要文化財 旧唐人屋敷門 指定;昭和36年6月7日
 長崎に来航する唐商人は、はじめ市中に民宿したが、元禄2年(1689)唐人居住の団地を造成してこれに隔離収容し、以後市中雑居を禁じた。 その団地を唐人屋敷という。 この建物は、旧要人屋敷内に遺存していたものを永久に保存するために、昭和35年(1960)長崎市が買収し現在地に移築した。 材料は中国特産の広葉杉(コウヨウザン・カンニンガミヤ属)であるので、主軸部の輸入が立証された。構造や細部様式も中国独特のもので、純中国建築として貴重な遺構である。
 建築年代は天明4年(1784)以降と推定される。
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 虚子・藺花(きょし・りんか)句碑
      昭和28年(1953)作
      昭和34年(1959)建立

  俳諧の月の奉行や今も尚     虚子
  去来二百五十年忌に値遇の縁  藺花

 長崎が生んだ俳人向井去来(むかいきょらい 1651〜1704)の二百五十年忌に寄せた高浜虚子と長崎俳壇のリーダー鍬先 藺花の句。 同門 道祖尾万水寄進芭蕉十哲の一人いわれた去来は文武に優れ、師の芭蕉は 「西三十三ヶ国の俳諧奉行」 と評し、信頼を寄せた。 虚子はこれを受けて、秋に亡くなった去来を、季語の 「月」 によせ 「月の奉行」 と詠い、今なお慕われる偉大な先人を偲んだ。
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 黄檗宗祖東渡三百五十周年記念碑
 中国明末の大禅匠隠元隆禅師が長崎に渡られて今年で三百五十周年に当たります。禅師は、長崎に一年滞在し、純粋な中国禅の指導に活動され、興福寺、崇福寺は全国から参禅を求める人々の大道場となりました。
 やがて、幕府より京都宇治に土地を賜り、黄檗山萬福寺を創建、黄檗宗宗祖となられました。隠元禅師の来日は、鎌倉以来沈滞していた日本の禅に正しい光を当てるとともに、建築、工芸、絵画、詩文、書および茶礼、食文化などの広い分野に現代にいたる影響を与えております。隠元禅師の長崎到着、承応3年(1654)7月5日を吉日とし、その清冽な宗風と偉業を末永く顕彰し、ここに隠元御書三幅対を記し記念碑といたします。
 
       鳥 唱 千 林 暁
       慧 日 正 東 明
       花 開 萬 国 春
                黄檗隠元書

            平成16年7月5日
            黄檗宗西日本地区協議会建立           
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 筆者、興福寺の山門前に到着したのは、2010年10月29日、17時50分でした。 山門の扉が閉まりかけたところを無理にお願いして、撮影させてもらいました。 ご厚意に感謝します。
 興福寺は日本最古の黄檗宗の寺院で、元和6年(1620)に中国僧真円が航海安全を願って小庵を作ったのが始まりです。
 当時の国際都市長崎の市民6人に1人は中国人で、徳川幕府のキリスト禁教令(1614年)が厳しく、長崎在住の中国人にもキリシタンの疑いがかかったため、仏教徒とであることを証明するため、出身地ごとに唐寺が次々と建てられました。 崇福寺、福済寺とともに 「長崎三福寺」 の一つです。
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長崎の旅 その18 崇福寺(3) 重文 護法堂と鐘鼓楼
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 県指定史跡 崇福寺 媽姐(まそ)堂 指定;昭和35年7月13日
 海上安全の守護神媽祖(まそ)を祀る媽祖堂は当寺草創後間もなく、現状より小さなお堂として建てられた。 航海安全を最上の願いとする来航唐商たちが祀っていた。 ここ崇福寺のほか、唐人の建てた興福寺にも媽祖堂があり、福済寺は観音堂の脇壇に媽祖を祀った。 寺に媽祖を併せ祀ったのは、長崎の唐寺の特色である。 来航唐船に祀る船魂(ふなだま)神の媽祖像は、在港中これら唐寺の媽祖堂に奉安した。 現在建物は寛政6年(1794)再建のものである。
 媽祖堂は唐人屋敷内にもあった。 天后堂という。
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護法堂、向かって左側、韋駄天を祀る。(別名韋駄殿)
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護法堂の中央、観音を祀る。(別名観音堂)
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向かって右側、関帝。(別名;関帝堂)
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 国指定重要文化財 崇福寺護法堂 指定;明治43年8月29日
 中央に観音、向かって右に関帝、左に韋駄天を祀るので、天王殿・関帝堂・韋駄殿・観音堂などの別名がある。
 黄檗(おうばく)天井・柱上部籐巻・挿肘木・扇垂木・鼻隠板・半扉など、中国様式であるが、屋根の妻飾は日本風であるから、軸部を中国で切組んだものを唐船で運び、日本人棟梁が建てたものと思われる。大梁下面に享保16年(1731)に建てた旨の墨書銘がある。梅花奇獣の浮彫りのある柱礎(ちゅうそ)も中国製である。
 昭和58年〜60の修理で、当初材は広葉山(こうようざん)であることが確認された。

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 国指定重要文化財 崇福寺鐘鼓楼(しょうころう) 指定;昭和43年8月29日
 上階に梵鐘を吊り太鼓を置いて、鐘楼(しゅろう)と鼓楼(くろう)を兼ねる。 鐘楼はもと書院前庭南隅にあったが、享保13年(1728)ここに位置を変え新築した。 軸部は中国で切組み、日本人棟梁が建てた。 建物の特徴は護法堂に同じ。 雨がかり部分だけ朱塗りである。 上層下層の比例に安定感があり、円窓・華頭窓・白壁の取り合わせの意匠も秀れている。 梵鐘は正保4年(1647)鍛冶屋町住の鋳物師(いもじ)阿山(あやま)氏初代の作。 県有形文化財指定。
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 県指定有形文化財 崇福寺の梵鐘 指定;昭和35年7月13日
 正保四年丁亥仲秋吉旦住持僧如理・冶士阿山助右衛門尉藤原朝臣國久と鋳込んであるので、崇福寺二代住持百拙が、1647年8月、鍛冶屋町の鋳物師阿山家の初代に命じ造らせたもの。 初代が造った梵鐘は六つあったが今ではこの鐘だけが残る。 鐘銘に当時の檀越名と寄進額が刻まれる。 29名・554両に上っている。 この頃の史料は残ってないので貴重な史料と言える。 このとき王引(心渠)54歳・何高材50歳・林守壂(大堂・林仁兵衛・唐通事)38歳・魏之瑗31歳と推定される。 この頃から王何林魏の四大檀越といわれた。 魏之瑗は通常琰に作り、瑗を用いるのは外には媽祖堂の扁額海不揚波の魏之瑗だけである。
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 市指定有形文化財 崇福寺大釜 指定;昭和43年11月20日
 第2代住持であった唐僧・千獃(千呆)性瓦、飢餓救済の施粥(せじゅく)のために造った大釜である。 延宝8年(1680)の諸国不作以来、米穀不足となり、天和元年(1681)には、長崎にも餓死者が出た。 福済寺2代住持唐僧慈岳や当寺の千獃は、托鉢や富商の喜捨などで粥を煮、多数の窮民を救った。粥の施しを受ける者は多い日には、3,000人から5,000人に及んだという。
 千獃は翌天和2年(1682)2月大釜を造り、4月14日完成。 鋳工は鍛冶屋町の鋳物師 案山弥兵衛と推定される。
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崇福寺境内にある土産屋さん。
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 寛永6年(1629)に長崎在住の中国福建省の人達によって建てられた崇福寺、古くは福州寺とも呼ばれていました。 一つの寺でこれほど文化財を擁するのは京都や奈良を除けば西日本随一の寺です。 全部で21もの文化財があります。 なかでも長崎にある3つ国宝のうち、2つ(第一峰門、大雄宝殿)がここ崇福寺にあります。 長崎の観光で欠かせない寺院です。 ちなみにもう一つの長崎の国宝は大浦天主堂です。
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